2026年5月15日金曜日

心情

 (iyo )一般社会でもこの言葉は使われることがありますが、ここでの「心情」はそれとは別の意味でとらえるものと見るのがいいでしょう。

「心情」は「心の情」と書きます。心の情がある所は、どこでも心情圏に属するのです。神様が人間を造ったので、神様の心情の流れが既にそこに内的に連結されているのです。神様の愛の電気が通じるのが心情圏です。心情圏に対する体恤とは、その電気を「ああ!」と感じることです。心情体恤はどれほど強いかを感じることなのです。良いかどうかを感じるのです。心情圏というのは、すべてのものが通じる内容をもっています。この心情圏に属さないものはないというのは、どこであろうと心情的電気が通じるということです。(天聖経1330ページ) 

心情は、生活観念など、あらゆるものを通過できる内容と力をもっています。生命の根源の位置にあるのが心情なので、生命を否定したとしても、心情を否定することはできません。存在を否定したとしても、心情を否定することはできません。心情は存在以前のものです。ですから、神様は愛だという結論が出てくるのです。
私たちは、心情を見たことがありません。心情は長いのか、丸いのか、高いのかと問い掛けてみても、答えることができません。しかし、愛する人が離れていけば、慕わしさがいっぱいにあふれてくるというのです。神経の最高の触感までいっぱいに満ちてくるのです。心情は五官で測ることができません。(天聖経1330ページ)

以下は統一思想より(「統一思想要綱」は2026年5月現在、ネット上に一般公開されています)

心情は、原相論において明らかにしたように「愛を通じて喜びを得ようとする情的な衝動」である。心情はまた、「愛の源泉」であり、「愛さずにはいられない情的な衝動」であり、原相の核心をなしている。したがって心情は、性相の核心となっているのである。そればかりでなく、心情は神において人格の核心である。イエスが「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ五・四八)といわれたのは、人間が神の人格、すなわち神の心情に似るようにという教えである。
人間においても、心情は人格の核心となる。したがって人格の完成は、神の心情を体恤するとき、初めて可能となるのである。神の心情を体恤することによって人格を完成した人間が、まさに心情的存在である。
人間が神の心情を継続的に体恤すると、ついには神の心情を完全に相続するようになる。そのような人間は、自然に人や万物を愛したくなる。愛さなければ、かえって心が苦しくなるのである。堕落人間は、人を愛することを難しく感じるが、神の心情と一致すれば、生活そのものが愛となる。愛があれば、持てる者は持たざる者に与えるようになる。愛は自己中心的なものではないからである。したがって貧富の差や搾取などは、自然に消滅するようになる。そのような愛の効果は愛の平準化作用に起因するのである。そのように人間が心情的存在であるということは、人間が愛の生活を行う存在であるということである。したがって人間は、愛的人間(homo amans)なのである。
統一思想要綱/本性論

(iyo )これは「堕落とは」にも載せた文章ですが・・・

アダムとエバは、堕落することによって、神様の心情が分からなくなりました。アダムとエバが人格を完成して神様のみ前に近づいていたならば、神様は、彼らを祝福してくださり、彼らに御自身の心情を相続させてくださったでしょう。神様は、愛と心情が通じる天的な夫婦を通して、血統的な家庭をつくろうとされたのです。本来、アダムとエバは、このような途方もない神様の心情を相続し、心情の基盤の上に人類の真の始祖にならなければなりませんでした。そのような心情の土台を失ってしまったのが堕落です。そうして、神様の心情を相続できなくなったのです。神様の心情を失ってしまい、神様の心情に似ることのできる人格を失ってしまい、人格の上に立てられるべきみ言の目的を失ってしまったというのです。(天聖経1331ページ)

歴史の流れとともに、すべての文化は発展してきています。今日の文明は、賑やかで華やかな世界をつくっています。しかし、これが私たちの体と心の問題、心情問題を解決するには、何の助けにもなっていません。外的には複雑な環境と複雑な組織形態が現れましたが、その全体と「私」の心情が通じずに、すべてのものと和合できないのが実情です。天地が共に楽しみ、天地が共に声を上げてくれる基準をもつことができていない世の中だというのです。
今日のこの時代は、心の指向する方向と心情が求めている方向が、全く違う形で流れていっています。人間は、いつでも心と理念に通じる心情を求めるので、そのような心情に対して外的な生活に通じる体を調整する、ある基準が立っていなければ、人類はいつの時代であっても、喘ぎ苦しむ立場から抜け出すことはできないのです。神様が目標とする世界は、現世の文化世界と文明世界ではありません。心の基準と心情の基準を立てて文明を治める世界が、神様の願われた世界であり、私たちの先祖たちが後代の万民に残さなければならない世界なのです。(天聖経1332ページ)

多くの人々が、復帰過程において、サタンの讒訴を受ける圏内で天国を味わったかもしれませんが、サタンを取り除いた中で、本当に永遠の平和の祖国、天国の味を体恤した人はいないのです。本当の天国の味を感じ、神様の愛を感じた人は、サタンと闘わなければならないという刺戟を受けます。そして、本当の天国の味を感じ、神様の愛を一度受ければ、神様から再び離れることはしないのです。このように神様の愛を体恤した人が、この地に現れなければなりません。(天聖経1333ページ)

(iyo )以下では「心」と「心情」の違いについて・・・・

心情の世界は、いかなる制約も受けません。しかし、心の世界は制約を受けます。心は相対的な条件いかんによって制約を受けますが、心情の世界は制限する人がいないのです。父母が子女を愛する心を、いかなるものが制約できますか。いくら泰山のような障壁が前を遮っても、それをくじくことはできないというのです。心の世界は制約を受け得るのです。心の世界は相対的な立場であり、心情の世界は主体的な立場です。心は相対性をもっているがゆえに、制約をうけるのです。しかし、心情の世界はそうではないというのです。(天聖経1333ページ)

(iyo )以下は「御旨の道」より・・・・ここには「心情」という見出しがあります。本当は全部載せたいし、私が選ぶのはあまりにもおこがましいですが、敢えて・・・・

心情の世界には、発展がない。しかし何度反復しても嫌気のしない世界である。

善なる人は、自然を見ても、どこへ行っても、いつでも心情でもって包むことのできるものである。

愛の主人公、心情の主人公として登場しなさい。

いくら偉人が現れようとも人類の心情を征服できなければ失敗である。

心情の境地においては立派でない人がなく愚かな人がない。

心情の基盤が無ければ不幸な者である。

心情的な世界は平等である。天国は家庭の拡大であり兄弟愛の世界である。

終わりの日には宗教は心情宗教、哲学は心情哲学、主義は心情主義、思想は心情思想で各々解明されるようにならねばならない。

愛は与えて忘れなさい。

善なる人の道は克服していく生活である。

愛の根は神様にある。

父母の愛、夫婦の愛、子女の愛が完全に一つとなれば、その中央に神様が臨在なさる。

心情的に連結されている人が信ずる人より先に立つ。

神様は万民を気が狂うほどに愛したい方であり、神様の息子は万民を狂ったように愛する人である。

愛を中心として人類の祖先として来られた方がメシヤである。

愛には克服と犠牲が伴なっている。

心情

 (iyo )一般社会でもこの言葉は使われることがありますが、ここでの「心情」はそれとは別の意味でとらえるものと見るのがいいでしょう。 「心情」は「心の情」と書きます。心の情がある所は、どこでも心情圏に属するのです。神様が人間を造ったので、神様の心情の流れが既にそこに内的に連結さ...