人間も、自分が精誠を込めて完成した作品を自分の子孫万代に残したいと思い、自分の近くに置いておきたいと切実に思うのですが、神様はどうでしょうか。
愛らしい息子、娘として生まれた人間を、しばらくの間だけ愛して、それで終えるのでしょうか。
愛らしい息子、娘として生まれた人間を、しばらくの間だけ愛して、それで終えるのでしょうか。
永遠に愛したいと思われるのかというのです。
ですから、人間が完成して神様の愛を永遠に受けることができるならば、神様は人間を永遠に近くに置いて置きたいと思われるはずです。
絶対者がそのように喜ぶ立場に立たなければならないので、人間も永生しなければならないのです。
ですから、人間が完成して神様の愛を永遠に受けることができるならば、神様は人間を永遠に近くに置いて置きたいと思われるはずです。
絶対者がそのように喜ぶ立場に立たなければならないので、人間も永生しなければならないのです。
(天聖経753ページ)
人は永生しなければなりません。良い知らせでしょう?
悪の世の中で八十年ぐらい生きるのですが、ありが死ぬのも人が死ぬのも違いはないと思うかもしれません。しかし、違います。
悪の世の中で八十年ぐらい生きるのですが、ありが死ぬのも人が死ぬのも違いはないと思うかもしれません。しかし、違います。
人は霊物なので違うのです。
なぜ万物の霊長になるのでしょうか。老いない心のためです。
なぜ万物の霊長になるのでしょうか。老いない心のためです。
万物はすべて変わります。色あせてしまいます。風化作用によって減退します。
ところが心だけは違います。
ところが心だけは違います。
変わらないことにおいて最高の権威をもっています。
(同755ページ)
一番重要なものは永生です。
しかし、霊界があるか、ないかということを知らずにいます。
間違いなく永生することを知るようになれば、他の人が「罪を犯しなさい」と言っても犯しません。
間違いなく永生することを知るようになれば、他の人が「罪を犯しなさい」と言っても犯しません。
「自分のために生きなさい」と言っても生きないのです。
これを知らなければ、何の宗教を信じても、絶対に天国に行けません。
これを知らなければ、何の宗教を信じても、絶対に天国に行けません。
神様の理想世界に行けないのです。
真の愛と生命を投入しなければ、行くことができないのです。
真の愛と生命を投入しなければ、行くことができないのです。
(同754ページ)
創造主の永遠の愛の対象になれるという論理的結論が出てくるようになるとき、その愛と一つになった愛の対象も永生するという論理が生じるようになります。
永生は、自動的な産物です。
永生は、自動的な産物です。
永生は、ここから展開します。
愛の関係を中心として、永生論理をどうのように立てるかという問題は、宗教において極めて貴重です。
男性に永生があり、女性に永生があるのではありません。
神様の愛に永生があるのです。
・・・・(中略)・・・・
神様が一番愛して、貴く考えるものがあるとすれば、それを一日、あるいは十年や百年ぐらい共に過ごしたのちに、放り投げるようにつくるでしょうか。
神様が一番愛して、貴く考えるものがあるとすれば、それを一日、あるいは十年や百年ぐらい共に過ごしたのちに、放り投げるようにつくるでしょうか。
永遠に共にいるように造るでしょうか。
永遠に共にいるように造るのです。
人も同じです。
人も同じです。
人が生まれて、死んで終わりでよいでしょうか、永生しなければならないでしょうか。
永生しなければなりません。
それは、人間が、絶対者の神様が絶対的な愛を中心として喜ぶことができる対象だからです。
一日や二日、あるいは十年、百年喜んで投げ出してしまうのなら、それは愛ではありません。
愛すれば愛するほど、共にいたいと思うのです。
一日や二日、あるいは十年、百年喜んで投げ出してしまうのなら、それは愛ではありません。
愛すれば愛するほど、共にいたいと思うのです。
(同755ページ)
人間は間違いなく永生するということを知れば、他の人が「罪を犯せ」と言っても、犯さないでしょう。
「自分のために生きよ」と言っても、そのようには生きないのです。
これが分からなければ、キリスト教を信じても何の宗教を信じても、絶対に天国に行けません。
・・・・(中略)・・・・
この永生問題と連結されなければ、社会の革命も不可能です。
現在よりもっと疲弊して没落した環境に陥るとすれば、誰もが「その場には行かない」と言うでしょう。
しかし、永生問題、永遠の生命の問題というときは、環境的条件をすべて克服できるのです。
宗教はそれで偉大なのです。永生問題がかかっています。
永生問題の概念さえ確立しておけば、そしてそれが事実であるという主観が立つようになれば、自分の息子、娘と家族を引っ張っていくのです。
今までの宗教は、そのような思想界を包括し、習慣性によって環境に編み込まれた現在の文化背景の根拠を、すべて消化させることができないのです。
それはなぜでしょうか。永生世という概念を確立できていないからです。
キリスト教もそうです。
キリスト教も、今まで信仰してきたとしても、終わりの日になって環境が変われば変わるほど、すべてかき回されてしまうのです。
なぜでしょうか。それは、永生という概念がないからです。
永生問題においては、自信がないというのです。神様がいるのかいないのか、分かりません。
生命を懸けて、環境をこえていけるかという問題について見るとき、すべてそこに所属して四方を見まわしながら、現在の生活の方便にしたがってその道に陥りつつあるのです。
信仰の道というものが、今生きている人生、肉身生活の準備ではなく、永遠の世界の生活のための準備であるという信念さえ持つようになれば、その人は放っておいてもいいのです。
人は時間が経てば経つほど、四十歳を越えて五十歳を越えるほど、死ぬ日が近づいてくるために、永生の概念について深刻になります。
(平和経574ページ)