2026年4月1日水曜日

先生の北朝鮮訪問、金日成主席との出会い

 (iyo )反共で知られる先生が北朝鮮に行った・・・・ちょっと考えるとあり得ないことなので、首をかしげるかたも多いと思います。先生は少し前まで、北朝鮮からは暗殺のターゲットとされていました。
それでもこの少し前にはこんなこともあったようです・・・・

1989年10月12日に開催された「世界平和教授アカデミー・ソ連重鎮言論人招請懇談会」に、私の招請でソ連の著名な言論人たちが韓国に来て参席しました。そして、帰国する時、彼らは断ろうとしたのですが、私が説得して彼らを平壌に送り、金日成主席にメッセージを伝えさせました。
そのメッセージの内容は、第一に、私は彼の怨讐ではないということであり、第二に、韓国赤化の野心を捨てなさいということであり、第三に、世界的な趨勢に逆行せず、真理に帰り、門を開いて手を広げれば、私たちは兄弟になって、みな一緒に繁栄し、幸せに暮らせるというものでした。(真の父母経849ページ)

1987年に金日成主席がソ連のゴルバチョフと共謀して、私を暗殺するために、25人の赤軍派を派遣した菊村事件の裁判がまだ終わらず、進行中でした。そのような怨讐と向かい合うに当たって、離れ離れになっていた兄弟を何千年ぶりに訪ねていくという兄の心、弟の心をもって、そのような(怨讐という)考えをすべて越えられる立場にどのようにして行くかが、私の悩んだ問題でした。(真の父母経859ページ)

(iyo )1991年4月モスクワで世界言論人会議を主催し、ゴルバチョフ大統領とも会談していますが、その後すぐに側近の朴氏に命じて北朝鮮との交渉を始めました。

1991年11月30日、ついに金日成主席が私たち夫婦を北朝鮮に招待しました。当時、ハワイに滞在していた私たちは、急遽北京に飛びました。中国政府が用意した北京空港の貴賓室でしばらく待っていると、北朝鮮の代表が現れ、正式招待状を出してきました。
『朝鮮民主主義人民共和国は、統一教会の教主・文鮮明師と令夫人、そして随行員一同を共和国に招請します。共和国は在北期間中、その身元を保証いたします。・・・・』
私たち一行は、金日成主席が用意した朝鮮民航特別機JS215に乗って平壌に向かいました。これは極めて異例で、特別な待遇でした。 (自叙伝p260)

(iyo )金日成主席と出会う前に、万寿台議事堂で党・政府要人との会談の席で演説を行っています。

私は北朝鮮を訪問して、万寿台議事堂に行った際、そこに集まっている党の幹部たちに話をしました。「何が主体思想だ。人間の生涯を見れば、八十年も生きられないではないか。四十年の歴史を通して立てたものが正義になり得るのか。手のひらほどにもならない所で、いくら主体思想を通して強制的にすべてのことを解決しようとしても、そうはいかない!」と、堂々と話したのです。「『神主義』が正しい」と堂々と宣言しました。命を懸けたのです。
その国の真ん中に一人で入っていっても、恐怖感に包まれて躊躇してはいけません。神様の権威と対面はどうなるでしょうか。ですから、堂々と語ったのです。勝つか負けるかという、天下分け目の一大決戦のようなものです。そこでは、度量のある人が勝ちます。金日成主席は、やはり男らしい男でした。自分の秘書陣が三度も、「文総裁は危険な人物です。会ってはいけません」と報告したにもかかわらず、そのたびに金日成主席は、「だから私が会わなければならないのだ」と指示したというのです。(真の父母経861ページ)
(iyo )主体思想・・・・北朝鮮の政治思想

私にとっては、生死が問題ではなく、天命と天意を守って従うことが重要だったのです。私の語る「神主義」は、してもしなくてもいい、そのような思弁的なものではありません。厳然として生きて役事される神様を無視したまま、無神論や唯物論、主体思想を主張しながら、偽りの思想を宣伝することは、天道に背くことであり、歴史の前に流れてゆくことなのです。ただ天道と正義と真だけが歴史の前に残るのです。そのような意味で、神様の真の愛を中心とした「神主義」だけが、統一の基礎になることができるというのです。(平和経1096ページ)

(iyo )先生自身が命がけなのは当然ですが、側近の方々も大変だったようです。
その時々で、どうしても言わなければならないと決めたことをはっきり言うのが先生です。
聞いた話では、「ああ!これで生命が終わった。韓国へは帰れない」と思った側近のかたもおられたとか。

(iyo )金日成主席との出会いは、まさに創世記に書かれているヤコブとエサウの再開の再現でした。(創世記ではヤコブはこのとき、「イスラエル」という名前をもらっています。)
1991年12月6日には、麻田主席公館にて、金日成主席と会談しています。

金日成主席が私と約束しました。(私が)「あなたと私は今や兄弟の間柄として、あなたを兄とし、私を弟としましょう。弟は文鮮明、兄は金日成、このようにしますか、しませんか」と提案し、そのようにすると約束しました。
・・・・(中略)・・・・
金日成主席と私が会った姿が収められた映像を一度見てください。
・・・・(中略)・・・・
金日成主席は、今まで誰かに会って写真を撮る時は、いつも手を後ろに組み「自分が一番だ」と言うように、白頭山の絵が飾ってある所に立って撮ったそうです。その部下たちが言うには、金日成主席が相手の手を握って写真を撮るのは、北朝鮮の歴史始まって以来、私が初めてだというのです。(真の父母経862ページ)

(iyo )とても話が弾んだようで、三万双の国際祝福結婚式を北朝鮮でやろうという話までしています。寝泊りはどうするんだという話が出て、元山の松島海水浴場(・・・・とても広いようです)に10人当たり1つずつテントを張るという案が出たとか。

金日成主席と南北離散家族再会、南北経済協力、金剛山開発、朝鮮半島非核化、南北首脳会談推進などに関して合意しました。(自叙伝p272)

(iyo )金日成主席が死去された時にも、朴氏を弔問に行かせています。北朝鮮は一切の外国の弔問客を受け入れないと発表していたようですが・・・・。

私は兄弟の義を結んだ金主席の死を哀悼するのが当然だと考えました。
私は朴普熙を呼びました。
「今すぐに弔問使節として北朝鮮に行きなさい」
「今、北朝鮮は誰も入れない状況です」
「難しいことは分かっている。しかし、何としても入っていかなければならない。鴨緑江を泳いで渡ってでも、必ず入っていって弔問しなさい」
・・・・(中略)・・・・
すると、金正日国防委員会委員長が、「文総裁の弔問使節は例外とし、平壌にお迎えするようにしなさい」と指示を下したのです。(自叙伝p274)

(iyo )この後、現在の金正恩氏に至るまで有効な関係が続いていました。
(過去形にしてあるのは、今現在(2026年)では私もよく知らないので)


先生の北朝鮮訪問、金日成主席との出会い

 (iyo )反共で知られる先生が北朝鮮に行った・・・・ちょっと考えるとあり得ないことなので、首をかしげるかたも多いと思います。先生は少し前まで、北朝鮮からは暗殺のターゲットとされていました。 それでもこの少し前にはこんなこともあったようです・・・・ 1989年10月12日に開催...