「環境創造」とは、「神の国創建のための外的環境を造成すること」とあります。(真の父母経1100ページ)
環境創造をするためには、どのようにすべきでしょうか。環境には、太陽の光、水空気、土があります。皆さんが愛と生命体をもって神様の代わりに歩むようになれば、そのような環境的条件で、必ず皆さんが主体となって投入し、対象を創造しなさいというのです。平安なところにいながら福を受けることはできません。つらくても、自分がつらさを忘れてしまえば、無限の成果が出てきます。それが再創造の公式です。
無限に投入し、また投入して、忘れてしまわなければならないのであって、「私はどれくらい投入した」と(投入したことを)覚えていてはいけません。お金もなく、何もないので、愛の涙、命の涙、血統の涙、良心の涙を流しなさいというのです。そうすれば、神様が同情してくれます。「私」が絶対マイナスになったので、絶対プラスである神様が共にあるのです。
ですから、何かをしながら、利用しようと考えてはいけません。そのように考えること自体が間違っています。世の中の人が(先生)を利用したとしても、その人と共に復興し、共に生きるために事業をしていると考えなければならないのであって、私が利益を得ようとしてはいけません。そのようにして得たものは、いくら集めてもサタン側に戻っていくのです。(真の父母経1101ページ)
皆さんが大きくなろうとすれば、自分自体を投入しなければなりません。これが真理であり、すべての現象世界の発展原則です。拡張し、発展しようとすれば、投入しなければなりません。純粋な投入は、純粋な発展と純粋な拡大が可能です。いい加減に投入すれば、いい加減な結果が出てくるのであり、深刻に、純粋に投入すれば、深刻で純粋な結果が出てくるのです。
これを簡単に表現すれば、「真に犠牲になりなさい」ということです。これは、真に犠牲になる道においてのみ可能です。その犠牲とは、自分自身を投入することです。「真に犠牲になりなさい」という言葉は、投入しなさいということを意味します。(真の父母経1101ページ)
人は自分よりも低く、劣悪な立場にいる人を考えながら生きることができなければなりません。それだけでなく、自分よりも大変な境遇におかれた人がいれば、その人を哀れに思い、自分の境遇に対して感謝しなければなりません。感謝するだけでなく、その人々を助けてあげなければなりません。そのように生きる人は、自分の国だけでなく、他の国からも歓迎を受けることができます。
今日、忠臣や聖人と呼ばれる人々を見れば、裕福な家の息子として、よく食べ、よく暮らしながら聖人や忠臣になった人は多くありません。彼らは、国や社会、家庭が混乱の渦中に追い立てられ、あすを見つめることができない暗澹たる混沌時代に置かれていても、その国に生まれたことを誇りとし、そのような父母を持ったことを誇りとました。そうして、誰よりも国と父母を愛しながら、自分よりもさらにかわいそうな人を救ってあげようとしたのです。そのような思いで同志を糾合し、より良い道をつくるようになれば、問題が広がるのです。そのような歴史は、国を愛した立場から出発し、師を愛した立場から出発しました。ここから、新しい歴史は横的に国家と国家を越え、世界的に伸びていくのです。このような人々によって、歴史は発展してきました。裕福な人が、自分が豊かになったことに対して感謝することを知らず、お金をさらに集めることにばかり苦心していれば、その人は結局、滅びるようになります。「これくらい稼いだからもういい」と考え、国と民族に深く感謝しながら人を助ける裕福な人は、さらに裕福な人になることができます。裕福な人になったのに、感謝することも知らず、一人で欲を張っていては、結局、自分が掘った穴に落ちて滅びるようになるというのです。
聖書に、「富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」(マタイ19/24)とあります。世界を愛し、国を愛し、民族を愛し、家庭を愛さなければならないのですが、裕福な人は、そのようにしないというのです。(真の父母経1110ページ)
自分のためだけに生きる人、絶対的(に重要な)環境を尊重できない人は、無限なる発展の世界で、限界を露呈します。無限なる限界を自分が越えようとする前に、その本体である神様を立ててこそ、限界の基準を越えて無限なる発展の世界に越えていくのであって、そうでなければ越えることができないのです。今や最後まで来ました。何をもって生きるのでしょうか。愛をもって生きるのです。それが環境創造です。
環境を備えることができなかった人は、どこに行っても自分がとどまる場所すらありません。自滅する道を行くというのです。力が出ません。周辺の環境が喜ばず、力が伴わないのです。環境が次第に遠く離れていきます。昔は慕わしく思っていても、嫌うようになるのです。もっと慕わなければならないのですが、もっと慕うことができる道がありません。それは、自分自身を中心として境界線を張ったからです。「私」を中心として動こうと思えば、そこで定着し、その峠を越えられないので、宇宙との相関関係、相応関係の位置に入っていくことができないのです。原則に一致していない相対的存在は消えてしまいます。父母様は、そのような哲学をもって生きるのです。(真の父母経1526ページ)
私たちは常に感謝しなければなりません。。まず神様に感謝し、その次に、夫に感謝し、妻に感謝し、隣人たちに感謝しなければなりません。感謝すればするほど、より深い愛が連なって流れ込んできます。たくさん感謝をすればするほど、その感謝に比例して、神様の愛の量がさらに増えるでしょう。ですから、私が死ぬときには、感謝の言葉を世の中に残し、愛だけをもって父のみ元に帰ります。愛の中で永遠に生きるのです。その時には、どれほど神様をあがめ、感謝しながら生きるだろうかというのです。それが夢です。
私たちは、愛の祝福の場に行くために、感謝する生活をしなければなりません。。不幸にぶつかれば、神様もそれをご存じです。世界でもっとも不幸な状況にぶつかったとすれば、神様がそれを記憶せざるを得ません。その場で感謝することによって消化するようになれば、神様が「信じられる人だ」と言われるのです。それを越えていけば、世界にまたとない福を受けます。このような原則があるというのです。(真の父母経1571ページ)
自分がこの世で良い立場におかれたときにのみ、感謝しなければならないのでしょうか。違います。神様は今まで、良いときにだけ私たちのために苦労してこられたのではありません。困難なときほど、さらに苦労することを決意してこられたのです。ですから、私たち自身も、神様を自分の父として侍るためには、私の代わりに働きながら闘ってこられた神様に対して、良い立場で感謝するよりも、困難な立場でさらに感謝しなければなりません。(真の父母経1572ページ)