2022年1月3日月曜日

はじめに

昔からクラシック音楽が趣味で、読書にはあまり関心無く、愛読書というと挙げるのは漫画の単行本でした。
それが、ちょっとしたことから聖書に関心を持ち始めました。
最初は、やはり分かりやすいところで、創世記や福音書。
読むには、やや忍耐も必要でしたが、そのうち不思議なことに気づきました。
聖書を1時間くらいじっくり読んでからクラシックを聴くと、感動の度合いが明らかに違います。 自分でも驚くほど感動することが多くありました。
やはり聖書は特別な書物です。
恐らく、音楽以外に対しても、似たような効果はあるのだろうと思います。
私の場合は顕著なのがクラシックの器楽曲で、作曲家としては、バッハ、ベートーベンが多かったように思います。
バッハは殆ど全てですが、とりわけフーガの技法や、無伴奏チェロ組曲、ベートーベンは後期の弦楽四重奏曲や後期のピアノソナタなど。
ざっくり言うと、霊性を帯びたものが多いと言えるかもしれません。
逆に、変化の少なかったのがモーツァルト・・・・私としては好みの作曲家ビッグ3の一角なのに。
演奏形態でいうと、交響曲などの大編成ものよりは、室内楽やソロ。
一時は聖書を読んでからクラシックを聴くというパターンが病みつきになるほど。

この頃から聞き方にも変化が出てきました。
聴く側の自分自身の状態が問題だと感じたせいもあり、名曲や名演奏を探し廻ることも少なくなりました(と言ってもやはり名演奏はいいですね)。
音楽評論家の言などもあまり重視しなくなりました。

それでキリスト教にも関心を持ったのですが、どうも宗教というのは性に合わない気がして、それ以上の追跡はしませんでした。
はっきり言って、科学的にも論理的にもイマイチな感じ。

そのころ、道端で声をかけられ、連れて行かれたところで聴いた内容に、「堕落」とか「アダム」とか「エバ」とかいう言葉が混じっていたので、どうやらキリスト教がらみのようでした。
ただ、キリスト教らしくないので、特に抵抗を感じるところもなく、次の来訪も約束。
何度か訪問するうちに、統一教会と分かりました。
今では正体を隠して勧誘ということが問題視されたりしますが、当時はそんなつもりもないし、こちらが周りを見まわせばすぐに分かったことです。

日本では(特に当時は)、悪い噂の方が多い団体でしたが、彼らの出している「原理講論」という本を買ってみました。
最初は下手な文章だなと思いながら読んだのですが、それなりに整然としていて、一般的なキリスト教の教えほど迷信臭くはありません。
噂とは違って、そんなに悪い人も居なさそうです・・・・日本の場合、国民性も手伝って、一旦噂が流れるとなかなか消えません。
今では私も教会員です(・・・・そうは言っても、やはり宗教は好きになれませんが)

韓国生まれの宗教ですが、キリスト教から始まって、聖書を独自に解釈しています。
既存のキリスト教から見れば異端と言うことになりそうですが、私にとっては非常に自然な解釈に思えます。
例えば、イエス様は十字架につくために来た・・・・という話。
既存の教会では主流となっている解釈ですが、逆に一般の日本人などから見たら、これこそ信じられません。
原理の解釈には一貫性があり、さらにそれを通して聖書の中にも一貫性を発見できます。
ノアやアブラハム、ヤコブ、モーセ、リベカやタマルのとった行動が、本人達は自覚していないとしても、イエス様を出現させるのが目的だったことを教えてくれます。
さらにはその後のこと、近代・現代のことにまで切れ味鋭く応用が効きます。

さらに、教祖の文鮮明(ムン ソンミョン)師の生前の行動も、その理想的なお手本となっています(以後、単に「先生」と呼ばせていただきます)
想像を絶する紆余曲折を経た生涯ですが、見方によっては単純な一筆書きにも感じられます。
聖書的に言えばアルパとオメガが同じということでしょうか。
世の悪評は大変なものでした。
例えば、祝福式(合同結婚式)とか、根も葉もないことを随分と報道されました・・・・実際には極めて真剣で真面目なものなのですが。
・・・・にもかかわらず、その規模は次第に拡大し、今では国を挙げて推進しているところもあり、イスラム世界にも拡がっています。
先生はアメリカで刑務所にも入りました。
韓国に帰国すれば避けられるところを、敢えて刑に服しています(1984年)
これをきっかけにキリスト教会には逆に多くの同志ができました。
刑期を終えて出監した時、ワシントンDCでは著名な牧師さんがたによる歓迎晩餐会が開かれています(1985/08)
また、反共主義者としても有名です。
若いころは、血気盛んな言葉で共産主義を非難した講演もありますが、一方的に相手をやっつけるということではありません。
一時は共産国から命を狙われることもあったようです。
さらに北朝鮮にも出向き、金日成主席と歓談し、その交流は世代を超えて今も続いています。
・・・・かと言って、方針を曲げたのではありません。
まさに生涯に渡り、敵を愛し続けた方です。
新聞社なども沢山作り、芸術や教育分野にも踏み込んでいて、様々な分野に足跡を残して行かれました。

もちろん原理は、地上世界だけでなく、あの世や神様のことも解いています。
聖書には最初から神様が出てきますが、それを当然の書き方として記述が進みます。
・・・・創世記を見ると、人類始祖は神様と一問一答できましたので、その書き方こそ当然なのかも。
人類は始祖の段階で堕落したので、生まれて来るのは全てその血統です・・・・この世には正常な人間がいない?
堕落によって、人間は呆れるくらい阿呆で鈍感になったのでは・・・・?
上にも書きましたが、阿呆鈍感状態では音楽を聴いても感動しません。
堕落というのは、どのくらい深刻なんでしょうか・・・・人間にとって、神様にとって。
イエス様は、当時の人たちを「死人」と呼び、「へびよまむしの子らよ」とも呼んでいます。
我々は死人? マムシ?
真偽の区別が付けにくいこの方面も問題山積みです。
どこかの優れた学術資料や統計資料を持ってきて解ける問題とは、別次元の課題でしょう。
呆れるくらいの阿呆で鈍感を直すことができれば、神様の存在等は当たり前のことになるかも知れません。

一人の人によって解明された教えが、非常に短期間で世界展開されましたので、時に悪評が凄かったのも事実です。
そう見られて仕方ない部分も、少なからずあったとも感じますが、先生の解かれた以外の噂や言動が原因で、価値が霞んでしまうのは残念です。(・・・・私も気を付けなくては!)
とりわけ初期の頃は、若者ばかりで中年以上の年齢層が殆どいない状態でしたので怖いものなし・・・・教会というより新選組!、特攻隊?
まあ、プルトニウムの半減期ほど長くないでしょうが、このような傾向はもう少し続くだろうとも思います。
また個人的には、多くの人が(いわゆる)宗教としか見ていないことも残念に感じています。
呆れるくらいの阿呆で鈍感を直した立場から見たら、これほどオーソドックスなものは他にないかも!

使徒行伝5章 律法学者ガマリエルさんが言っておられますが、
人間から出たものなら自滅するかも。しかし、神から出たものなら、滅ぼすことはできないでしょう。まかり間違えば、皆さんは神を敵にまわすことになるかもよ!
あるいは、先生の言を借りるなら、
「神様のみ旨でなければ、そのまま放っておいても遠からず自然と滅んでいきますが、神様のみ旨である場合は、いくら迫害しても滅びません。」(1976年 ヤンキースタジアムでの講演)

このブログでは、多くを先生の講演や説教、講話などから引用しています。
数万人の観客を前に語ったこともあり、ごく一部の信徒相手の場合もありますが、引用の際にはこれらを一様に「先生の講話より」と表記しています。
特に頻繁に使用した書物については以下のように表記し、続けてページを示します。
「天一国経典 天聖経」・・・・単に「天聖経」と表記
「天一国経典 平和経」・・・・単に「平和経」と表記
「天一国経典 真の父母経」・・・・単に「真の父母経」と表記

また、「(iyo)」と記して文章を続けているのは、私のコメントです。

現在、旧統一教会(当時の正式名称:世界基督教統一神霊協会)は、以下のように名称変更しています。
 「世界平和統一家庭連合」
 英語名:「Family Federation for World Peace and Unification」、略称:「FFWPU」

***
追記
このブログでは、イギリスの歴史家アーノルド・トインビー氏の著書をもかなり引用していますが、ブログを書き始める時点では予定していないことでした。
主著「歴史の研究」を読み進める(拾い読みですが)うちに、「この方は神様を良く知っていそう!」と思うようになりました。

「試練に立つ文明」には以下のようなことが書かれています。
「人間は知力や技術的なこつにかけてはまぶしいばかりの成功者で、精神の問題においては惨憺たる失敗者」であり、
「神との正しい関係を結ぶことに至っては、まったく札つきの不細工者」であり、その歴史については、
「非人間的世界と、他方、精神的世界における、人間のそれぞれの業績のあいだの著しい不釣り合いが、少なくとも現在までは(前述したように)左巻きにばかり進んできたということが、この地上における人間生活の一大悲劇」とのこと。
(「試練に立つ文明(社会思想社)」より「歴史は人間の魂にとって何を意味するか」 深瀬基寛訳)

この人の考える人間の標準とはどんなものなのか?・・・・やはり今の人間は「阿呆鈍感状態」・・・・この言葉に大賛成して下さっているような気がします。

トインビーさん関連の参考文献、引用表記については こちら

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