2022年3月21日月曜日

永世

 人間も、自分が精誠を込めて完成した作品を自分の子孫万代に残したいと思い、自分の近くに置いておきたいと切実に思うのですが、神様はどうでしょうか。
愛らしい息子、娘として生まれた人間を、しばらくの間だけ愛して、それで終えるのでしょうか。
永遠に愛したいと思われるのかというのです。
ですから、人間が完成して神様の愛を永遠に受けることができるならば、神様は人間を永遠に近くに置いて置きたいと思われるはずです。
絶対者がそのように喜ぶ立場に立たなければならないので、人間も永世しなければならないのです。
(天聖経753ページ)


人は永世しなければなりません。良い知らせでしょう?
悪の世の中で八十年ぐらい生きるのですが、ありが死ぬのも人が死ぬのも違いはないと思うかもしれません。しかし、違います。
人は霊物なので違うのです。
なぜ万物の霊長になるのでしょうか。老いない心のためです。
万物はすべて変わります。色あせてしまいます。風化作用によって減退します。
ところが心だけは違います。
変わらないことにおいて最高の権威をもっています。
(同755ページ)


一番重要なものは永世です。
しかし、霊界があるか、ないかということを知らずにいます。
間違いなく永世することを知るようになれば、他の人が「罪を犯しなさい」と言っても犯しません。
「自分のために生きなさい」と言っても生きないのです。
これを知らなければ、何の宗教を信じても、絶対に天国に行けません。
神様の理想世界に行けないのです。
真の愛と生命を投入しなければ、行くことができないのです。
(同754ページ)


創造主の永遠の愛の対象になれるという論理的結論が出てくるようになるとき、その愛と一つになった愛の対象も永世するという論理が生じるようになります。
永世は、自動的な産物です。
永世は、ここから展開します。
愛の関係を中心として、永世論理をどうのように立てるかという問題は、宗教において極めて貴重です。
男性に永世があり、女性に永世があるのではありません。
神様の愛に永世があるのです。
・・・・(中略)・・・・
神様が一番愛して、貴く考えるものがあるとすれば、それを一日、あるいは十年や百年ぐらい共に過ごしたのちに、放り投げるようにつくるでしょうか。
永遠に共にいるように造るでしょうか。
永遠に共にいるように造るのです。
人も同じです。
人が生まれて、死んで終わりでよいでしょうか、永世しなければならないでしょうか。
永世しなければなりません。
それは、人間が、絶対者の神様が絶対的な愛を中心として喜ぶことができる対象だからです。
一日や二日、あるいは十年、百年喜んで投げ出してしまうのなら、それは愛ではありません。
愛すれば愛するほど、共にいたいと思うのです。
(同755ページ)

人間は間違いなく永世するということを知れば、他の人が「罪を犯せ」と言っても、犯さないでしょう。
「自分のために生きよ」と言っても、そのようには生きないのです。
これが分からなければ、キリスト教を信じても何の宗教を信じても、絶対に天国に行けません。
・・・・(中略)・・・・
この永世問題と連結されなければ、社会の革命も不可能です。
現在よりもっと疲弊して没落した環境に陥るとすれば、誰もが「その場には行かない」と言うでしょう。
しかし、永世問題、永遠の生命の問題というときは、環境的条件をすべて克服できるのです。
宗教はそれで偉大なのです。永世問題がかかっています。
永世問題の概念さえ確立しておけば、そしてそれが事実であるという主観が立つようになれば、自分の息子、娘と家族を引っ張っていくのです。
今までの宗教は、そのような思想界を包括し、習慣性によって環境に編み込まれた現在の文化背景の根拠を、すべて消化させることができないのです。
それはなぜでしょうか。永世という概念を確立できていないからです。

キリスト教もそうです。
キリスト教も、今まで信仰してきたとしても、終わりの日になって環境が変われば変わるほど、すべてかき回されてしまうのです。
なぜでしょうか。それは、永世という概念がないからです。
永世問題においては、自信がないというのです。神様がいるのかいないのか、分かりません。
生命を懸けて、環境をこえていけるかという問題について見るとき、すべてそこに所属して四方を見まわしながら、現在の生活の方便にしたがってその道に陥りつつあるのです。

信仰の道というものが、今生きている人生、肉身生活の準備ではなく、永遠の世界の生活のための準備であるという信念さえ持つようになれば、その人は放っておいてもいいのです。

人は時間が経てば経つほど、四十歳を越えて五十歳を越えるほど、死ぬ日が近づいてくるために、永世の概念について深刻になります。
(平和経574ページ)



2022年3月17日木曜日

こひつじの婚宴、イエス様の使命

 (iyo)以下に四千年という年数が出てきますが、聖書の歴史を計算してみると、人類が誕生しておよそ六千年経っていることになっています。
先生も、よく人類歴史六千年と言われますが、実際の年数が六千年という意味ではないようです。


人類が生まれてから四千年ぶりに、この天地間に神様のひとり子が生まれました。
良い知らせです。幸福な知らせです。
それで、キリスト教で「福音」という言葉が出てくるようになったのです。
福音とは幸福な音信です。
・・・・(中略)・・・・
ひとり子が現れたことが幸福です。
神様は先にひとり子を送られました。
それで、今までの歴史は男性が作ってきたのです。
ひとり子が来たならば、その次には、ひとり娘がいなければなりません。
・・・・(中略)・・・・
メシヤはひとり子として来て、ひとり娘を求めなければならないのです。
しかし、そのまますぐに求めることができるわけではありません。
アダムを通してエバを造ったので、この世の中に来て、エバを探さなければならないのです。
サタンが奪っていったエバを取り戻さなければなりません。
(真の父母経32ページ)


イエス様の思想の中で最も偉大なことは、神様が自分の父であり、自分は神様のひとり子であると主張したことです。
ひとり子ということは、父なる神様の初愛を占有しているということです。
初愛を受けられる立場に立ったというのです。
神様がキリスト教を世界的な宗教にせざるを得なかった理由は、イエス様が「私は神様のひとり子である」と主張する立場に立ったからです。
ひとり子というのは、神様の愛を強調した言葉です。
ひとり子は、神様の初愛と結ばれた個人なのです。
(同30ページ)


キリスト教の中心は、イエス様です。
新郎であられるイエス様が、新婦を迎えるのです。
これが正に、「子羊の婚宴」です。
「子羊の婚宴」とは、イエス様と聖霊である一人の女性が、実体をまとって結婚式を挙げることです。
キリスト教では、「父」は神様であり、「子」はイエス様だと言います。「聖霊」は母なる神です。
(同42ページ)

イスラエルの国を救う前に、家庭をつくらなければなりません。
もしイエス様が、神様のひとり子としてひとり娘に出会って結婚式をするとすれば、その結婚式の主礼は、間違いなく神様がしてくださるのです。
救援摂理の最高の目的は、神様が愛する一つの家庭をつくることです。
それで、神様の愛を中心として、ひとり子とひとり娘の立場で成長し、神様を父としてお迎えできる場で祝福を成し遂げ、人類の真の先祖の基盤を整えるのです。
その場を失ってしまったので、再び取り戻さなければなりません。
(同31ページ)

天の国が来る前に、天の国の民族が出てこなければなりません。
その民族が出てくるには、どのようにすべきでしょうか。
民族は一度には出てきません。特別な氏族が出てこなければなりません。
その氏族が出てきて、民族を動かさなければなりません。
その氏族が出て来るには、親族がいなければなりません。
その親族が出て来るには、親族の中心になる家庭が出てこなければなりません。
その家庭が出て来るには、子女がいなければなりません。
その子女が出て来るには、父母がいなければなりません。
その父母が出て来るには、天の国のすべてを代表できる一人の男性がいなければなりません。それがメシヤです。
その男性が父母になるには、相対をつくって、その相対と一つにならなければなりません。それがキリスト教の教えです。それが終末です。
(天聖経179ページ)

メシヤは、この地上に来るとき、何ももってくることはできません。
彼には国もありません。何もないのです。
相対を失ってしまったので、相対もいません。エバとカイン、アベルを失ってしまったので、主人の役割を果たせないのです。
それで、それを取り戻しに来るのです。
ですから、キリスト教は、新郎として来られるメシヤを迎える新婦の宗教です。
(真の父母経35ページ)


(iyo)マリヤ様は、自分の生命を顧みずイエス様を誕生させた歴史的な女性で、崇拝の対象になっていますし、原理でもそのように解釈していますが、イエス様を誕生させた後の行動については、必ずしもそう見ていません。

ヨハネ第2章で、ガリラヤのカナに婚礼があって招かれた時、マリヤはぶどう酒がなくなってしまったことでイエス様に話しかけましたが、その時のイエス様の返事は「婦人よ、何のご用ですか。まだわたしの時は来ていません」というものでした。

この「私のとき」とはなんでしょうか?
イエス様もこひつじの婚宴をしなければならなかったので、これを「わたしの時」と表現したと解釈しています。
さらに、マタイ12章では、「だれがわが母でだれがわが兄弟か」、「天にいますわが父のみ心をおこなうものこそわが兄弟、姉妹また母である」と言われています。
イエス様を誕生させた後も、マリヤはイエス様を助けなければならなかったのです。


以下、先生の講話より
「復帰摂理を概観すると、母子協助の基盤が重要でした。
ヤコブの時、モーセの時、イエス様のときも、すべてそうでした。
堕落の張本人であるエバの代わりに責任を果たす母を立て、次子に母子協助をしながら、サタンの血統と生命を分立させるための摂理が行われてきたからです。」
(平和経118ページ)


アダムとエバが思春期を経て成熟し、人生の春の季節を迎えるようになれば、神様が結婚させて下さったはずです。
そのとき、神様は、彼らの結婚式をしてあげなければなりませんでした。
それをしてあげられなかったので、キリスト教を中心として、「小羊の婚宴」という言葉を立てたのです。
聖書のヨハネの黙示録の最後を見ると、「小羊の婚宴」という言葉が出てきます。小羊の婚宴とは何でしょうか。
六千年前、神様が結婚させてあげるべきだったアダムとエバが、サタンを中心として結婚し、悪の先祖になりました。
したがって、それを復帰するために、歴史的な終わりの日に、神様が新しい新郎新婦を立てて再び結婚式をしてあげる宴がなければなりません。
その宴が小羊の婚宴です。
この宴をすることで、失ってしまった真の父母が人類の前に誕生するようになるのです。(天聖経154ページ)



宗教と神様と人間

 絶対的な神様がいるかいないかということは、この上なく重大な問題です。 これは今世紀だけでなく、歴史を前にして、いかなる識者層や、いかなる聖人たちを通してでも解決すべき人類の課業です。 時代的な課業であり、歴史的な課業だというのです。 そのため、思想的な面で神様を探し求めていく哲...