2024年4月17日水曜日

神様と人間

 もし神様がいらっしゃるなら、神様は、私たち人間を必要とせざるを得ません。人は万物の中で最も貴く英明な存在なので、尊重せざるを得ないのです。その神様と人間の関係を、私たちは明確に知らなければならないと思います。
数多くの宗教人たち、数多くの信仰者たちは、神様と人間の関係を様々に表現していますが、それが神様と人間の関係を明確に、正しく知ることができる内容になっているでしょうか。
神様と人間の関係は根本的な問題なので、この根本が狂えば、別の異なった世界へ行くこともあり、異なった結果をもたらすこともあるのです。神様だけを中心として見るか、人間だけを中心として見るかによって、二つの思潮の哲学世界があることを、私たちはよく知っています。
数多くの宗教が存在するようになったのは、根本が異なるからです。ですから、神様なら、「宗教はこうでなければならない。私とその宗教との関係はこうでなければならない」という、ある原則があるのではないかという問題が、より重要です。そのような関係について、お話ししようと思います。
この地上に生きる人間として、最も貴く感じるものは何でしょうか。このように問えば、様々な答えがあると思います。ある人は「権力である」と言うでしょう。またある人は「お金である」と言うでしょう。ある人は「知識である」と言うでしょう。果たして権力とお金と知識が、人間にとって最も貴いものかというと「絶対にそうである」と断言できる人は一人もいないのです。
それでは、それよりもっと貴いものは何でしょうか。もう一歩さらに踏み込んで尋ねてみれば、誰もが「愛が貴い」と答えるでしょう。その次は何かと問えば「生命である」と答えるでしょう。そのような愛と命をもっていたとしても、理想がなければならないので、三番目には「理想である」と答えるはずです。人間にとって最も貴いものが何かというと、愛であり、生命であり、理想だというのです。この問題について考えると、その愛と命と理想というものを、一時的なものと思っている人はいません。
皆様が何かの小説の表現を見ても、愛と言えば、永遠の愛、不変の愛、唯一の愛を強調していることに気づきます。愛が変わることは誰も望みません。青春時代や中年時代、老年時代を問わず、愛は永遠であることを願います。
また、愛もそうですが、生命の問題においても、「私は、少しだけ生きて死のう。なくなってしまいたい」と考える人はいないでしょう。生命も永遠であることを願います。自分の生命は変わらないことを願い、特権的であり絶対的であることを願うのです。
皆様が宗教を信じる目的も、救いや永生があると考えるからです。もし永生がないとすれば、宗教は必要無いでしょう。宗教を通して、人間の理想の愛を描ける道があると信じるがゆえに、宗教を必要とするのです。したがって、私たち人間にとって最も必要なものは、愛であり、生命であり、理想です。それが、一時的なものではなく、永遠であることを願うのが、私たち人間の欲望にほかならないのです。
ところで、「愛」という言葉や「理想」という言葉は、一人で語る言葉ではありません。一人でいながら「ああ、私は一人で愛する」と言っても、これは成立しません。「ああ、私は一人で楽しく、うれしい」ということはできないのです。したがって、私たちが「愛」という言葉と「理想」という言葉を追求し、絶対視し、望む立場にいれば、私たち人間が別の一つの主体や対象的な何かを求めなければならないというのです。
そこで、私たちが対象であれば、ある主体を必要とするようになります。私たちが結果的な存在であるならば、ある原因的な存在が必要であることを示しているのです。私たち人間を超越して、そのような主体的、原因的な存在がいるとすれば、それは不変でなければならず、永遠でなければならず、理想的でなければならないことは間違いありません。
主体と対象はいかなる面においても、いかなることにおいても一つにならなければないのが原則です。一つになることにおいて、悪い位置で一つになることを願う人は一人もいません。最高の位置、変わらない永遠の位置、完全に統一された位置で一つになることを願うのは、主体と対象の存在がそれぞれ願う基準にほかなりません。
それでは、対象であり、結果的な立場にいる人間が願う最高のものが、愛であり、生命であり、理想であるとすれば、主体であるその方の要求と、その方の希望と欲望は何でしょうか。
もし神様に、「神様、あなたが最も貴く、絶対的で、価値があると認めるものは何ですか」と問えば、かみさまもやはり対象が求めるものを求めざるを得ないという結論が出ます。
神様にとって、お金や知識、または権力は必要ではありません。間違いなく、その方は「愛であり、生命であり、理想である」と答えるでしょう。
そのようなことを考えるとき、神様がいくら偉大で絶対的だとしても、結局のところ誰に似ているかといえば、私たちに似ているのです。主体と対象は似ていなければなりません。

神様は、どのようなお方かというと、愛の主体であり、生命の主体であり、理想の主体であられます。そうだとすれば、私たち人間は、愛の対象であり、生命の対象であり、理想の対象であるという結論を立てることができるのです。
神様が絶対的なら、私も絶対的な位置を願わなければなりません。神様が不変なら、私も不変でなければなりません。神様が唯一なら、私も唯一でなければなりません。神様が永遠なら、私も永遠でなければなりません。そのような観点から、人間の永生は必然であり、それは当然の結論にならざるを得ません。いくら神様に愛があっても、私に愛がなく、いくら神様に生命があっても、私に生命がなく、いくら神様に理想があっても、私に理想がなければ、すべては無駄なことなのです。
したがって、主体という存在にとって、対象はどれほど価値があるかということを、私たちは否定できません。それは常識的に認めなければならない問題です。私がこの場に立って、聴衆もいないのに、こぶしを振って「おお」と言うなら、狂った人だと思われるでしょう。しかし、一人の足の不自由な人であっても、その人に対して目を見開いて語っているとすれば、それは精神病者ではありません。また、誰一人いなくても、小さなものを見ながら、喜んで詩を詠んだとすればどうでしょうか。それを狂っていると言えますか。
これは何を意味するのでしょうか。相対圏が「絶対」を擁護する絶対的な原理を持っていることを主張しているのです。それが対象の価値です。神様がいくら気高く、偉大だとしても、対象がいなければどうするのでしょうか。神様はうれしいでしょうか。ひとりで喜ぶことができるでしょうか。ですから、神様は喜ぶために対象の世界を創造されたことを知らなければなりません。
ある宗教では、神様は神聖で高潔な方であられ、人間は悪なるもの、罪悪にまみれたものなので、創造主と被造物は同等にはなり得ないと主張してきました。このような信仰は、根本的に間違っているのです。対象がいなければ、どんなに偉大な人でも、どんなに悟りを開いた人でも、どんなに絶対的な人であっても、悲しいのです。
(平和経32ページ)
・・・・1973/10/20、先生がジョージワシントン大学で行った「人間に対する神様の希望」と題する講演の一部

神様は、私たちの心の動機になるお方です。人間の第一源泉になるお方です。私たちの理想の起源になるお方です。この起源を除外しては結果が現れません。ですから、神様を除外しては世の中が成り立ちません。父母を失った孤児のような境遇にあるのが、この地上の人類です。しかし、その孤児の前に、失ってしまった父母を取り戻すようになれば、その歓喜の声がどれほど大きいでしょうか。世の中を征服して億万の大金を手にした名将の勝利も、この喜びとは比較にならないのです。心が重要です。いくら勝利を賞賛できる立場にあるとしても、父母の前に行かなければ真の子女として立つことができません。(天聖経37ページ)

神様は、恐ろしい方ではありません。神様は、最も近いのです。神様に会えば、神様の背中に乗って、神様の髪の毛をつかんでも神様は喜びます。孫たちが祖父の髪の毛をつかんで背中に乗っても、愛する孫なので喜ぶのと同じです。神様は、私たちの父母ではないですか。分かってみると、神様は、恐ろしい方ではないのです。世の中で最も近い方が神様です。父母よりもっと近く、夫よりもっと近く、息子よりもっと近い方が神様です。そのような神様を知り、最も近く、最も尊く、「私」と共に永遠に一緒に生きる方であることを知るようになるときに、万事がすべて都合よく運ぶのです。(天聖経306ページ)

神様の心は、神様のみ言の中だけにあるのではなく、神様が造られた万物の中にもあります。天地のどこに行っても、そこに神様の心があるというのです。ですから、神様は存在しないところがない、すなわち遍在すると言われています。神様の心の中にいることを願うのなら、皆さんが見つめる物の中に神様の心があるので、その物を自分の物として、天地のあらゆる存在物を自分の物としてかき抱こうとする心を持たなければなりません。私たちの心は、この民族を越え、世界を越え、被造万物を越えて神様と共にいたいと思うのです。神様までも「自分のものだ」と言える立場に行くことを、心は待ち望んでいます。そのような心を持った人は、神さまと共にある人です。(天聖経34ページ)

神様は知、情、意の本体です。そのような神様は、どのような目的意識をもっていらっしゃるのでしょうか。
創造してから目的意識をもったのではなく、創造の前から目的意識をもって創造されたに違いありません。
もし、そのようなお方でなければ、歴史を収拾することはできません。人間の認識では感じることのできない力が歴史の背後にあるからです。
もし神様にそのような目的意識が無いとすれば、目的とする世界に、歴史と全人類を導くことはできません。それゆえ神様は、人間が堕落したとしても、堕落していない人間に賦与すべき世界的な目的意識を痛切に感じていらっしゃるのです。
神様は、愛のために人間を創造されました。愛は独りで成立するものではありません。したがって、神様が絶対に必要とされるただ一つのものは、その愛を施すことのできる対象、すなわち神様が愛することのできる対象です。
必ず相対がいてこそ愛することができます。愛と心情の本体であられる神様は、その愛が動機となって宇宙を創造されたのであり、特にこの期間に、創世記第1章27節のみ言どおり、神様に似た実体対象として人間を創造されたのです。(天聖経37ページ)

神様は、私たちが見出すべき希望の本体であられると同時に、全体の価値を代表する栄光の本体でいらっしゃいます。ですから、神様の全体に対する主管性を復帰するためには、皆さん一個体で神様を所有できなければなりません。神様を迎え得る人にならなければなりません。その神様は、億兆蒼生を造られた神様であり、万物に対する全体主管の行使をなさるために復帰の苦労をしてこられた神様です。
したがって、皆さんが神様を所有したとすれば、その神様は皆さんの神様なので、そのお方が永遠であれば皆さんも永遠であり、そのお方が被造世界に対して主観性をもつようになれば、皆さん自体も実体をまとった神様の立場に立って、万物を主管できるようになります。そのような皆さん自体を探し出すことができないとすれば、神様を所有したとはいえないでしょう。(天聖経38ページ)


神様と人間

 もし神様がいらっしゃるなら、神様は、私たち人間を必要とせざるを得ません。人は万物の中で最も貴く英明な存在なので、尊重せざるを得ないのです。その神様と人間の関係を、私たちは明確に知らなければならないと思います。 数多くの宗教人たち、数多くの信仰者たちは、神様と人間の関係を様々に表...