2022年1月31日月曜日

堕落の結果・・・・心と体

 皆様は、私たち一人一人の体の中で、常に戦争が続いていることをご存知でしょうか。

それは個々人の体の中における心と体の熾烈な闘いです。
本来、心と体は切り離そうにも切り離すことのできない、一つのものでした。
人間の心は神様の心であり、人間の体はその心を入れる器でした。

ところが、人間の堕落は人間の体を悪魔に引き渡したのです。
その時から人間の体は悪魔の僕になりました。

人間の良心は、神様を代表する心です。
良心は自分のために存在しません。天の義のために存在します。
良心は常に善に向かって走ろうとします。

それに対して体は反抗します。
体は自分だけが安らかであろうとし、利己的であり、本能的欲求に従って肉欲のままに行おうとします。
良心はこの体を叱責し、心に従わせようとします。
・・・・(中略)・・・・
ですから、昔から歴史を通じて、すべての宗教は自分の体を打つ道を教えてきました。
(平和経1359ページ)

私たちには体と心があります。
その体と心が一つになったときは苦痛を感じません。
体と心が一つになっていないとき、苦痛を感じるのです。
(天聖経379ページ)

私たち人間は、人生を生きる間、自分に最も近く、天下を与えても変えることのできない主人がいるにもかかわらず、知らずに罪に捕らわれて生きる哀れな群れだということを知らなければなりません。

その主人は正に自分の良心です。
この良心がどれほど皆様のために忠告し、疲れることも知らずに昼も夜も、悪い考えをすれば「おい、こいつ!」と言って引っ張り、峠を越え、川を渡るために、どれほど気をもんだことでしょうか。

真の主人の姿をもって私を保護しようとする心を裏切ったこの体、
・・・・(中略)・・・・
心と体が一つにならなければなりません。
(平和経1229ページ)

創造本然の人間は、その心と体に神様の真の愛を備え、それにそのまま感応しながら生活するようになっています。
言い換えれば、心は真の愛を中心として神様に感応し、体はその心に自動的に共鳴するのです。

心と体が闘うことのない真の統一の起源は、神様の真の愛をそのまま受け継いで体感するところにあります。
心と体が統一体になる人間の理想は、神様の真の愛を完全に所有する時に成し遂げられるのです。

心と体が真の愛を中心として統一されるところから、真の自由と平和の理想が出発できるようになります。
そして、心と体が統一された基盤の上で、自由で平和な個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を成し遂げることができるのです。
ですから、世界と国家の中においてではなく、個人の心と体の間において平和の基点を探さなければなりません。
(同470ページ)

真の愛の共鳴圏に入れば、天と地がはっきりと見えるようになります。
釈迦が「天上天下唯我独尊」と言ったその言葉も、その共鳴圏の核心に入ってみると、天下がすべて自分の手中に入っており、神様が自分の中におられ、天理が自分と共に連結されているので、そのような言葉を言うことができたのです。
真の愛の共鳴圏に入るようになれば、信仰も必要無く、救世主も必要ありません。
(同1234ページ)

人間の本性の無限な価値を喪失した人間は、いくら行楽の席で踊っても、悲嘆の声が良心の奥深くから、昼夜休まずに聞こえてくるというのです。これを避けることができないので、人間の行く道を苦行の道だというのです。これを解決するために修養の道を尋ね歩くのです。そのような苦悩は、男性でも女性でも、人間として生まれた誰にでもあります。これは、万民が共同で解決すべき一つの宿題だというのです。これを連結させて「私」が神様のみ前に行くようになる時は、万事が思い通りになるのです。(天聖経930ページ)



2022年1月23日日曜日

霊界

人間は、地上界で百年くらい生きて肉身の役割が終われば、自然に、そして自動的に無形世界の霊界に入って行くようになっているのです。
このように霊界は、肉身を土台として生きている私たちの目では見ることができないだけであって、地上生活の自動的で必然的な延長です。
神様が創造して下さった、人間の永遠の本郷なのです。
(平和経1571ページ)

 霊界は、いくら優秀で、いくら立派な知識人がいるとしても、彼が持っている知識を一週間以内に凌駕できる直観の世界です。
心の光を通じて見るので、そこに関連している世界は自動的に理解されるのです。
それは心情を通して見れば、「私」と相対的関係を持ち、主体的関係をもつようになるからです。(天聖経722ページ)

(iyo)上記は、アニメ「もののけ姫」の一場面を思い出すような内容です。たしか、「オコトヌシ」 というイノシシの頭領が、相手(アシタカ)の経験してきた記録を一瞬で吸い上げる場面がありました。

霊界を知らなければなりません。
何千年前の先祖たちが霊界に行って何をしているかを知るようになれば、どうなるのでしょうか。
必然的にその運命に引っ張られて行かざるを得ないことをはっきりと知ることによって、この地上の難しい問題も越えていくことができます。
(同721ページ)


腹中時代から、母親のおなかの中から出てくるとき、自分が暮らしていた所帯道具を抱えて出てきますか。
すべて破壊し、捨てて出てきますか。
一つでもぶら下げて出てくれば大変なことになります。

へその緒で食べ生きていたのですが、それを切ってしまえば死ぬようになります。
しかし、母親のおなかの中から出てくれば、それを切ってしまわなければなりません。
無慈悲に切ってしまわなければならないのです。
すべて破壊して出て来るのです。

人間は、時になれば誰でも母親の腹中での生活を清算して、地上界での生涯を始めるようになっています。
本人が願おうと願うまいと、宇宙の法則がそのように運行しています。
想像もできず、夢にも見ることができなかった広大無辺の新しい世界が拡がるのです。
水中生活の一生涯が終わり、地上生活の一生涯が展開します。
腹中生活の十か月が地上生活の百年に変わり、発展するのです。

そして人間は、色とりどりの変化無双な生涯を生きていきながら、最終段階である霊界、すなわち死後の世界のために準備する生活を送るようになります。
ですから、死ぬことを心配してはいけないというのです。
もっと良い所に引越しするのです。
(同698ページ)


地上での百年は、つかの間です。この世の中で生きる堕落した人々は、この世が一番だと思って生きています。何も知りません。それは腹中から生まれていない胎児と同じです。(同730ページ)


人間の一生は短いのです。
生涯において十年がいつ過ぎたのか分からないのです。
結婚して三十年以内に、すべての物が決定します。
ですから、人生の道はいつも待っていません。忙しいのです。
そして、一度はみな死ななければなりません。
死なない自信がありますか。
死ななければなりません。
死ねば霊界に行きます。
この世は束の間です。
十か月の腹中生活と同じなのです。
(同700ページ)


霊界と地上世界は、断絶された別の世界ではありません、一つの根本の存在原理のもとで相互交流し、授受する関係にあります。
私たちの教会も、本来、神霊を通じて統一する神霊協会として出発しました。
神霊とは何ですか。
一時的、配分的な霊力や霊的作用のことをいうのではありません。
真の愛を中心として霊界と人間世界が調和し、共鳴することができる神様の愛の力です。
ために生きて投入する真の愛の生活を通じて、人の心に感動を与えることはもちろん、霊的世界の協力も得る運動が、統一教会の運動です。
(同792ページ)


天国は一人では入れません。
人間の先祖が思春期を過ぎて、神様を中心とした愛の理想を完成して生活し、真の愛の種を残して父母になって先に入るべきところが天国です。
ところが、まだ神様の愛を中心として、この地に愛の種を残した父母が無く、そのような子孫を残した基盤を形成できなかったがゆえに、天国は空いているのです。
(同723ページ)


霊界は愛の空気で出来ていますが、皆さんの霊人体が準備できずに天国に入っていけば、息ができません。
地上世界は空気で出来ていますが、あの世は愛の世界です。
皆さんの霊人体が愛を感じられるように準備しなければなりません。
そのようにできずに霊界に行けば、関係を結ぶことができません。
問題が大きくなります
。何千万年もかかるのです。
・・・・(中略)・・・・
地上で愛を呼吸する人は、死んでいるのではなく、生きているのです。
・・・・(中略)・・・・
ご飯だけ食べていてはいけません。
この期間に何を満たさなければなりませんか。
この期間には、新しい愛の人格を形成しなければなりません。
(同700ページ)


本然の世界に基づいて、私たちが生まれ、生きてから、行くべきところはどこでしょうか。
これがはっきりしていません。
ですから一般の人たちは、霊界があるのかないのか、神様がいるのかいないのか、分からずにいるのです。

しかし「統一原理」を学んだ人たちは、霊界が確実にあることを知っています。
信じているだけではなく、知っているのです。
なぜでしょうか。
多くの体験を通じて知るのです。

今日、統一教会が世界的な基盤を形成するに至った背後を調べてみる時、多くの体験過程を経てきたというのです。
・・・・(中略)・・・・
ある人は、「神様がいるとしても私たちとは関係ない」と思うかもしれませんが、それは誤った考えです。

「霊界があるとしても私とは関係ない」と言うのは、まるで「私は家庭の一員であって、国は必要無く、世界も必要ない」というのと同じです。
・・・・(中略)・・・・
使徒パウロが霊界の第三の天(コリント2-12-2)を見て体験したことが、彼にとって根気強く宣教活動を続けることができた原動力になりました。
(平和経703ページ)


2022年1月20日木曜日

家庭は幸福の基地

過去、現在、未来が連結される最小限の基準が家庭です。
家庭は世界の縮小体と同じです。そこでは、過去と現在と未来が連結されます。家庭には、祖父と父と息子が共存します。父が祖父の立場に上がるようになれば、自分が父の立場に上がって息子、娘をもつようになります。祖父から父、自分の三代が一つにならなければなりません。すなわち過去、現在、未来の三つの関係が一つにならなければならないのです。そのような家庭は、世の中がいくら揺らぐとしても、揺らぐ社会の侵犯を受けず、幸福の土台を保つことができるのです。(天聖経484ページ)

家庭には、祖父母、父母、自分たち夫婦、息子、娘の四段階が存在します。これを拡張したものが世界です。世界にいる自分の父母のような年代の人々、自分の夫と妻のような同年配、自分の息子、娘のような人々を愛さなければなりません。家庭において父母の愛を中心として一つになったのと同じように、世界の全人類をそのような基準で、自分の祖父母、自分の父母、自分たち夫婦、自分の息子、娘のように愛さなければなりません。神様が愛の相対を造るためにより投入したのと同じように、自分の家庭よりも愛さなければならないのです。(天聖経484ページ)

家庭を見るとき、家屋が良く、その周囲の環境が良いといって、良いわけではありません。反対に、いくら環境が悪くて家がみすぼらしくても、それを安息所として、そこに自分の事情と生涯と生活のあらゆる基準を結びつけようとする家庭が、良い家庭なのです。そこには、父母と子女の間に、互いのために思いやる心情があります。これが追憶の本郷であり、あらゆる生活の動機になるので、私たちの生活で幸福を左右する基礎になります。それはなぜでしょうか。父母と子女の間には、誰も侵すことのできないたった一つの愛の関係と、たった一度しかない血統的な愛の関係があるからです。そこでは、父母と兄弟の愛が動機となっているので、私たちの生活に慕わしい対象として連結されるのです。(天聖経485ページ)

 人にとって幸せな環境とは、どのようなものでしょうか。
幸せな環境にある人とは、父母の愛を受けられる立場に立った人です。
その次には、夫婦の愛を互いに授け受けできる立場に立った人です。
その次には、子女を愛せる立場に立った人です。
その次には、兄弟の愛が分かる立場に立った人です。

そのような内容が分かってこそ、国家と世界を発展させることができます。
したがって、幸福の母体になることができるのは、完全な家庭の円満な父母と夫婦、そして子女を中心とした愛の基盤なのです。

私たちは、家が絶対的に必要です。
完全な幸福の根拠地である家を離れては、国も、世界も、いかなる目的も成立しません。
私たちは、神様が望む家を中心とした父母、夫婦、兄弟にならなければなりません。
幸福の要因や願望の要因も、家を中心として国家と世界に広がっていきます。
神様が望む出発点と決着点は家庭です。

しかし、私たちは神様が理想とする家を築くことができませんでした。
むしろ破滅と不幸に近づいているのが、私たちが暮らしている家だというのです。
最高の幸福の根拠地である家が絶望の根拠地になり、不信の根拠地になるとは誰も知りませんでした。
神様は、これを蕩減復帰するために、今まで役事(働き)してきました。
そのような家庭的な不幸は、アダムとカインの時から始まったのです。
(天聖経499ページ)

ある人は、「会社に行っても愛を探すことができる」と言うかもしれませんが、違います。会社は物質を通して利益を得ようと連結されたところです。

また、政治の分野は、人同士が自分の権益を得るところです。
そして、宗教も、神様を見出すありとあらゆる方法があり、それぞれの宗教で異なる方法があります。
それで神様を見出すことは出来ますが、愛は見いだせません。
真の愛は家庭で探さなければならないのです。

いくら会社に出て行ってお金をたくさん稼いでうまくいったとしても、愛する家庭のない人は不幸な人です。
また、いくら政治の分野に進出して大統領になったり、国会議員になったりしたとしても、帰ってきて愛することのできる愛の家庭がなくなるときには、不幸な人です。
(天聖経500ページ)

人間の生活において、ある人を幸せな人だというとき、何を基準として幸せだと言うのですか。
外的な能力、権勢、権威をもっているからといって、幸せな人だと言うことはできません。何不自由ないほどお金があるといって幸せな人ですか。
違います。
世界的な知識を有していて、世界を意のままにできる位置にあるからといって、彼が幸せな人になることができますか。
決してそれだけで人が幸せなのではありません。
この地のすべての人間が、幸福の根拠地は家庭だと一般的に感じ、体験し、認めながらも、いまだに幸せな家庭の基準をもつことができずにいます。
ですから問題は家庭です。
(天聖経501ページ)

アダムが完成することによってエバも完成し、そのアダムとエバが完成することによって愛を中心とした家庭が出発するのです。そのようになったなら、完成した家庭から氏族、民族、国家、世界は、神様に侍る一つの国になり、民族になったに違いありません。そして、その中心は神様とアダムとエバになったでしょう。
そのように、神様がその中心となることによって、生活やアダムとエバの一生の路程は、神さまと共に生活する歴史的伝統として残ったのです。そのようになれば、生活様式や習慣、風習、歴史的伝統は、神様と共に生きる生活、神様の愛で結びつけられた伝統となったに違いありません。(天聖経490ページ)

天国は「私」が父母を愛するように、年を取った人々を愛することができる世界、兄弟を愛するように世界の人類を愛する世界、そして、夫婦同士で愛し合うように自分と同年配の人々を愛する世界です。
家庭的な心情を中心とした、大宇宙的な人格観を中心として生きる世界です。
そのような人々の家庭が全体化した社会的形体が、天国社会だというのです。
天国は、私の家庭を拡大した世界、私の兄弟を拡大した世界なのです。
(天聖経502ページ)

家庭は、天国に行くことのできる訓練所です。
修練所だというのです。
世界には、祖父や祖母のような人々も暮らしています。
家庭を拡大すれば、世界と全く同じなのです。
父母の年代、夫や妻の年代、息子、娘の年代を拡大したのが世界の人類です。
ですから、家庭で訓練されたことを四方に拡大させて、ために生きる愛をもって生きる人は、天国に行くことができます。
家庭は、天国に直行できるようにする修練所なのです。
(天聖経504ページ)

人間は成長期間を通して、神様の愛を段階的に体得します。
生活の中の経験を通して、父母の愛、夫婦の愛、兄弟の愛、子女の愛を順次的に体得するようになっているのです。
この四種類の愛と心情がとどまる基台が家庭なので、家庭は人間の愛と幸福、そして生命と血統の基地になるのです。
このように、真の愛の家庭は、人間の願いであると同時に、神様の創造目的の根本でもあります。
人間の個体や家庭、そして社会や環境の真の完成は、家庭の中で真の愛の具現にその根を置いています。
(平和経477ページ)

皆様。家庭はなぜ良いのでしょうか。それは父母の愛を中心として、本然の自由活動の基地になっているからです。見た目はいくらみすぼらしくとも、輝く真の愛の核をもつ心情で結ばれた人間で構成される本然の家庭となるとき、そこにおいて人間はもちろん、神様までもが真の自由を感じられるのです。愛が欠如した自由は、真の自由ではありません。私たちがある家に客として行ったときに不自由さを感じるのは、まだその家と深い愛の関係を結ぶことができていないからです。すなわち、愛の関係が四方性を備えることができずにいるので、ぎこちなく不自由なのです。
それでは、本然の家庭で最高、最上の価値は何でしょうか。それは本然の父母です。本然の父母は、なぜ素晴らしいのでしょうか。永遠の愛の主体だからです。愛を中心として一生の関係を結ぶことができる最も近い場所にいらっしゃる方が、正に本然の父母なのです。私たちが生まれて最初に、喜びを交わし合う相手が本然の父母です。したがって、本然の父母は、私たちの喜びの主体であり、また対象でもあるのです。
私たちが喜ぶとき、最初に喜んで下さり、私たちが悲しいときも、誰よりもさきに悲しみの涙を流す方が本然の父母です。ですから、ふぼのない子女を孤児と呼び、孤児はかわいそうな人として扱われるのです。次に、愛する夫と妻が本然の家庭で最も善い価値的存在となるのです。
夫と妻は条件的な愛ではなく、無条件的な本然の愛を交わす夫婦でなければなりません。たとえ初めから、天が与えた絶対的で永遠な次元の愛の関係で始まった愛ではなかったとしても、夫婦という絶対的次元の関係を土台とした相対関係で結ばれた本然の愛になれば、その愛こそが家庭に幸福と喜びを抱かせてくれる根幹となるのです。しかし、このような理想的な本然の夫婦関係が、夫婦関係それ自体だけで終わってしまったら、絶対的価値を内包した永遠な幸福と喜びにはなり得ません。夫婦の前には、必ず本然の子女がいなければならないということです。夫婦二人だけで子女を生まず、幸福に暮らそうとしてみてください。そうすれば人類は二代を越える前に滅亡してしまうでしょう。本然の子女から返ってくる愛を受けて暮らすことができてこそ、真の夫婦が本然の父母の位置まで上がるようになるのです。
その次に貴く重要なものが、本然の父母のための子女の愛です。絶望ではなく、あすの希望として芽生える理想的な環境を慕いながら、明るく肯定的な姿勢で、子女が本然の父母のために犠牲となり、愛することができたとすれば、その愛は、家庭の幸福のための、純粋で真実な価値としての本然の愛となるのです。
このように本然の家庭で三代圏を形成し、本然の父母の、子女のための犠牲的な本然の愛と本然の夫婦間の真の愛、そして本然の子女による、本然の父母のための真の愛が完璧に備わった本然の家庭があるとするならば、その本然の家庭は、人間世界で最も理想的な真の家庭となるのです。(平和経1117ページ)

家庭というものは、人類愛を学び教える学校です。
父母の温かい愛を受けて育った子供は、外に出て行けば、家で学んだとおりに、困っている人を愛の心で助けるでしょう。
また、兄弟姉妹の間で情け深い愛を分かち合って育った子供は、社会に出て隣人と厚い情を分かち合って生きて行くでしょう。
愛で養育された人は、世の中のどんな人でも家族のように思うものです。
(真の父母経233ページ)

皆様。共に生きる生活の典型は家庭です。
父母と子女は愛と尊敬で、夫婦は相互信頼と愛を土台として、兄弟姉妹はお互いに信じて助け合いながら、一つになって暮らす家庭の姿が、正にモデル的理想家庭なのです。
真の愛の根に、真の愛の幹が生じて、真の愛の実を結ばせる、真の家庭を取り戻さなければならないと言うことです。
そのような家庭には、歴史の根が生きており、天国の根が張っているのです。
地上天国の根が張っている所が、そのような家庭です。
永遠に継続する王権の根も、ここに定着するのです。
・・・・(中略)・・・・
神様も、どこかへ外出しても懐かしく思って、再び訪ねて来られる家庭を築きなさいというのです。
父母が子女の家を訪ねるように、喜びの心で気楽に訪ねられる過程を準備しなさいということです。
それが、正に神様に侍って暮らす生活です。
(平和経1579ページ)

いかなる人も家庭の基盤を通して人生の道を整え、そこで生み、それを中心として東西南北を往来し、上下を往来しながら生き、そして逝くのです。このように見るとき、家庭の幸福を得ることができなかった人は、国の幸福を求めることができません。いくら国を求めたとしても、国のどこに住みますか。自分が行くべき所がなければ不幸なのです。家庭に行ってこそ、父母がいて、家庭に行ってこそ夫や妻がいて、そして家庭に行ってこそ子女がいるのです。(天聖経500ページ)

以下は、平和という観点から、第九回「科学の統一に関する国際会議」での学者たちを相手にしての講話です。(1980/11/27 マイアミのヒルトンホテルにて)

平和は、世界的段階に限って求められるものではなく、国家や社会、または家庭の段階においても願われています。
さらには、個人においても心と体の平和を渇望しています。このような平和に対する様々な段階のうちで、最初に成し遂げられなければならないものはどれでしょうか。
先に世界平和が成し遂げられるならば、その基盤の上に国家、社会、家庭、そして最終的には個人の平和も成し遂げられるだろうと考えがちです。しかし、これは誤った見解です。
それは、実際に平和を成し遂げるために必要な順序とは反対です。ですから、先に個人的な平和が実現されなければなりません。その次に、家庭の平和が成し遂げられ、そのような基盤の上に、社会と国家、そして世界といった、それぞれの平和を期待することができるのです。これは個人が家庭の基本単位であり、家庭は社会と国家の基本単位だからです。
多くの指導者たちは、優れた組織と立派な思想を通して、社会秩序と世界平和を回復することができると信じています。しかし、現実において、ただ単にこのような二つの手段だけでは、人類平和は絶対に実現されません。
国連のような国際機構と共産主義や民主主義などのような思想体系は、それぞれ独自の方法で世界平和を実現するために努力して来ました。しかし、平和はまだはるかに遠く、世界は時間が経つにつれ、ますます混乱状態に陥っていくのです。(平和経738ページ)




2022年1月17日月曜日

神様の存在

磁石にはプラス極とマイナス極がありますが、その極の間に絶縁体や紙のような妨げとなる物質があれば、それを貫いて作用します。
それがだんだん厚くなれば、作用はだんだんと鈍くなります。
さらに厚くしておけば、作用しないように見えるのです。しかし、作用はしているというのです。

それと同じように、人間が堕落したために神様と人間の間に何かが挟まっています。
これが全て塞がったように見えるのですが、良心はそこに向かっていつでも作用するのです。
これを開け放つ日には、その作用が強くなるのです。
その間の絶縁体を1つ1つ取り除いてしまえば、だんだんと強くなるのです。
それを全て取り除いた時には、完全に通じてしまいます。
学ばなくても、全て分かるようになるというのです。
(天聖経457ページ)

 
神様は「私」が存在する前にいらっしゃったのであり、私が考える前にいらっしゃったのであり、私のすべての感覚、私の一切を主管するお方です。
それを認識することが何よりも重要な問題です。
知って認識するのが原則ではありません。
認識して知るようになっているのです。
寒ければ寒いことを知って感じるのではなく、寒いことを感じて知るのです。
これと同じように、神様がいらっしゃるとすれば、神様がいらっしゃることを感じなければなりません。
細胞で感じなければなりません。
その境地が問題です。
(同23ページ)

皆さんは、漠然と、観念的にのみ神様の実存を認識してはいけません。
論理的な面でのみ神様の実存を認識しようとすれば、無理があります。
なぜなら、論理圏内だけにとどまる神様ではないからです。
(同24ページ)

私たちの周囲において、私たちも知らないうちに繰り広げられている天下の万象が、神様の愛と共に存在するものであるという事実を知りませんでした。

神霊的な境地に入ってみると、小さな砂一粒にも宇宙の道理が入っていて、一つの原子にも無尽蔵の宇宙の調和が入っていることが分かります。
存在するすべてのものをよく知ることはできませんが、ある複合的な力を通して現れた結果であることは否定することができません。
分子を越えて原子、原子を越えて素粒子のようなものは、無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的をもって存在するのです。
したがって、存在するすべてのものは、神様の愛のみ手を通って出て来たものであり、必ず神様と心情的な関係を結んで存在しているというのです。
天地万物は神様に似ています。万物は神様に象徴的に似て生まれました。
人は神様に形象的に似て生まれました。
(同93ページ)

神様がいるか、いないかについて、少しの間お話して見ましょう。
 私たちが人類始祖を求めてさかのぼれば、最初の人類始祖がでてくるでしょう。・・・・その生まれた最初の人類が、大地に生まれるとともに、太陽があることを、それ自体が知っていて準備して出て来たか、そうでなければ、それ自体は知らずに出て来たかということを考えてみます。
この地に出てくるとき、目は太陽があることを知らなかったでしょう。
しかし、それ自体は知らなかったとしても、あらかじめ天体に太陽があって、見ることが出来ることを知り、目をそのように生じさせたのです。
皆様の目をみるとまばたきしています。
それは、地の熱を受けて目の水分が蒸発するので、湿らせなければならないことを知っていたからです。
また、まつげは、ほこりを防止しなければならないことを知って生じました。
これを見れば、人間は博物学的、天文学的知識を基盤として生まれたということです。
そして、目はあらかじめ汗が流れて来ることを知っていました。
それを知って、この貴重なところに異物が入れば大変なことになるので、防波堤をつくっておいたのです。
そして、人が立って行き来することを知っていたというのです。
また、耳をみてください。あらかじめ音波が来ることを知って、それを聞き取れるようになっています。
また、鼻をみてください。
鼻がなぜこのように下にむかうようになっているかというのです。
鼻に汗や雨水が入ってはいけないので防波堤をつくって下に向かうようにしたのです。
すべて知ってつくられたというのです。
それらが自然にそのようになるでしょうか。
このように私たちの人体を見れば、神秘の王宮のようになっています。
これがただそのままそのように生じることはありません。

このように見るとき、人間が生まれるとき、自分自身は知りませんでしたが、それを知っていた方がいたか、いなかったかということが問題になります。
(平和経359ページ)


2022年1月7日金曜日

アダムとエバとイエス様

 アダムが失敗したために、代わりに送られたイエス様は第二アダムです。
聖書でも、イエス様のことを後のアダムと言いました。
先祖を失ってしまったので、真の先祖を復帰しなければなりません。
(真の父母経42ページ)

堕落していないアダムとエバは、人類の真の先祖です。
真の父と母です。体をまとった人類の真の父母です。
そのアダムとエバが堕落したため、人類がサタンの子孫になったのです。
アダムとエバが堕落せずに、本然の神様の心情に通じて、神様が喜ばれる中で、善男善女として成婚式を執り行い、人類の真の父母になったとすれば、万物はアダム、エバと和動しながら、喜んでその過程に必要とされるものになったでしょう。
(同25ページ)

アダムとエバを失ってしまったということは、アダムとエバの一族を失ってしまったことになるのです。
その一族が拡大されて民族になり、一つの国家を形成し、一つの世界に拡大されていたはずなのですが、すべて失ってしまったというのです。
ですから、アダムとエバを失ってしまうことによって、天の国の王権を中心としたその王国を失ってしまい、天の国の民族を失ってしまい、天の国の氏族を失ってしまい、天の国の家庭を失ってしまったのです。
堕落しなかったならば、アダムとエバは真の愛による理想的な真の夫婦になり、さらには真の父母となって、その子孫と全人類の真の先祖になったでしょう。
(同26ページ)

イエス様は、堕落していない真の父母でした。
真の父母の使命を持ってきました。
人間の先祖、アダムとエバは、堕落することによって堕落の血統をつくってしまいました。彼らは神様が望む本然の理想世界、堕落していない世界で、神様と一体になって神様の直系の血統を受けた息子、娘を生むべき真の父母になることができず、サタンと因縁を結び、死んだ子を生んだサタンの頭になったのです。
したがって、今日、人類はすべて、偽りの父母に出会いました。
ですから、偽りの父母の血統を否定して、真の父母に出会わなければなりません。
(天聖経173ページ)

(iyo )
上記に「イエス様は、堕落していない真の父母でした。」と書かれているので誤解されるかもしれませんが、この後の文章にもあるように真の母を兼ね備えているわけではなく、これから真の父母になる予定でした。平たく言えば、嫁さんを探し出し、家庭を持ち、子を生んで初めて父母です。
どこかほかに神の国をつくるわけではなく、自分自身が理想のモデル家庭となり、拡大して行かなければ神の国はできません。
アダムとエバはこの過程で失敗しています・・・・これは容易ではありません。それで神様もひと言「とって食べると死ぬぞ」とわざわざ警告されたのです。
アダムとエバの時は それでもまだ容易でしたが、イエス様の時代になれば周りには敵も沢山います。
イスラエル民族が、独身のイエス様の時代から完全にイエス様に従えば素晴らしいことですが、それでも、やがてはイエス様自身が家庭を持たなくてはなりません。アダムとエバが獲得できなかった人類始祖としての立場を達成できるようになれば「アブラハムの前から私はいるのだ」と言えます。・・・・当たり前の考え方だと思うのですが、既成の解釈は、イエス様と魔法使いとを混同しているところが大いにあると思います。

以下、ふたたび先生の講話です。

堕落がアダム家庭から始まったので、本然の姿に帰っていく復帰の目的は、アダム家庭の復帰完成にあります。神様は、世界と国を求める前に、民族と教会を求める前に、御自身の相対を求め、一つの中心家庭を求めるのです。
神様は、歴史を通して、御自身の理想的な対象になり得る真の家庭を求めてこられました。この真の家庭は、私たちが習慣的に生活してきた家庭とは、内容が根本的に異なります。
神様を中心とした理想的な真の家庭を探し出すことができなければ、理想的な国も世界も探し出せません。本然の真の家庭を先に立てなければならないという原則が、ここにあるのです。ですから、個人の救いが目標ではなく、真の家庭が救いの基本単位となります。
(真の父母経26ページ)

キリスト教の核心真理は、驚くべきものです。イエス様のことをひとり子と言いました。ひとり子とは、アダムのことです。堕落したので、ひとり子がいなくなり、ひとり娘がいなくなったというのです。ひとり娘は、サタンに奪われました。神様が造ったものを、サタンがすべて台無しにしたので、それを取り戻さなければなりません。アダムを中心としてエバを造ったのと同じように、天の新しい息子の種を送って、エバを再び創造しなければなりません。(真の父母経35ページ)

イエス様は、「私は神様のひとり子だ」と言いました。
ひとり子に必要なのは、ひとり娘です。
イエス様がこの地上で世界を救うために出発しようとすれば、一人ではできません。
家庭の土台を整えなければなりません。

ひとり子だと主張したイエス様の目的は、世界を統一して号令することです。
それをする前に家庭をつくらなければならないのです。
・・・・(中略)・・・・
一つのモデル家庭が出てこなければならないのです。
(真の父母経36ページ)

ユダヤ教とイスラエル民族が責任を果たせなかったので、イエス様は「再び来る!」と言われました。神様は四千年ぶりにひとり子を探して立てましたが、ひとり娘は探し立てられなかったのです。
神様がアダムとエバを創造したように、ひとり子がいれば、ひとり娘もいなければなりません。イエス様と聖霊の摂理が、正にそれです。(同33ページ)

神様は、六千年間何をされ、神様の一貫した歴史的な望みとは何だったのでしょうか。それは、一人の母を探し出すことです。アダムを送ったあと、すなわちアダムを再創造したあと、彼を通して一人の母を探し出そうというのです。これは再創造です。本来、神様がアダムを創造したあと、アダムを中心としてエバを創造したので、再創造においても、アダムを送ってエバを探し出すのです。つまり、母を探して立てるのです。(同87ページ)

イエス様は、イスラエルの国を中心として、世界を平和の王国にするためにこの地に来られましたが、いくら彼に能力があり、実権があってそれを成し遂げると考えたとしても、家庭を築くことが出来なければ失敗するのです。
世界は、家庭が集まってできるのです。
この家庭は、心と体が闘う人たちでは築けません。
いくら絶対的な権威をもって死の峠が迫ってくるとしても、天道を捨てる人になるならば、神様が願われる家庭を築くことはできないのです。
心と体が一つになったひとり子が、心と体が一つになったひとり娘を迎えて家庭を築くのです。
家庭をつくるまでは、世界を復帰したとしても、それをまた失うようになります。
家庭は血統が連結されたものです。
民族全体が血統で連結されれば、同族になるのです。
(同34ページ)

2022年1月3日月曜日

はじめに

昔からクラシック音楽が趣味で、読書にはあまり関心無く、愛読書というと挙げるのは漫画の単行本でした。
それが、ちょっとしたことから聖書に関心を持ち始めました。
最初は、やはり分かりやすいところで、創世記や福音書。
読むには、やや忍耐も必要でしたが、そのうち不思議なことに気づきました。
聖書を1時間くらいじっくり読んでからクラシックを聴くと、感動の度合いが明らかに違います。 自分でも驚くほど感動することが多くありました。
やはり聖書は特別な書物です。
恐らく、音楽以外に対しても、似たような効果はあるのだろうと思います。
私の場合は顕著なのがクラシックの器楽曲で、作曲家としては、バッハ、ベートーベンが多かったように思います。
バッハは殆ど全てですが、とりわけフーガの技法や、無伴奏チェロ組曲、ベートーベンは後期の弦楽四重奏曲や後期のピアノソナタなど。
ざっくり言うと、霊性を帯びたものが多いと言えるかもしれません。
逆に、変化の少なかったのがモーツァルト・・・・私としては好みの作曲家ビッグ3の一角なのに。
演奏形態でいうと、交響曲などの大編成ものよりは、室内楽やソロ。
一時は聖書を読んでからクラシックを聴くというパターンが病みつきになるほど。

この頃から聞き方にも変化が出てきました。
聴く側の自分自身の状態が問題だと感じたせいもあり、名曲や名演奏を探し廻ることも少なくなりました(と言ってもやはり名演奏はいいですね)。
音楽評論家の言などもあまり重視しなくなりました。

それでキリスト教にも関心を持ったのですが、どうも宗教というのは性に合わない気がして、それ以上の追跡はしませんでした。
はっきり言って、科学的にも論理的にもイマイチな感じ。

そのころ、道端で声をかけられ、連れて行かれたところで聴いた内容に、「堕落」とか「アダム」とか「エバ」とかいう言葉が混じっていたので、どうやらキリスト教がらみのようでした。
ただ、キリスト教らしくないので、特に抵抗を感じるところもなく、次の来訪も約束。
何度か訪問するうちに、統一教会と分かりました。
今では正体を隠して勧誘ということが問題視されたりしますが、当時はそんなつもりもないし、こちらが周りを見まわせばすぐに分かったことです。

日本では(特に当時は)、悪い噂の方が多い団体でしたが、彼らの出している「原理講論」という本を買ってみました。
最初は下手な文章だなと思いながら読んだのですが、それなりに整然としていて、一般的なキリスト教の教えほど迷信臭くはありません。
噂とは違って、そんなに悪い人も居なさそうです・・・・日本の場合、国民性も手伝って、一旦噂が流れるとなかなか消えません。
今では私も教会員です(・・・・そうは言っても、やはり宗教は好きになれませんが)

韓国生まれの宗教ですが、キリスト教から始まって、聖書を独自に解釈しています。
既存のキリスト教から見れば異端と言うことになりそうですが、私にとっては非常に自然な解釈に思えます。
例えば、イエス様は十字架につくために来た・・・・という話。
既存の教会では主流となっている解釈ですが、逆に一般の日本人などから見たら、これこそ信じられません。
原理の解釈には一貫性があり、さらにそれを通して聖書の中にも一貫性を発見できます。
ノアやアブラハム、ヤコブ、モーセ、リベカやタマルのとった行動が、本人達は自覚していないとしても、イエス様を出現させるのが目的だったことを教えてくれます。
さらにはその後のこと、近代・現代のことにまで切れ味鋭く応用が効きます。

さらに、教祖の文鮮明(ムン ソンミョン)師の生前の行動も、その理想的なお手本となっています(以後、単に「先生」と呼ばせていただきます)
想像を絶する紆余曲折を経た生涯ですが、見方によっては単純な一筆書きにも感じられます。
聖書的に言えばアルパとオメガが同じということでしょうか。
世の悪評は大変なものでした。
例えば、祝福式(合同結婚式)とか、根も葉もないことを随分と報道されました・・・・実際には極めて真剣で真面目なものなのですが。
・・・・にもかかわらず、その規模は次第に拡大し、今では国を挙げて推進しているところもあり、イスラム世界にも拡がっています。
先生はアメリカで刑務所にも入りました。
韓国に帰国すれば避けられるところを、敢えて刑に服しています(1984年)
これをきっかけにキリスト教会には逆に多くの同志ができました。
刑期を終えて出監した時、ワシントンDCでは著名な牧師さんがたによる歓迎晩餐会が開かれています(1985/08)
また、反共主義者としても有名です。
若いころは、血気盛んな言葉で共産主義を非難した講演もありますが、一方的に相手をやっつけるということではありません。
一時は共産国から命を狙われることもあったようです。
さらに北朝鮮にも出向き、金日成主席と歓談し、その交流は世代を超えて今も続いています。
・・・・かと言って、方針を曲げたのではありません。
まさに生涯に渡り、敵を愛し続けた方です。
新聞社なども沢山作り、芸術や教育分野にも踏み込んでいて、様々な分野に足跡を残して行かれました。

もちろん原理は、地上世界だけでなく、あの世や神様のことも解いています。
聖書には最初から神様が出てきますが、それを当然の書き方として記述が進みます。
・・・・創世記を見ると、人類始祖は神様と一問一答できましたので、その書き方こそ当然なのかも。
人類は始祖の段階で堕落したので、生まれて来るのは全てその血統です・・・・この世には正常な人間がいない?
堕落によって、人間は呆れるくらい阿呆で鈍感になったのでは・・・・?
上にも書きましたが、阿呆鈍感状態では音楽を聴いても感動しません。
堕落というのは、どのくらい深刻なんでしょうか・・・・人間にとって、神様にとって。
イエス様は、当時の人たちを「死人」と呼び、「へびよまむしの子らよ」とも呼んでいます。
我々は死人? マムシ?
真偽の区別が付けにくいこの方面も問題山積みです。
どこかの優れた学術資料や統計資料を持ってきて解ける問題とは、別次元の課題でしょう。
呆れるくらいの阿呆で鈍感を直すことができれば、神様の存在等は当たり前のことになるかも知れません。

一人の人によって解明された教えが、非常に短期間で世界展開されましたので、時に悪評が凄かったのも事実です。
そう見られて仕方ない部分も、少なからずあったとも感じますが、先生の解かれた以外の噂や言動が原因で、価値が霞んでしまうのは残念です。(・・・・私も気を付けなくては!)
とりわけ初期の頃は、若者ばかりで中年以上の年齢層が殆どいない状態でしたので怖いものなし・・・・教会というより新選組!、特攻隊?
まあ、プルトニウムの半減期ほど長くないでしょうが、このような傾向はもう少し続くだろうとも思います。
また個人的には、多くの人が(いわゆる)宗教としか見ていないことも残念に感じています。
呆れるくらいの阿呆で鈍感を直した立場から見たら、これほどオーソドックスなものは他にないかも!

使徒行伝5章 律法学者ガマリエルさんが言っておられますが、
人間から出たものなら自滅するかも。しかし、神から出たものなら、滅ぼすことはできないでしょう。まかり間違えば、皆さんは神を敵にまわすことになるかもよ!
あるいは、先生の言を借りるなら、
「神様のみ旨でなければ、そのまま放っておいても遠からず自然と滅んでいきますが、神様のみ旨である場合は、いくら迫害しても滅びません。」(1976年 ヤンキースタジアムでの講演)

このブログでは、多くを先生の講演や説教、講話などから引用しています。
数万人の観客を前に語ったこともあり、ごく一部の信徒相手の場合もありますが、引用の際にはこれらを一様に「先生の講話より」と表記しています。
特に頻繁に使用した書物については以下のように表記し、続けてページを示します。
「天一国経典 天聖経」・・・・単に「天聖経」と表記
「天一国経典 平和経」・・・・単に「平和経」と表記
「天一国経典 真の父母経」・・・・単に「真の父母経」と表記



途中に「(iyo)」と記して文章を続けているのは、私のコメントです。
また、これらの書物では先生のことを指して ”お父様” とか ”父母様” とか、教会の信徒向けに、より親しみを持った表現をしているところがありますが、この場合にも(先生)・・・・カッコで囲んだ先生・・・・に変えているところがあります。

現在、旧統一教会(当時の正式名称:世界基督教統一神霊協会)は、以下のように名称変更しています。
 「世界平和統一家庭連合」
 英語名:「Family Federation for World Peace and Unification」、略称:「FFWPU」

***
追記
このブログでは、イギリスの歴史家アーノルド・トインビー氏の著書をもかなり引用していますが、ブログを書き始める時点では予定していないことでした。
主著「歴史の研究」を読み進める(拾い読みですが)うちに、「この方は神様を良く知っていそう!」と思うようになりました。

「試練に立つ文明」には以下のようなことが書かれています。
「人間は知力や技術的なこつにかけてはまぶしいばかりの成功者で、精神の問題においては惨憺たる失敗者」であり、
「神との正しい関係を結ぶことに至っては、まったく札つきの不細工者」であり、その歴史については、
「非人間的世界と、他方、精神的世界における、人間のそれぞれの業績のあいだの著しい不釣り合いが、少なくとも現在までは(前述したように)左巻きにばかり進んできたということが、この地上における人間生活の一大悲劇」とのこと。
(「試練に立つ文明(社会思想社)」より「歴史は人間の魂にとって何を意味するか」 深瀬基寛訳)

この人の考える人間の標準とはどんなものなのか?・・・・やはり今の人間は「阿呆鈍感状態」・・・・この言葉に大賛成して下さっているような気がします。

***
そのほか、トインビーさん関連等の参考文献、引用表記については こちら

人間の創造

 創世記1章26~27節を見ると、
 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
とあります。

帰納的に見ると、神様の中には一人の男性と一人の女性がいるということです。
それが一つになって、一つの主体として現れたお方が神様です。
そして、このような性稟に似て現れたのがアダムとエバです。(天聖経87ページ)

聖書で見るように、神様が人間を造る時、「おい! 人よ、現れよ」と言って簡単に造ったのではありません。
神様は、あらゆる生命と愛と希望を懸けて人間を造りました。
・・・・(一部略)・・・・
相対に100パーセント投入したのです。(同82ページ)

神様は、なぜ人間を創造されたのでしょうか。
第一に、無形でいらっしゃる神様は、実体を持った人間の父母になられるために実体の人間を創造されたのです。
実体がなければ、実体世界の中心の位置に立つことはできないからです。言い換えれば、神様は形態が必要だったのです。父母としての姿が必要だったということです。アダムとエバを通して、人類の実態の父母の役割をしなければならなかったのです。
第二に、無形に存在する神様御自身は、完成した子女を生産できません。縦的垂直線は一点に留まります。霊的な無形の世界では繁殖が無いのです。垂直次元からそれを横的に展開して360度を形成し、球形を形成してはじめて空間ができ、繁殖が可能になるのです。
従って神様は、天国市民を生産する生産工場が必要だったのであり、その結果、横的なこの地上界を創造されるにいたったのです。
第三に、愛の相対圏の永遠性を維持するためでした。このように神様は、御自身の愛の相対圏を永続的に保全しようと考えて人間を創造されたのです。(平和経1302ページ)

神様のみ旨は、誰において実をむすばなければならないのでしょうか。これはどこまでも相対的関係です。相対的関係においてみ旨が成就されるのです。創造目的の完成が、結局のところ誰において結果を結ぶのかというのです。アダムとエバにおいて実を結びます。人間において実を結ぶのです。結局は、アダムとエバにおいて創造目的が完成されるということです。(天聖経387ページ)

子女として造られた人間が成長して完成し、神様から祝福結婚を受け、真の子女を繁殖し、真の永遠の理想天国を成し遂げて生きる姿を見て、喜びを感じようとしたのが神様の創造目的でした。愛の主人となる道は、まず相対のために自分を徹底的に犠牲にして投入する、そのような真の愛の実践を通して開かれるようになります。
神様は人間を創造されるときも、まず御自身が絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を立てて、100パーセント投入されたのです。相対圏を絶対価値圏として立てるのです。
愛の主人は、独りでなるものではありません。必ず対象を通して成立するものなのです。この絶対的価値圏の愛の原理の前では、神様も同じなのです。子女がいなければ、父母は永遠に愛の主人になれないように、神様御自身が絶対愛の主人の位置に立つためには、その相対圏である人間を、絶対愛の価値圏に立てなければならなかったのです。絶対主体と絶対対象の価値観が生まれて、初めて完成するのです。(平和経1114ページ)

コリント人への第一の手紙第三章16節に、「あなた方は神の宮であって、かみの御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」という内容があります。人間は神様の聖殿であり、人間の心の中に神様のみ霊が臨在していらっしゃるということです。人間がそのような立場にあるので、神様は人間にとってはまさに父になります。それが出来なくなってしまったのが人間の堕落です。
私たちの体は聖殿です。神様が臨むことのできる家です。(天聖経91ページ)

創造理念は、(プラスとマイナスの)両性の中和体としていらっしゃる神様の性相を二性に分立したのちに、再び神様の本性相に似た姿に合性一体化します。
一人の男性と一人の女性は、各々神様の一性に似て現れました。従って、これらの一男一女の結合は、神様のプラスの性稟とマイナスの性稟が一つとなることです。すなわち、神様に似た中和体となるのです。
ですから、二人、すなわち夫婦は、神様の全体を表象する結合体です。
男性は神様のプラスの性稟を身代わりすることによって真の父の分身となり、女性は神様のマイナスの性稟を身代わりすることによって真の母の分身になります。
私たち人類の父が神様です。私たちは神様の息子、娘です。
・・・・(中略)・・・・
宇宙の中心について一言で結論を下せば、父子の関係だというのです。(同72ページ)

その父子関係とは、天地を創造した絶対的な神様と、堕落していない本然の人間との関係です。
人類が到達すべき本然の価値の位置は、神様が父であり、人間は子女だという位置です。
宇宙の根本はなんでしょうか。始まりは愛であり、結果は父と息子です。
神様は、愛を中心として父子関係を結ぶために宇宙を造りました。
ですから、宇宙の根本も父子関係です。(同74ページ)

創造する前と創造したあとでは違います。創造する前は自分のことを考えましたが、創造を始めてからは、対象のために生きる時代に転換されるのです。
・・・・(中略)・・・・
神様は、どうして人間を創造したのでしょうか。息子、娘の生命を見るために創造したのではありません。その息子、娘と共に愛するために創造したのです。いくら考えてみても、そのように言わざるを得ません。人間を創造した目的は愛のためです。神様の愛を中心として、その基盤から生命が創造されたのであって、生命を造って愛を誘発させたのではありません。
・・・・(中略)・・・・
始まりが愛だったので終わりも愛でなければなりません。そのため、愛を抜いてしまえば人間は不幸なのです。(同372ページ)

神様の創造過程を見ると、最初に極めて小さいものを造るその動機から相対的観念を持ち、目的を具現したその目的体に新しい動機を加え、より大きなものに発展させてきました。
そうして、その段階を高めて目的に動機を加え、相対的観念を加えて具現し、またその目的が動機となり、だんだんと次元を高めて人間まで創造してきたのです。(同85ページ)

神様が被造世界を造られた目的は共に生きることですが、今日、人間と万物、あらゆる存在物が神様と共に生きることができる圏内にいません。堕落によってそのようになったのです。堕落したために、神様が臨在できる根拠地が消えるようになったというのです。
そうだとすれば、神様がアダムとエバを失ったその日から今日まで、人間を探し求めるのはなんのためでしょうか。
それは、人間が神様の宮になり、神様の体になり、神様と一体となって、天と地を身代わりした一つの実体存在になれば、人間の喜びが神様の喜びになり、神様の喜びが人間を通して万物に連結されるからです。
すなわち、人間が神様と万物を結びつける中間媒介体だからです。(同86ページ)

天地創造(被造世界の創造)

 旧約聖書を見ると神は6日で世界を創り、7日目には休まれたとあります。

4日目までは、光、やみ、天体、水など、多くは生き物以外(例外もあり)

5日目に人間以外の多くの生き物

6日目に人間

7日目に休憩(作業を終えて休まれた)

7日で創ったとは、さすが神様!・・・・と言いたいところですが、この7日は人間がカウントする日数とは違うようです。

非常に長い時間がかかったとも考えられます。


先生の講話より

聖書では、神様は全知全能なので、言葉一つで「このような天地になれ」と言ってそうなったとあります。
しかし、そのようにはなっていないのです。
神様は、あらゆるものを投入したというのです。もっている力をすべて投入しました。
もっている愛の力をすべて投入して、未来に、御自身の愛する息子、娘、御自身の愛する家庭のための贈り物として万物を造ったというのです。創造とは力の投入を意味します。この世の中に芸術家がいるなら、その芸術家は傑作を作ることを願います。芸術家は傑作を造るために、ありとあらゆる思いと精誠を投入します。
・・・・(中略)・・・・
投入するのは、それが自分に結実するようにするためではなく、相対に結実させるためです。
ですから、愛で造りました。(天聖経83ページ)


自分を投入して自己意識を感じるのではなく、自己意識を忘れて、より相対的な目的が成し遂げられる価値を追求することに、自分のすべてが吸収されていくのです。

結局は、神様も創造した人のために生きる立場に立つということです。それが創造の原則です。(同84ページ)


神様はお金を願うのでもなく、知識を願うのでもなく、権力を願うのでもありません。
そのお方は、全知全能のお方であり、創造の能力を持っていらっしゃるので、そのお方には欠如したものがありません。
しかし神様にも、たった一つ必要なものがあります。神様にも愛が必要です。
愛が必要なのですが、一人では愛することができません。相対が必要です。
このような観点から見てみるとき、愛のために宇宙を創造したと結論づけることができます。(同94ページ)


なぜ神様は、天地を創造されたのでしょうか。神様は絶対的な主体ですが、主体だけでは喜びが無いからです。喜びというものは、一人でいるときに生じるのでは無く、相対的関係において生じるのです。平和も幸福も、相対的関係においてのみ成し遂げられます。ですから、神様も、独自的な立場では神様の本分を果たせないというのです。(同902ページ)


神様は、相対を造るときに、完全投入することによって、より価値のある理想的な完全形を展開したのです。
神様は、アダムとエバを造れば、アダムとエバのために生きようとするのです。
神様のためではありません。
自分のためにいた時から、相対のために生きる時へと展開して行くのです。
理想的存在というものは、自分を中心とはしません。
理想的存在は、他のために生きるところに、対象のために生きるところに存在します。
この原則が宇宙の根本です。(同82ページ)


神様は、情、知、意を合わせた内容を備えた人格的な神様です。
そのような人格的な神様が最高に願うものが愛なので、その愛の対象のために人間始祖を造りました。
キリスト教の神学は、創造主と被造物について、創造主は神聖な方であり、被造物は卑しいものだとしています。
神様が理想的な愛の相対者を求めようとする相対理想が絶対に必要だと考えるとき、それはあり得ないというのです。
神様が神聖であられるからには、その神聖な方が相対理想を通して求めようとする愛の対象者も神聖だというのです。(同52ページ)


父母は愛する子女に対して、全体を投入しようとします。
神様と同じです。神様は、神様のために投入したのではありません。
神様のために存在するのではなく、相対のために存在しようという、相対のための神様の位置に立とうというのです。神様が神様のために存在しようといえば、それは真の愛ではありません。
自分をすべて子女に投入して、その子女と共にいようとするところにおいて、愛と生命と希望が成り立ちます。
結局、真の愛と真の生命と真の希望を持ったそのお方が最初に人間に与えたいと思うのは、真の愛と真の生命と真の希望です。
それを与えるときに、自分の立場で与えたのではなく、相手の立場に立って与えたというのです。(同82ページ)


神様の創造過程を見ると、最初に極めて小さいものを造るその動機から相対的観念を持ち、目的を具現したその目的体に新しい動機を加え、より大きなものに発展させてきました。
そうして、その段階を高めて目的に動機を加え、相対的観念を加えて具現し、またその目的が動機となり、だんだんと次元を高めて人間まで創造してきたのです。(同85ページ)


神様が創造をなさるとき、最初に人から造ることはしませんでした。
先に環境を造っておき、その環境の中に入れたのが主体と対象の概念です。
ですから、この創造の環境の中にある鉱物世界、植物世界、動物世界のすべての物は、どんなものであっても、レベルの高低を問わず、主体と対象の関係、すなわちプラスとマイナス、雄と雌、男性と女性のように相対的関係の存在として配置されているのです。
ですから、鉱物世界もプラスとマイナスが一つになるのです。
植物世界、動物世界、このすべての世界が同じようになっています。
天地創造の道理を見れば、核心を先に造ってから相対をつくったのではありません。
核心をつくる前に、相対的な条件を造っておいたのです。
人を造るために土を先に造っておきました。
外的なものを基盤として内的なものを立ててきたのです。それが天地創造の道理です。
現在の物よりもさらに大きなもの、価値の小さなところからより価値のあるものを求めていくのです。
天地創造の道理がそのようになっているのです。
人間の創造を見ても、体を先に造っておいてから霊を吹きいれたのです(同609ページ)


創造主が天地を創造するとき、まず考える期間があったはずであり、準備する期間もあったでしょう。
神様が「このように天地万物を創造しよう」という決定的な計画を立てる前には、まず考える期間があったというのです。
その後、立てられたその計画を中心として準備する過程を経て、実践段階に超えて行きました。
このように天地を創造したというのです。
天地創造がそうだったということは、神様がそのような方だと言うことを意味します。
神様も、考える期間から準備する期間、実践する期間がありました。
そのような過程を経て天地万物を造られたのです。(同607ページ)

神様が宇宙を創造された目的は人間だけのためであるとか、神様御自身だけのためであるという論理は成立しがたいのです。
人間が造られる過程に連結された様々な目的、すなわち神様が人間を創造された目的や天使が人間の創造に協助した目的、あるいは万物が人間に投入された目的と人間が生まれたこと自体の目的などが、互いに違ってはならないのです。
全体が喜ばなければなりません。人間の創造に関連した神様も喜び、天使も喜び、万物も喜び、そして人間自体も喜べる、そのような共通の内容でなければなりません。(平和経501ページ)

堕落の結果・・・・人間と神様にとって

 神様の相続目的は「喜び」です。喜びを得ようとして、人間と世界を造られたのです。その喜びというのは、一人では感じることができません。喜びを感じるためには必ず対象、または相手が必要です。主体と対象が互いに相対基準を結んで与え合うとき、喜びを感じることができるのです。そして最高の喜びは、愛を与え、受けるときに感じることができます。そのように、神様が私たち人間を対象として造られ、その対象とともに無限の愛を与え合い、永園に喜びを得ようとされたのです。それが、すなわち創造目的だったのです。
このような創造目的を果たすために、人間始祖として一男一女を造られたのですが、聖書では彼らを「アダム」、「エバ」と呼びます。そのアダムとエバが、神様の完全な喜びの対象となり、愛を与え合いながら、善の子女を繁殖していれば、その家庭が拡大して社会となり、その社会が発展して国家となり、その国家は世界に発展して、この地球は、このアダムの一族で満ちあふれ、この地上には神様の善と愛を完成した喜びの世界が築かれていたのです。その世界を、すなわち天国と称し、その天国は明らかにこの地上にできたはずだったのですが、その世界は、すなわち地上天国と言わざるを得ないのです。
この地上天国は、神様を中心とした一つの家庭であり、人類はすべて一つの兄弟です。そこには一つの伝統と一つの文化がある一つの統一世界にほかなりません。そこには人種差別はあり得ず、言語の衝突もなく、国家の分裂も、理念の対決も、殺戮して相争う戦争もあり得ません。このような神様の理想世界を描きながら、今日の現実を眺めて見るとき、私たちは、神様の理想とは正反対の世界に住んでいることを痛感させられます。まず私たちの一つの体の中に、心と体の分裂を見ることができるのです。
今日の私たちの世界は、分裂の世界です。国家の分裂、言語の分裂、文化、伝統、人種、理念、愛の分裂など、このような分裂の中で、人類歴史は殺戮の闘争と戦争の連続でした。これはどう見ても、天国ということはできません。私たちは地上地獄に住んでいるのです。これは、人間始祖アダムとエバの堕落によってもたらされた結果です。堕落したということは、神様に逆らったということであり、神様から離れたということです。それによって、神様が臨在できない歴史が始まりました。人類歴史は、神様に逆らう歴史の連続によって今日に至りました。
私は先ほど、神様の創造目的が、永遠、不変、唯一、絶対的であると言いました。たとえ人類始祖の反逆によって堕落世界ができたとしても、神様の根本理念とみ旨は変わることはありません。神様は必ず初志を貫徹される方です。神様は必ず、神様本然の創造理想を果たさなければなりません。人間の堕落以後、、神様は無為無策だったわけではありません。人間の堕落以後の神様のみ旨は、堕落した人間を救援する「救援の歴史」でした。(平和経1165ページ)

堕落とは、人間が神様に背き、そのみ言葉を不信することによって、神様に似た人格と愛を具現した個人と世界を完成することができず、かえってサタンと組み、サタンの言葉に主管されることによって、サタン的人格とサタン的愛による悪の世界を形成したことなのです。(平和経1335ページ)

青少年時代、成熟していないときに堕落しました。そのようにして植えられた悪の種によって、人間世界に悪の血統が及ぶようになったので、終末になると全世界的に青少年たちがアダムとエバのように愛の倫理を破壊し、退廃的な風潮に流れれば、サタンの全権時代が地上に到来したと思ってよいのです。(同1230ページ)

真の愛の主人であられる神様は、その愛の対象を失った瞬間から、限りなく孤独な神様になりました。
万有の主催者としての権能を、一度も主張してみることができませんでした。
愚かな堕落人間もみな自分を誇って生きているのに、神様は創造主の威信を一度も立ててみることができませんでした。あらゆる生命の主人でありながらも、それらの前に至尊な御自身を現すことができませんでした。(天聖経105ページ)

人間の不幸の根本原因は、人類始祖が堕落することによって霊的無知に陥り、神様との関係が断絶された結果だったということを知りました。それによって私たち人間は、神様と人生、そして宇宙の根本問題について無知に陥ってしまったのです。(平和経1261ページ)

堕落した結果、人間は死亡圏内に落ちました。神様が、「善悪知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創世記2/17)と言われたみ言葉のように、死亡圏内に落ちていったのです。堕落した結果どうなったのでしょうか。ヨハネによる福音書第八章四十節を見れば、悪魔サタンが人類の父になったと、イエス様が指摘しました。神様を父として侍るべきアダムとエバが堕落することにより、悪魔サタンを父として侍るようになったというこの口惜しく恨めしい事実が、堕落の報いです。(天聖経420ページ)

アダムとエバは、堕落のゆえに血統が変わりました。神様の恩讐であり姦夫であるサタンの愛によって、サタンの生命の体になったのです。男性の生命体と女性の生命体にサタンの愛が入り混じって一つになり、その二人によって結実したのが息子、娘です。ですから、その息子、娘はサタンの愛、サタンの生命、サタンの血統を継承しているのです。(同421ページ)

堕落しなかったならば、アダムとエバは青少年の時期を過ぎ、思春期を迎えて、自然に一つになっていたはずです。誰が教えなくても、自然に一つになるようになっています。誰を中心として一つになるのですか。アダムでもなくエバでもありません。愛の根となる神様を中心として一つになるのです。
花が咲くとき、その花自体が咲くのではなく、根を通して咲くのと同じように、神様がそのような立場で人間と共に完全に相対的理想を完成し、愛を完成していたならば、すべてのものが公認されたでしょう。すぐにそこから天国生活です。このように見るとき、堕落したという事実は、神様が人間に願った理想の愛の完成基準を失ったということを意味します。(同410ページ)

弱肉強食は闘争の概念です。宇宙の万物世界は闘争していると言います。愛の理想の大きな目的を中心として、宇宙を動員して神様の理想的生命体の根源を造成するという概念がないというのです。堕落によってそのようになりました。闘争して発展すると考えたのです。ギリシャ哲学では、自然界を敵という概念で捉えました。そこから適者生存の論理が出てきました。適切な環境にいて残れなければ、生存は無いというのです。それは堕落した結果です。
マルクスやレーニンは、結果的なものだけを見ました。万物の根本である人間の心の世界を見ても、闘争しているというのです。闘争の概念が万物の中から始まったと見たので、そのようにしか結論を下すことが出来ないのです。
愛の理想を完結した実体を越え、天の国の家庭完成と天の国の王権を中心として、天地における統一された神様の安息基盤を整えるためだという概念を知らないので、闘争の概念として見たのです。(同618ページ)

私が知った神様は、栄光と尊敬の玉座にいらっしゃるお方ではなく、堕落し地獄に落ちた子女たちを救うために苦労してこられた、悲しみと嘆息と苦痛の神様であられました。人間は堕落によって霊的無知に陥ることにより、神様の実在および人間と宇宙に対する根本的な無知に陥りました。したがって、肉身をもってこの世をどのように生きるべきか、死後の霊界の実在とその準備として地上生活をどのように過ごすかということを知らないまま生きてきました。
神様のみ旨と心情を知って生きてきた私の生涯は、一言で言えば、昼夜を忘れ、季節も環境も超越して、ただみ旨を成就するためにこの身を捧げ捧げて全力を尽くす道でした。私の八十年の生涯を振り返ってみるとき、これまでの多くの苦難と迫害にもかかわらず、この場できょう、皆様とともに過ごすことができたのは、ただただ神様が助けて下さったからだと言うことが分かります。(平和経234ページ・・・・ワシントンDC 国会議事堂での講演より)

父母が愛する子女を信じているにもかかわらず、子女が裏切るとき、その信頼に比例して、父母が受ける衝撃と苦衷、そして、悲惨さは、言葉に言い表せません。
また生命を懸けて互いに愛し合った人が裏切り、排斥して不信するときも、やはり言葉にできないほど悲惨なのです。
そのような立場で身もだえしながら味わう苦痛は、経験してみたことがないひとには分からないのです。
言葉だけでは分かりません。これは世の中の出来事を見て知ることができます。
それでは、神様はどのようにして悲惨になったのでしょうか。
神様は漠然とした神様ではなく、具体的な神様です。
人間とは最高の関係をもった神様です。
神様が喜ぶことがあるとすれば、それは人間と共に喜びで出発し、終わりのない永遠に向かって進み続けることのできる出発の起点を目にすることです。
ところが、その出発の起点を、人間によって失ってしまったのです。
人間は堕落しました。
これは千年間の恨(ハン)で蕩減できるものではありません。
億千万年において限りなく多くの民が死の峠に引っ掛かる罠になることを御存じの神様だったので、どれほど悲痛だったでしょうか。
そのような悲惨な傷を負わせた人間です。
このようなことを考えてみるとき、人間は何も言えない存在です。
(天聖経425ページ)

取って食べないという責任分担

 アダムとエバの前に置かれた責任分担は、一度誤れば億千万年の間、人間にとって癌となる恐ろしい落とし穴となります。
このような責任分担を果たすべき立場にいるアダムとエバなので、神様はサタンの攻撃があることを予想し、「取って食べてはいけない」と警告したのです。
それにもかかわらず善悪の実を取って食べたので、それを見つめる神様の心はどうだったでしょうか。
そのような立場から外れていく瞬間にも、神様は「お前だけはそうしないだろう」と信じたかったでしょう。
(天聖経398ページ)

人間には責任分担があります。
神様が人間に責任分担を与えた目的は、神様の創造の偉業に同参させるためです。
95パーセントは神様が造り、5パーセントは人間が造ることによって、人間を創造するとき、神様だけが創造したのではなく、人間も自ら創造したという条件になるというのです。
・・・・(中略)・・・・
しかし、有史以来、責任分担を完成した人がいません。
責任分担というもの自体を知らなかったのです。
(同401ページ)

神様は、どうして人生の中に責任分担をたてたのでしょうか。
全知全能の方なので、その全知全能の創造性までも賦与し、また永遠不変の愛の主体であられるので、その愛の主体を身代わりできる位置に立てるために、責任分担を与えざるを得なかったのです。
これは福の条件となり、全体を占領できる一つの鍵のようなものなので、これを与えざるを得なかったのです。
しかし、この責任分担が問題となり、堕落したのです。
・・・・(中略)・・・・
なぜ責任分担をあたえたのでしょうか。
それは、人間に無限で高貴な価値を賦与するためであり、神様の創造の偉業に加担させるためです。
もし人間に責任分担を賦与していなければ、人間は神様の愛に相対できる対象の位置に立てません。
神様が100パーセント造ってあげてはならないのです。
95パーセントは神様が造り、5パーセントは人間が責任を持つのです。
(同400ページ)

神様は、人間が堕落するとき、なぜ干渉しなかったのでしょうか。
絶対的な創造主として認定した以上、完成するまでは人間自身が責任を負うようにしなければなりません。
中間で干渉すれば、絶対的な権限の基準が崩れるというのです。
神様は偉大な方です。第二創造主の権限を委ねるために、そのようになされたのです。
(天聖経406ページ)

アダムとエバが堕落する前、神様に先に尋ねていたならば堕落しなかったでしょう。
「天使長がこれこれこのように言うのですが、どうしましょうか」と尋ねなければなりませんでした。
そのようにしていれば、神様が答えたはずです。
この尋ねてみることが、責任分担の5パーセントです。
(同412ページ)

*上記文中で5パーセントという表現は、非常に少ないと言う意味で、実際の割合を表すものではありません。95パーセントというのは、ほとんど、あるいは大部分という意味です。

春になれば、自然と木に花が咲きますが、木が花を咲かせるようとすれば、花を咲かせるぐらいに成長しなければなりません。今ようやく芽が出たというのですが、そこで花を咲かせることができますか。花が咲くことを願うあまり、早く大きくならなければならないと考えて、木を引っぱってよいのですか。抜けてしまえばそれで終わりです。花は自然に咲き始めなければなりません。ですから、信仰の道は、焦ってはいけないというのです。千年史を創造していく道なので、焦ってはいけません。(天聖経776ページ)

堕落の経緯

 旧約聖書創世記2、3章に堕落の経緯が書かれています。
概略を記しますと、

神様は、最初の人(アダム)を造られた後、エデンの園の中央にある二本の木(生命の木と善悪を知る木)のうち、善悪を知る木の実は食べるな、と戒めを与えています。
食べると死ぬぞとまで言いました。
その後、アダムのあばら骨から女(エバ)を造りました。
さらにコメントがあって、ふたりとも裸であったが、その時点では恥ずかしいとは思わなかったとのこと。

ところがヘビが女(エバ)をそそのかしました。
食べれば、かえってあなた方の目が開けて、神のように善悪を知るものとなれますよ!
それで先にエバが食べ、次にアダムが食べてしまいます。

戒めを破った結果、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることに気が付いて、いちじくの葉を腰に巻きました。

二人の神様に対する言い訳
アダム「女が勧めたので食べました」
エバ 「ヘビがだましたので食べました」

この後、ヘビに対して神様の裁きが下ります。
お前は、すべての家畜、獣のうちで最ものろわれる。腹で這い歩き、一生ちりを食べる
ヘビと女の間、ヘビのすえと女のすえとの間に恨みをおく。

さらに、アダムとエバに対しても神様の裁きが下ります。
(内容省略)

神様は、人をエデンの園から追放し、園の東に、ケルビムと回る炎のつるぎとを置いて、命の木に行けないようにされました。
(ここで、ケルビムとはケルブという天使の複数形)

原理ではこれをたとえ話として捉え、善悪を知る木の実を食べた行為を、姦淫をおかしたことと見ています。
さらに、最初の相手は人間どうしではなく、エバと天使とのこと。

これは本当かうそか?
神様の存在さえ疑う現代世界で、天使まで出てきました。ヘビも話をしています。
信じられる訳ないでしょ!・・・・で終わる人もおられると思います。
さらに、これが罪の根となって、全人類が原罪を持つようになった?

原理講論では、聖書の記述等を用いて解明を試みていますが、現代人を納得させるだけの決定的な記述は、聖書にも見当たらないようです。

しかし、それらしき記述はあります。例えば、
黙示録12章
 巨大な龍=悪魔(サタン)=全世界を惑わす年を経たヘビ とあります。
ユダの手紙
  神様によって天使たちが罰を受けていますが、その理由は淫乱であるとのこと。
マタイ12章、23章
 イエス様は当時の人間を指して「ヘビよマムシの子らよ」と呼んでいます。
創世記6章
 ノアが登場する前の時点で、ネピリム(ネフィリム)がいたとのこと
    ネピリム・・・・天使と人間との間に生まれた巨人族。
黙示録20章
 悪魔はサタンであり、古い蛇
ヨハネ8章
 イエス様は当時の人々に対して、悪魔から出てきた者と言っています。
また、上述した創世記2、3章を見ても、
 裸であることに気が付いて、何故いちじくの葉を腰に巻いたのか。
 また、ヘビと女の間、ヘビのすえと女のすえとの間に恨みをおくとのこと。

また、血統は遺伝します。
例えば、まわりを見てみると、私の性格や容姿は、両親から受け継いでいるものが多くあります。
母親の家系はこんな病気の人が多いとか、父親の家系はみんな背が低いとか。
人類始祖で間違いが起きて、良からぬ血が混じったとすれば、それが遺伝するというのは考えらるでしょう。

先生の講話より
「アダムとエバがエデンの園にどんな種を蒔きましたか。節操のない性関係の種を蒔きました。それを否定できますか。ですから、彼らが下半身を覆ったのです。
子供たちも、父母が隠しておいた大切なお菓子を盗み食いして、見つかれば隠すのが本性の作用ではないですか。
もし、善悪の実を取って食べたなら、その取って食べた手や口を覆うべきなのに、なぜ下半身を覆ったのかというのです。堕落は淫乱によって引き起こされたことを否定できません」(平和経229ページ)

アダムとエバはカインとアベルを生みました(二人だけでなくほかにもいます)が、その間で殺人事件が起きます。
カインがアベルを殺してしまいました。
この世の法律を見ると、姦淫と殺人に対する扱いには大きな差があります。
殺人の罪はとても重く、時には死刑になることがありますが、姦淫はありません。寧ろ、それを商売ネタにしている人や、組織もあります。
しかし、聖書の記述順序を見ると姦淫は殺人の根になっていると考えられます。
その辺のはなしを先生の講話から拾ってみますと、

「有史以来、この地球上で起こったすべての戦争は、本質的に兄弟間の闘争なのです。聖書はこれを、エデンの園から追放されたのちに起こったカインとアベルの殺害事件として教えています。
それでは、なぜこのような兄弟間の闘争が、家庭、氏族、民族、国家、世界の次元で絶え間なく繰り返されてきたのでしょうか。それは正に、カインとアベルの父母であるアダムとエバの犯罪に由来しているのです。
人間始祖の原罪とは、アダムとエバが神様の戒めを破り、不倫な淫乱の罪を犯すことによって、悪魔と血縁関係を結んで堕落した偽りの父母となり、人類に偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を引き継がせたことです。」(平和経1037ページ)

にわとりが先か卵が先か

存在と生命のうち、どちらが先でしょうか。哲学というものは、存在から始めるようになります。初めから生命を扱えません。それでは、生命はどこからでてくるのでしょうか。
生命は独りで自ら出て来るのではなく、父母の愛から出てきます。生命の世界と愛の世界は、神様が管理する世界です。それ以下のものを扱ってきたのが哲学思想です。ですから、存在よりも生命が先です。
存在を動かすのは生命です。生命を動かすのはなんでしょうか。愛だけが生命を動かすことができます。
愛によって出発したので、愛の関係に従って動き、愛の結果を訪ねていくのが生命の行く道です。
このように、情緒的な問題が宇宙創造の根本です。
いくら偉大な神様だとしても、愛の情緒を感じられない立場なら、孤独な神様です。(天聖経81ページ)

本来、人間はどこから生まれたのかといえば、神様の愛から始まりました。愛ゆえにうまれました。愛が起源です。
人間が受け継いだその生命が貴いのではありません。神様の愛の理念を通して生命が現れたので、生命の前に愛が先です。愛に根ざして私たちの生命が流れてきたというのです。それで愛に生まれ、愛で育ち、愛の相対に出会わなければならないのです。(同96ページ)

世界の学者たちは、「宇宙は力でできている」と言います。漠然と力でできていると言うのです。
それでは、力が一度に出て来るのでしょうか。力が先にあったのでしょうか。卵が先か、鶏が先かという問題と同じです。力は作用を通して現れるのであり、その過程を通して段階的に見えるようになるのです。電気の作用は、電気の力ではありません。電気自体ではありません。プラスとマイナスは、与えたり受けたりする作用をしますが、そこに電気という力の流れはまだ出来ていないのです。作用を通して力が出て来ると言うのです。
宇宙は、必ず力によって形成されるのですが、力が存在する前に作用があります。電気の力が存在するためには、プラスとマイナスの作用がなければなりません。プラスとマイナスの電気作用を集合すれば力になります。ここに電球をぶら下げて置けば、私たちが使用する光に変わるのです。
・・・・(中略)・・・・
環境には必ず主体と対象があります。これは存在の法則です。これが備わらなければ、存在できないのです。中性があると言いますが、中性にも相対があります。正午になれば影が見えなくなります。しかし、影が消えるわけではありません。自分自体の中に入っただけです。すべて相対的関係をもっているというのです。(天聖経622ページ)

植物世界にも、雄しべと雌しべがあります。植物の花が作用するのに、生命力で生きる前に、主体と対象の概念があることを知らなかったのです。(同624ページ)

今まで学者たちにとって、進化論が正しいのか、神様の創造が正しいのかということが問題でした。
愛の概念がある前に、先に進化の概念がありましたか。どちらが先でしょうか。
進化の概念が先ではありません。愛の概念が先にあり、そのあとにそれがあったというのです。
ペア・システムの宇宙が先に生じ、その中で形体的な構造が合うものが進化論形態として合っていただけであって、根本がそうだからそうなったのではありません。(天聖経635ページ)

「命が先か、愛が先か」というとき、果たしてどちらが先でしょうか。愛が先です。宇宙の根本は、存在の起源に先立って愛の流通が無ければ、存在価値は出てくることができません。
命が先ではなく、愛が先です。先になったものの前に、あとになるものは順応しなければならないので、愛のためには命を捧げるのが当然なのです。このように収拾しておかなければなりません。
「それでは、人生を正しく生きる道はどこなのか」という問題が出てきます。人生は愛から生まれたので、愛の道を行かなければならず、愛のために死ななければならないという結論が出てきます。
小宇宙ではなく、大宇宙が歓迎できる愛を探して、神様が公認し、天使世界が公認し、万物が、さらには私たちの父母が公認できる大宇宙の愛の中に生まれ、その中で愛し、死んでいくのが、人生の目的だと見るのです。
人間とは、自分が希望して生まれた存在ではありません。それでは、父と母の希望によって生まれたのでしょうか。そうではありません。神様の希望によって生まれたのです。神様の代身である父母の愛を通して生まれたのです。
神様の代身である父母の愛を通して、新しい生命体として生まれたのが私です。
そして、愛は全体を創造する力をもっています。宇宙の愛を全て受けて、全宇宙の中心的な存在として生まれたのが、正に私です。
愛によって生まれ、愛によって育てられ、愛によって生き、また愛を残すのが人生における最高の目的です。自分の家庭において、宇宙の中心である愛の使命を果たすのが、最も価値あることです。(平和経668ページ)

いかなる存在も、何らかの力なしでは、生存し、作用することができません。各存在の固体内で作用する力と、存在と存在の間の作用を可能にする力があります。
それでは、このような力はいかにして生じるかということが問題です。力が生じるためには、それに先立って、何らかの主体と対象がなければ絶対に生じることができません。
すなわち、主体と対象の関係が先有条件となって、力が生じるのです。
例えば原子にも、主体である陽子と対象である電子があって、初めて作用するのです。
力の作用は、主体と対象が一つになるための目的から始まるものなので、力が先か、主体と対象が先かと問う場合は、間違いなく主体と対象が先であって、力の作用は、主体と対象が一つになるための過程的現象なのです。
そして、この主体と対象との関係の差の軽重によって、力の作用がそれぞれ異なるので、様々な力が作用するたびに、その方向性と目的性が変わるようになっており、それによって多種多様な存在世界が形成されるのです。
このように、いかなる主体と対象の間の力の作用にも、方向性と目的性を帯びて作用するようになっているのは、第一原因的存在の中で基本的な主体と対象が先に存在し、方向性と目的性を帯びて作用しているからなのです。
固体内で主体と対象が完全に一つとなった存在は、他の存在と関係を結ぶために、主体的立場、あるいは対照的立場を取り、それと一つになることによって、より大きな方向性と目的性を帯びた存在へと発展するのです。
主体的存在と対象的存在が作用するところでは、常にある共同利益のためにやりとりしながらより大きな存在に発展するのです。(平和経729ページ)

神様は意外に不自由

 神様は人類が苦痛を受けていることを知りながらも、なぜ幸福な人類になるように導けなかったのでしょうか。
少し考える人は、
「何らかの絶対的な神様がいらっしゃるならば、どうして全世界の人類が歴史を通して時を問わず、受難の道を行かなければならず、理解できない道をさまよいながら、手探りして行かざるを得ない運命に置かれているのだろうか」
と言うでしょう。
このようなことを見るとき、愛の神様は存在しないと速断しやすいのです。
(天聖経406ページ)

ある人は、キリスト教で全知全能だという神様が、なぜ無力な神様になり、滅びつつある人類を傍観するのかと疑問を持ったりもします。
しかし、人間が自ら罪を犯したので、それを解決できる解放圏に対する条件を人間自身が立てなければ、神様は人間を無条件に解放することはできないのです。
それができる神様であれば、初めから人間始祖をエデンの園から追い出したりはしなかったはずです。
ましてや、サタンが血統的な因縁を掲げて主人として君臨しているので、なおさら難しいのです。
(平和経1552ページ)

キリスト教で「父なる神、全知全能の神」と言いますが、全知全能の神様も原則の基盤の上においての全知全能であって、無原則の基盤の上での全知全能ではありません。
自分勝手にする神様ではありません。
神様御自身が法をたてたならば、永遠のお方が制定した法は永遠です。
自分が立てたものだといって、自分勝手にはできません。
・・・・(中略)・・・・
いくら神様でも、この法則を破壊して行動することはできません。
この国の大統領でも、憲法を中心として制定されたすべての法、立法機関を通して制定された法を重要視しなければなりません。
(同56ページ)

いくら権限があっても、定められた憲法を遵守しなければなりません。
天地創造の大原則基準を中心として、神様が定めたその法を破って自分の思い通りにする神様ではありません。
ですから、堕落したアダムとエバに干渉できなかったのです。
干渉できる位置は、完成の位置です。
(同413ページ)

永遠、不変、絶対、唯一であられる神様が、太初に理想とされた基準も、永遠、不変、絶対、唯一でなければなりません。
サタンはそのような神様の絶対的なみ旨を破壊しようとするのです。
神様にお尋ねしてみれば、神様は、その事実を認められるでしょう。
サタンが神様に、「神様、最初に、私を天使長として立てられた時には、一時的な愛で立てられましたか。それとも、永遠の愛のためにたてられましたか」と質問するならば、神様はどのように答えられるでしょうか。
神様は「永遠に愛するために立てた」と語られるでしょう。
一時的な愛で立てたとするならば、一時的な愛の神様となります。
永遠に愛するという基準を持たなければ、いつかは、サタンの前に神様の権限を行使出来なくなるのです。
ですから、神様は、サタンがどんなに反対しても、彼を愛したという条件を立てざるを得ないというのです。
・・・・(中略)・・・・
世界的に迫害を受けても、世界的な恩讐圏に立っても、彼らを愛したという条件を立てなければなりません。
このような側面から、悪を自然屈服させようとする神様の戦法は「恩讐を愛せよ!」というものでした。
言葉は簡単ですが、今までこれが神様とサタンの間で勝敗を分ける境界線となってきたことを誰も知りませんでした。
神様がサタンを敵や恩讐とみなし、彼に対して復讐しようという思想をもったとすれば、絶対に勝利の絶頂を占有することはできません。
(平和経1263ページ)


なぜサタンを一度に取り去ってしまうことができないのですか。なぜ神様は多くの能力がありながらも、一度に取り去ってしまうことができないのですか。
血統が連結されているからです。一度に引き抜いてしまえば、人類を全て絶滅させなければなりません。
サタンの血を受けたものを一度に引き抜けば、人類がいなくならなければなりません。
アダムとエバまでいなくなります。
たたき潰さなければなりません。
なぜ神様は、アダムとエバをたたき潰して再び造れないのですか。
再び造るようにはなっていません。
愛はアルファでありオメガ、初めであり永遠です。
そのような理想的基準になっているので、その愛の対象的人間は打つことができないのです。
(天聖経427ページ)

サタンは
「神様も完全な神様であり、神様が求めるアダムとエバも完全なアダムとエバなのですから、堕落していなければ、アダムとエバは、本然の天使長である私を愛するのが原理の基準です。
ですから、私は堕落して悪い立場にいるとはいえ、あなた方が善良で正しい立場にいれば、私を愛したという条件を立てなければなりません。
そのようにしなければ、私の前で神様の本文を果たすことはできません!」
と主張するのです、それが問題です。
(同209ページ)

2022年1月2日日曜日

真の家庭運動

 世界で人類を苦しめる最も大きな問題は、私が洞察したところによれば、正に家庭の価値を破壊する不倫と退廃の問題です。
道徳的退廃こそは、人類を苦痛と絶望のどん底に陥れる原罪なのです。

未来の世界は、家庭の純潔を保存し、家庭の価値を守護する道徳律が定着するかしないかによって、天国と地獄の岐路に置かれるようになるでしょう。
世界各国が共に悩む青少年の退廃と絶えず起こる麻薬犯罪、増加する家庭破壊と離婚、エイズの猛威、性犯罪などを政治権力で解決できるのでしょうか。
現在の学校教育や宗教的教えでも解決できずにいるのです。

すべての家庭の悩みが解決されずにいる社会が、経済的に豊かになって何をし、政治的に自由になって何をするというのでしょうか。
人類は今、家庭の価値を守護し高揚できる教えとその方法を探し出さなければならないときに来ています。
冷戦以後の時代は、正にこの家庭の価値を守護し高揚しなければならない時代です。
(真の父母経874ページ)
(1997/11/26 世界言論人会議にて)

すべての家庭の父母が、神様の代わりの立場で、息子、娘を保護しなければなりません。結婚していない息子、娘は、堕落していないアダムとエバの立場と同じなので、絶対に見本となれる関係を結ばなければなりません。アダムとエバは、赤ん坊の時から結婚を見つめて進んでいきます。幼児時代、兄弟時代、約婚時代は、すべて結婚することが目的です。(同372ページ)

人類の未来を担うべき若者の皆様に、きょう私がお願いしたいことは、絶対「性」を強調する純潔運動です。
この大会の期間に皆様は、絶対愛と絶対純潔を叫びながらワシントンDCの中心街を行進しました。
私は、この行進こそは、今日地球上のどこを探しても見つけられない価値ある一場面であると思います。
既に昨今の世界では、「純潔」という言葉の価値やその重要性に関する論議さえも、陳腐なものとして扱われる環境になっています。
純潔な愛の不在は、家庭の破綻を促し、人類の未来を暗くする根本要因になっているのです。
人類が歴史を通して純潔を強調し、これを大切にしてきた理由は、純潔それ自体が生命の尊厳と直結するものだからです。
したがって、純潔を尊重する心は、命を貴く思う心と通じるのであり、それはとりもなおさず、自らの氏族と全人類を大切に思う心に繋がるのです。
さらには、この純潔の立場は、神様と出会うことのできる心と最も近く通じるのです。
(平和経1056ページ)

キリスト教の伝統的思想を中心として、家庭が正しく立たなければならないのですが、そのようになっていません。
そのようなものを、すべて作り変えなければなりません。
作り変えられる基準は、家庭ではありません。学校から行うのです。
小学校から中高等学校、大学を中心として、国のすべての重鎮たちが一つになり、家庭的伝統を立てるのです。
家庭教育を徹底的に行い、家庭絶対主義を主張していかなければなりません。
(真の父母経370ページ)

すべての青少年たちは、神様が再創造したアダムとエバと同じなので、ペアを組んであげるのです。
彼らは絶対に純潔を守らなければなりません。
ペアを組んだ二人が、互いに保護し合わなければならないというのです。
アダムとエバは、時を待ち、神様から愛の祝福を受ける時まで純潔を守らなければなりません。
(同372ページ)

純潔を守る最善の法案として私が教えてきたものが絶対「性」です。
これは神様のもとで結ばれた愛の相対は永遠であり、いかなる条件下においても変わることのない絶対的な愛の関係だという意味です。
なぜかというと、二人の配偶者の出会いは、永遠で絶対的な神様の愛を中心として実現されるものだらかです。
これは男性にのみ強調されるものでもなく、女性にのみ該当するものでもありません。
男女ともに絶対的に守るべき天倫なのです。
フリーセックスこそは、この地球星から完全に根絶すべき邪悪な風潮です。
このフリーセックスと関連した要素は、麻薬、暴力、同性愛、エイズなどのように人類を破滅へと追い込んでいく要因なのです。
(同1057ページ)

神様が宇宙を創られた根本原理は、雄と雌の概念を通すというものです。
この雄と雌が絶対的な愛を願うなら、そのペアが二つであってはいけません。
ただ一つ、絶対に一つでなければなりません。
永遠に絶対男性と絶対女性でなければならないのです。
それで神様は、アダムを二人造ったのではなく、エバを二人造ったのでもありませんでした。
ただ一人ずつ造ったのです。
(同1063ページ)



環境創造

 「環境創造」とは、「神の国創建のための外的環境を造成すること」とあります。(真の父母経1100ページ) 環境創造をするためには、どのようにすべきでしょうか。環境には、太陽の光、水空気、土があります。皆さんが愛と生命体をもって神様の代わりに歩むようになれば、そのような環境的条件で...