2022年1月3日月曜日

堕落の結果・・・・人間と神様にとって

 堕落とは、人間が神様に背き、そのみ言葉を不信することによって、神様に似た人格と愛を具現した個人と世界を完成することができず、かえってサタンと組み、サタンの言葉に主管されることによって、サタン的人格とサタン的愛による悪の世界を形成したことなのです。(平和経1335ページ)


青少年時代、成熟していないときに堕落しました。
そのようにして植えられた悪の種によって、人間世界に悪の血統が及ぶようになったので、終末になると全世界的に青少年たちがアダムとエバのように愛の倫理を破壊し、退廃的な風潮に流れれば、サタンの全権時代が地上に到来したと思ってよいのです。
(同1230ページ)


真の愛の主人であられる神様は、その愛の対象を失った瞬間から、限りなく孤独な神様になりました。
万有の主催者としての権能を、一度も主張してみることができませんでした。
愚かな堕落人間もみな自分を誇って生きているのに、神様は創造主の威信を一度も立ててみることができませんでした。
あらゆる生命の主人でありながらも、それらの前に至尊な御自身を現すことができませんでした。
(天聖経105ページ)


人間の不幸の根本原因は、人類始祖が堕落することによって霊的無知に陥り、神様との関係が断絶された結果だったということを知りました。
それによって私たち人間は、神様と人生、そして宇宙の根本問題について無知に陥ってしまったのです。
(平和経1261ページ)


堕落した結果、人間は死亡圏内に落ちました。神様が、
「善悪知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創世記2/17)
と言われたみ言葉のように、死亡圏内に落ちていったのです。
堕落した結果どうなったのでしょうか。

ヨハネによる福音書第八章四十節を見れば、悪魔サタンが人類の父になったと、イエス様が指摘しました。
神様を父として侍るべきアダムとエバが堕落することにより、悪魔サタンを父として侍るようになったというこの口惜しく恨めしい事実が、堕落の報いです。
(天聖経420ページ)


アダムとエバは、堕落のゆえに血統が変わりました。
神様の恩讐であり姦夫であるサタンの愛によって、サタンの生命の体になったのです。
男性の生命体と女性の生命体にサタンの愛が入り混じって一つになり、その二人によって結実したのが息子、娘です。
ですから、その息子、娘はサタンの愛、サタンの生命、サタンの血統を継承しているのです。
(同421ページ)

堕落しなかったならば、アダムとエバは青少年の時期を過ぎ、思春期を迎えて、自然に一つになっていたはずです。
誰が教えなくても、自然に一つになるようになっています。
誰を中心として一つになるのですか。
アダムでもなくエバでもありません。
愛の根となる神様を中心として一つになるのです。
花が咲くとき、その花自体が咲くのではなく、根を通して咲くのと同じように、神様がそのような立場で人間と共に完全に相対的理想を完成し、愛を完成していたならば、すべてのものが公認されたでしょう。
すぐにそこから天国生活です。
このように見るとき、堕落したという事実は、神様が人間に願った理想の愛の完成基準を失ったということを意味します。
(同410ページ)

弱肉強食は闘争の概念です。
宇宙の万物世界は闘争していると言います。
愛の理想の大きな目的を中心として、宇宙を動員して神様の理想的生命体の根源を造成するという概念がないというのです。
堕落によってそのようになりました。
闘争して発展すると考えたのです。
ギリシャ哲学では、自然界を敵という概念で捉えました。
そこから適者生存の論理が出てきました。
適切な環境にいて残れなければ、生存は無いというのです。
それは堕落した結果です。
マルクスやレーニンは、結果的なものだけを見ました。
万物の根本である人間の心の世界を見ても、闘争しているというのです。
闘争の概念が万物の中から始まったと見たので、そのようにしか結論を下すことが出来ないのです。
愛の理想を完結した実体を越え、天の国の家庭完成と天の国の王権を中心として、天地における統一された神様の安息基盤を整えるためだという概念を知らないので、闘争の概念として見たのです。
(同618ページ)


私が知った神様は、栄光と尊敬の玉座にいらっしゃるお方ではなく、堕落し地獄に落ちた子女たちを救うために苦労してこられた、悲しみと嘆息と苦痛の神様であられました。
人間は堕落によって霊的無知に陥ることにより、神様の実在および人間と宇宙に対する根本的な無知に陥りました。
したがって、肉身をもってこの世をどのように生きるべきか、死後の霊界の実在とその準備として地上生活をどのように過ごすかということを知らないまま生きてきました。

神様のみ旨と心情を知って生きてきた私の生涯は、一言で言えば、昼夜を忘れ、季節も環境も超越して、ただみ旨を成就するためにこの身を捧げ捧げて全力を尽くす道でした。
私の八十年の生涯を振り返ってみるとき、これまでの多くの苦難と迫害にもかかわらず、この場できょう、皆様とともに過ごすことができたのは、ただただ神様が助けて下さったからだと言うことが分かります。
(平和経234ページ・・・・2002/02/02 ワシントンDC 国会議事堂での講演より)

父母が愛する子女を信じているにもかかわらず、子女が裏切るとき、その信頼に比例して、父母が受ける衝撃と苦衷、そして、悲惨さは、言葉に言い表せません。
また生命を懸けて互いに愛し合った人が裏切り、排斥して不信するときも、やはり言葉にできないほど悲惨なのです。
そのような立場で身もだえしながら味わう苦痛は、経験してみたことがないひとには分からないのです。
言葉だけでは分かりません。これは世の中の出来事を見て知ることができます。
それでは、神様はどのようにして悲惨になったのでしょうか。
神様は漠然とした神様ではなく、具体的な神様です。
人間とは最高の関係をもった神様です。
神様が喜ぶことがあるとすれば、それは人間と共に喜びで出発し、終わりのない永遠に向かって進み続けることのできる出発の起点を目にすることです。
ところが、その出発の起点を、人間によって失ってしまったのです。
人間は堕落しました。
これは千年間の恨(ハン)で蕩減できるものではありません。
億千万年において限りなく多くの民が死の峠に引っ掛かる罠になることを御存じの神様だったので、どれほど悲痛だったでしょうか。
そのような悲惨な傷を負わせた人間です。
このようなことを考えてみるとき、人間は何も言えない存在です。
(天聖経425ページ)


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