原理講論に「自由と堕落」という箇所があり、自由について書かれています。(第二章第五節)
自由とは、自由意思とこれに従う自由行動とを一括して表現した言葉であり、
自由に関する原理的な性格を論ずるとき、以下の三点をわきまえなければならないとのこと。
自由とは、自由意思とこれに従う自由行動とを一括して表現した言葉であり、
自由に関する原理的な性格を論ずるとき、以下の三点をわきまえなければならないとのこと。
1.原理を離れた自由はない。
2.責任のない自由はあり得ない。
3.実績のない自由はない。
現在の世界での自由という響きに比較すると、ここでいう自由はとても堅苦しく感じられます。
最初にこの部分を読んだ時、「これは自由じゃなくて不自由じゃないの!」と思いました。
最初にこの部分を読んだ時、「これは自由じゃなくて不自由じゃないの!」と思いました。
私たちが漠然と自由と言う時、何の制限もない自由のことを考えがちですが、そういう自由は実際にあるのでしょうか。ある人の自由と、その隣にいる人の自由がぶつかる場合、どちらかの自由は通じません。
私は自由だと言って、好き勝手なことをすれば、警察のお世話になって、不自由なところに閉じ込められたり・・・・。
でも、少し考えているうちになるほどと思うようになりました。
例えば、ある会社に新入社員として入社すると、最初は先輩方の指導を受けます。
こちらとしては何も知らない立場なので、言われた通りに実行するしかありませんし、その作業途中にも頻繁にチェックが入ったりします。
こちらとしては何も知らない立場なので、言われた通りに実行するしかありませんし、その作業途中にも頻繁にチェックが入ったりします。
見習い期間を過ぎ、実務について問題無く仕事をこなせるようになれば、先輩の言葉数も監視の目も少なくなります。
さらに経験を積み、一人前と見なされるようになれば、最初の指示だけで、まとまったその日の仕事を任されます。
ある程度、会社や職場の事情を理解し、前後の環境条件まで考慮して作業できるようになれば、その場の責任者となるでしょう。
日々の行動予定も自分で決められます。
日々の行動予定も自分で決められます。
自由が与えられると同時に、責任が増し、ある程度の実績も必要になります。
上記の2(責任)と、3(実績)についての表現は、そのままの言葉で通じます。
1については、社則とか会社の持つ伝統・経営方針など・・・・ということになるでしょう。
ただし、あくまでも現状の世界での会社、社員としての表現です。
上記の2(責任)と、3(実績)についての表現は、そのままの言葉で通じます。
1については、社則とか会社の持つ伝統・経営方針など・・・・ということになるでしょう。
ただし、あくまでも現状の世界での会社、社員としての表現です。
聖書にも、すべてのものを治めよとありますので、人間は、被造世界の経営者であり、責任者の役割を担っています。
その人間が堕落して万物以下の立場に落ちたと言われます。
堕落によって、神様のやり方を理解できなくなった人間には、もはや何も任せられません。
独自に判断して行動できる能力まで持っているので、なおさら始末に悪いとも言えます。
堕落によって、神様のやり方を理解できなくなった人間には、もはや何も任せられません。
独自に判断して行動できる能力まで持っているので、なおさら始末に悪いとも言えます。
先生の講話によれば、神様が世界を創造された時に言われた、すべてのものを治めなさい(創世記1章)との祝福は、
「人間が神様から許諾された環境の中で、不便や不足の無い地上天国の環境を所有しなさいということ」(平和経469ページ)とあります。
また、別の箇所では、
「現代人たちは「自由」を語っています。どんなに現代の教育制度がよくできているといっても、皆様には堕落圏内における自由の観念しかありません。
個人主義の観点では、そのようなことは分からないのです。」(同132ページ)とのこと。
個人主義の観点では、そのようなことは分からないのです。」(同132ページ)とのこと。
自由は万能ではなく、秩序や優先順位が発生しそうですね。