地上での生涯というものは、永遠の世界に行く準備をするための期間なのです。
学生を例に挙げれば、学生が1学期あるいは1学年を終えるときには、学校が定めたすべての学科の単位を取らなければならない単位の基準があるのです。
その最高基準を百点とするとき、その基準にその学生の単位がどれほど到達したかという割合によって、学校の評価が決まるのです。
しかし、単位が足りなければ足りないほど、その学生は学校が立てたその基準から遠ざかります。
このようにあらゆることは、ある標準を中心としてその価値を測定するようになっているのです。
私たちが一生の間、肉身世界で生きるのも、あたかも学生が学校でいい点数を取るために準備する期間のようなものなのです。
言い換えれば、私たちの生涯を全て懸けて単位を取る準備期間だということになります。
(平和経481ページ)
人間の構造をよく見ると、神様は、本来人間を二重構造で創造されたことが分かります。
有形世界である現象世界の縮小体として肉身を創造され、無形世界の代表であり、主人として立てるために霊人体を創造されました。
したがって、人間は、地上界で百年くらい生きて肉身の役割が終われば、自然に、そして自動的に無形世界の霊界に入っていくようになっているのです。
このように霊界は、肉身を土台として生きている私たちの目では見ることができないだけであって、地上生活の自動的で必然的な延長です。
神様が創造してくださった、人間の永遠の本郷なのです。
霊界は、このように厳然として存在します。妄想の世界でもなく、想像の世界でもありません。
これは、人間の選択権の外にあるのです。良いからと言って行き、嫌だからといって行かなくてもよい、そのような世界ではありません。
神様が永遠不変の方であられるように、御自身が創造された霊界も永遠不変なのです。
私たちが地上界で、肉身をもって現象世界と様々な関係を結んで暮らすのと同じように、霊界でも人間は、霊人体をもって霊界のすべての現象と密接な関係を維持して生きていかなければならない宿命的存在です。
人間の霊人体と肉身の関係について見るとき、より重要なのは、肉身ではなく霊人体です。
肉身は百年くらい生きて死ぬのですが、霊人体は、時間と空間を超越して永生します。
いくら地上界で良い服を着て、良いものを食べ、裕福に暮らす人も、結局、死ぬのではないですか。
したがって、皆様の人生は、霊的な基準と肉的な基準をよく調和させ、霊肉が一つになった完成実体を形成して暮らしてから逝かなければなりません。
現象世界であり有限世界である地上界の人生で、肉身を土台として霊人体を完成させる責任があるということです。
ところが、霊人体の完成は自動的にやってくるのではありません。
必ず真の愛の実践を通して、体と心が完全一体になった人生の土台の上で、初めて完熟した霊人体が結果として実って行くのです。
皆様。秋になって、倉庫に入って行く、良く熟した果物になるためには、春と夏という過程を経ながら、自然界が提供してくれる栄養素と主人の細やかな世話が絶対に必要です。
無精で見識の無い主人に出会った果樹園の果物は、あらゆる疾病と悪天候に悩まされ、熟すこともできないまま落果したり、虫に食われた果物として選別されたりしてしまうでしょう。
果物は果物ですが、全てが同じ果物というわけではありません。すべての果物が、市場に出して売れる完成品になるわけではないのです。
木の上で完熟した果物は、自動的に主人の倉庫に入っていきます。同じように、人間の霊人体は、木と同じ立場にある地上界の人生で完成してこそ、自動的に無形世界である霊界の天国に入って行くのです。
言い換えれば、人間は、肉身を持って暮らす地上界の人生で、完熟した人生、すなわち、この地に天国を形成し、楽しく暮らしてから逝ってこそ、自動的に天上天国に入場するようになるのです。(平和経1571ページ)
地上の生活と永生の生活は、別々ではありません。地上の生活も重要であり、永生の生活も重要です。永遠の生活は、地上生活からつながっているという意味です。二つとも重要ですが、今日この地に生きる人たちは、永生の概念を知りません。この地の生活が重要だと思っています。・・・・(中略)・・・・それは、互いに向き合って動きます。地上世界が上がれば永生世界(霊界)も上がり、地上世界が下がれば永生世界も下がります。一方が回れば、他方も同様に回ります。それで、現世においてそれを実感して、永生にプラスさせる生活をしなければなりません。永生と現世は分かれません。天国と地獄を明らかにしなければそれが分かりません。したがって、永生と地上生活の重要性を感じながら働きなさいというのです。(天聖経758ページ)
霊界が故郷です。故郷に帰って永遠に生きられる基準を、地上で合わせていかなければなりません。地上生活で、今までの世の中の何も知らない人々のように自分勝手に生活することはできません。霊界を知って、そこに合わせて生きることによって、この世の中を離れるときに、神様のみ前に行って天国と関係を結ぶことができるのであって、そうでなければ不可能です。ですから、霊界に対する事実をはっきりと知らなければなりません。(天聖経769ページ)
水晶のように霊人体と肉体で清く生きてこそ、のちに霊界に行って問題がありません。そこに何かの傷があれば、天国に入っていくことができません。地上での生活が重要です。生きた通りに霊界に行くのです。ここには誰も例外がありません。自分自身が透明のように、すべて表に現れて見えるのです。ですから、地上生活を本当に正しく生きなければなりません。(天聖経770ページ)
今日、世の中に出てみれば、祖父、祖母、父と母、兄弟たちのような人が四方にあまねくいますが、その世界の人たちを、自分の家で愛したように愛して生きなければなりません。彼らは他人ではありません。おなかがすいていれば食べさせてあげ、困難なことがあれば助けてあげる、そのようにできる人にならなければなりません。この地上に生まれ、あの世界の愛の拍子に合うように準備の生活をするのが肉身生活です。(天聖経771ページ)
霊界を知らなければなりません。何千年前の先祖たちが霊界に行って何をしているかを知るようになれば、どうなるのでしょうか。必然的にその運命に引っ張られて行かざるを得ないことをはっきりと知ることによって、この地上の難しい問題も越えていくことができます。(天聖経721ページ)
地上での百年は、つかの間です。この世の中で生きる堕落した人々は、この世が一番だと思って生きています。何も知りません。それは腹中から生まれていない胎児と同じです。(天聖経730ページ)
人間の一生は短いのです。生涯において十年がいつ過ぎたのか分からないのです。結婚して三十年以内に、すべての物が決定します。ですから、人生の道はいつも待っていません。忙しいのです。そして、一度はみな死ななければなりません。死なない自信がありますか。死ななければなりません。死ねば霊界に行きます。この世は束の間です。十か月の腹中生活と同じなのです。(天聖経700ページ)
霊界と地上世界は、断絶された別の世界ではありません、一つの根本の存在原理のもとで相互交流し、授受する関係にあります。私たちの教会も、本来、神霊を通じて統一する神霊協会として出発しました。神霊とは何ですか。一時的、配分的な霊力や霊的作用のことをいうのではありません。真の愛を中心として霊界と人間世界が調和し、共鳴することができる神様の愛の力です。ために生きて投入する真の愛の生活を通じて、人の心に感動を与えることはもちろん、霊的世界の協力も得る運動が、統一教会の運動です。(天聖経792ページ)
霊界は愛の空気で出来ていますが、皆さんの霊人体が準備できずに天国に入っていけば、息ができません。地上世界は空気で出来ていますが、あの世は愛の世界です。皆さんの霊人体が愛を感じられるように準備しなければなりません。そのようにできずに霊界に行けば、関係を結ぶことができません。問題が大きくなります。何千万年もかかるのです。・・・・(中略)・・・・
地上で愛を呼吸する人は、死んでいるのではなく、生きているのです。・・・・(中略)・・・・ご飯だけ食べていてはいけません。この期間に何を満たさなければなりませんか。この期間には、新しい愛の人格を形成しなければなりません。(天聖経700ページ)
霊界に行っても、誰かが「地獄に行きなさい」というのではありません。自分が求めていくのです。自分の程度に合う所を求めていくのです。(天聖経781ページ)
霊界は愛の成分で覆われている所です。地球は空気で覆われていますが、霊界は愛によって包まれている所です。
人間は地上で空気を吸ってガスを吐き出しますが、霊界では愛を吸いながら暮らすようになっています。
霊界は、今日の人間の世俗的な愛を中心として愛し合うようにはなっていません。霊界で愛し合う愛は真の愛です。
霊界に行ってみれば、その世界は次のようになっています。父母、夫婦、兄弟姉妹、子女に対する愛を十分にもった人、すなわち家庭生活で深い愛の経験をした人は、多くの自由を享受できるのです。その人は、何の制限もなく、どこにでも、どの方向にでも行けるのです。
(平和経677ページ)
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