tag:blogger.com,1999:blog-64739423136371282412024-03-13T15:32:50.282-07:00幸福へのせまき門iyo_mizukihttp://www.blogger.com/profile/11025857562542866763noreply@blogger.comBlogger35125tag:blogger.com,1999:blog-6473942313637128241.post-21600190983724593292023-09-30T14:40:00.004-07:002023-10-08T17:18:36.081-07:00人間は万物の霊長<div style="text-align: left;"> 神様は、アダムとエバの外的で生物的な成長のための足場として、美しく繊細に準備した環境である万物世界を創造されました。このような環境の中で人間は成長し、発展します。<br />神様のより深い関心は、人間の内的性稟と愛の人格にありました。彼らは、真の愛の経験を通し、神様の真の愛に似て完成するのです。神様は、愛の力を内的で非物質的な力の中で最も強力なものとして創造されました。(天聖経643ページ)</div><div style="text-align: left;"><br />「万物之衆惟人最貴(マンムルチチェンユインチェキ:あらゆるものの中で人間が最も貴い)」という言葉はもっともな話です。神様も愛の相対が必要で、人間を造ったのです。中心である人間を手本として、和合し、吸収されるようにすべての万物を造ったのも、愛の理想のためです。(天聖経643ページ)</div><div style="text-align: left;"><br />神様の創造過程を探ってみれば、神様は万物を先に創造された土台の上に、最終的に人間を造られました。人間は、最後に造られた傑作です。神様を中心としてすべてのものが始まったのです。人間の創造を終えることによって、神様と人間、そして万物が平衡を保った立場で統一されることを願われたのです。人間は、神様を中心とする霊界と肉界を接触させる媒介体の使命を持っているのです。(天聖経644ページ)</div><div style="text-align: left;"><br />神様が人間を万物の霊長として立てるとき、天地の全ての環境を代表したその中心として立てました。そのため、全ての人間は、宇宙の中心になろうと主張できる自主権を持っているのです。それは、猿の世界やライオンの世界、虎の世界にはありません。人間世界にだけあるのです。 <br />人間は万物の霊長だと言いますが、万物の根本となる霊長は神様です。人間には霊があります。人間はその霊の中の長<br />であるため、結局、神様と直結させて霊長と言うのです。万物の霊長は、人間それ自体だけではなることができません。人も被造物なのに、どのように万物の霊長になるのかというのです。<br />被造物とは相対的結果体です。被造物としてだけでは原因に通じることができず、原因を占領することができません。(天聖経395ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"><div>人間が万物の霊長という特別な価値をもって生きる条件とは何でしょうか。万物よりも先にあり、それ以後にも永遠に存在する神様の心情をもつことです。神様の心情をもてば、何よりも先立つことができます。中心、すなわち根と関係を結んでこそ、人間の価値が決定されるのです。それがすなわち心情です。</div><div>この心情は、太初から神様と共にあるものです。この心情をもって号令をかけるとき、万物は、「はい、おっしゃるとおりです。ありがとうございます」と言うでしょう。そのようになっています。しかし、神様も万物もなぜ悲しむのでしょうか。それは、この心情関係が断ち切れたからです。この断ち切れた心情関係をつなぐためのものが復帰歴史であり、復活の歴史です。心情関係がつながれば、神様に対して「あなたは私の父であり、私はあなたの息子、娘です」と言うことを否定する論理はありません。いかなる人も否定できません。父子の間の心情関係は、いかなるものによっても否定できないのです。(天聖経649ページ)</div></div><div style="text-align: left;"><br />大洋を行き来する大きな船が破損する危険が生じるときは、その船の中で暮らしていたねずみが錨綱をつたって陸地に逃げるという話を聞いたことがありますか。<br />微々たるものにすぎない動物も、未来の自分の生死の境を見極められるのに、万物の霊長である人間は、それができないのです。これは堕落したためです。(平和経581ページ)</div><div style="text-align: left;"><br />愛の理想を中心としてみるとき、動植物の世界の愛の関係は、すべて繁殖を前提としてのみ行われます。しかし、人間だけはその例外です。人間は、夫婦の愛の関係において自由を享受します。それが万物の霊長たる特権です。神様は、息子、娘である人間が無限の喜びを持つように祝福したのです。</div><div style="text-align: left;"><br />神様が許してくださった真の自由は、責任性を前提とします。もし責任性なしに個々人が愛の自由だけを主張して実践すれば、どれほど大きな混乱と破局がもたらされるでしょうか。<br />至高な愛の理想を達成する人間の完成は、愛に対する責任性をもつときに可能なのです。<br />その責任性とは、次の三つを考えることができます。</div><div style="text-align: left;"><br />第一に、人間は愛の自由を下さった神様に感謝しながら、自己修養、自己管理によって自由な真の愛の主体となる責任です。人における愛の責任性は、法や世間体のために守られるものではなく、神様との生きた縦的な関係の中で、自己主管、自己決断によって守られるものです。<br />第二に、相対に対する責任性です。人間は本性的に、自分に対する相対からの愛が分けられることを願いません。夫婦間の横的な愛の関係は、父母と子女の縦的な愛の関係とは異なり、分けられれば、もはやその完全性が破壊されます。これは夫婦間では絶対的な愛の一体を形成するようになっている創造原理のためです。人には、絶対に自分の相対のために生きる愛の責任性があるのです。<br />第三に、子女に対する愛の責任性です。子女たちの誇りと幸福の基地は父母の愛です。子女たちは、真の愛で和合一体化した父母を通して生命が生まれ、そのような愛の中で養育されることを願います。父母の子女に対する最も貴い責任は、外的な養育だけでなく、彼らの霊性を完全にしてあげる真の愛の生きた要素を提供することです。家庭が貴い理由はそのためです。生活的な経験を通して体得する真の子女の心情、兄弟の心情、夫婦の心情、父母の心情は、真の家庭以外にいかなるところでも得ることはできません。(平和経116ページ)</div>nobotahttp://www.blogger.com/profile/03631300022785333517noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6473942313637128241.post-61949428518177070902023-09-06T20:42:00.001-07:002023-12-20T22:58:58.905-08:00世界言論人会議<div style="text-align: left;"> 世界言論人会議の第1回は 1978/10/19 ニューヨーク ウォルドルフ・アストリア・ホテルで開催されました。<br />2001/01/15に東京で第18回が行われています。手元の資料(平和経)ではこれが最後で、科学の統一に関する国際会議に比べると、掲載ページ数もこちらの方が少な目ですが、過去に経験したことを交えながら、やや大らかな口調のように感じられます。</div><div style="text-align: left;">ここでも、「科学の統一に関する国際会議」と同じく、私の独断でほんの一部を掲載します。</div><div style="text-align: left;"><br />***<br />1982/10/04 第五回 ソウル ロッテ・ホテル<br />テーマ:「社会の諸問題と言論の責任」<br />---<br />朝鮮戦争が起きたとき、私は北朝鮮の共産刑務所に収監されていました。その刑務所の悲惨な状況は、とても言葉では表現することができません。そこに収監された政治思想犯たちのある者は、六か月足らずで死んでいきました。<br />私は神様の特別な御加護のもと、三年近い長い歳月をその刑務所で耐え抜きました。仁川上陸作戦に続いて国連軍が北へ北へと攻め上がっていく中で、焦った共産主義者たちは、収監されていた政治思想犯を処刑し始めました。私に最後の瞬間が迫ってきていました。ところが、私は連れていかれて処刑される前の日に、劇的に国連軍の助けによって解放されるようになりました。・・・・(中略)・・・・<br />私は、マッカーサー元帥に生前に会うことができませんでした。しかし、この朝、幸運なことに、私たちはマッカーサー元帥の甥である、ダグラス・マッカーサー二世大使を基調演説者迎えることになりました。(平和経817ページ)<br />(iyo )ここで言う「北朝鮮の共産刑務所」とは興南にある肥料工場で、2年8ケ月間強制労働に服しました。<br />仁川上陸作戦により、先生はマッカーサー元帥に救われたということができます。甥のダグラス・マッカーサー二世は駐日大使をしていました。</div><div style="text-align: left;"><br />***<br />1984/11/20 第七回 東京 ホテル・ニューオータニ<br />テーマ:「言論の信頼性と社会的責任」<br />(iyo )この時、先生は収監中で、アメリカのコネティカット州・ダンベリー刑務所からメッセージを送っています。<br />ダグラス・マッカーサー2世はこの時も参加しています。総理大臣経験者も複数参加。</div><div style="text-align: left;"><br />***<br />1990/04/09 第十一回 モスクワ ソビン・センター<br />テーマ:「真の統一と一つの世界」<br />---<br />アダムとエバは、まず自分たち同士が愛の中で一つになってこそ、神様の愛の完全な対象となることができたのです。したがって、アダムとエバが一組の成熟した人間となって神様に似るようになり、神様の愛を受け、また愛を神様にお返しするためには、成長と成熟の期間を必要としたのです。真の愛の模範は、仕えられることではなく他に仕えることです。神様は、最初に御自身の愛の対象を創造されるとき、御自身のすべてのエネルギー、すなわち御自身のすべてを100パーセント投入されました。このようにして神様は、真の愛の模範をつくられたのです。言い換えれば、神様は、御自身を完全に消耗し尽くす真の愛の伝統を立てられたというのです。そして真の愛は宇宙の中心になったのです。人間を創造されるとき、神様は御自身を完全に投入し尽くしました。神様は御自身を全く空にされたのです。<br />大気中に低気圧の部分が生じると高気圧の部分は自動的に低気圧の方に引っ張られていくようになります。同様に誰かが他に絶対的に侍るようになるときには、常にその人を満たしてあげるためにエネルギーが結集するようになります。したがって、御自身の完全な愛の対象を創造するために神様がくださったすべての愛を、男性と女性は究極的に神様にお返ししてさしあげなければなりません。<br />ただ愛のみがすべての障壁を超越します。私たちが真の愛の中で神様と一つになるとき、肉的、霊的被造物に対する私たちの主管が可能になります。徹底して他のために生きるとき、私たちは初めて神様の本質に到達することができます。そうすれば、神様の思いが人間の思いとなり、神様が感じられることが自然に人間に伝達されるのです。このように生きていくとき、人間は神様の心情と愛に共鳴する器となり、二つの音叉が共鳴するように人間と神様も常に共鳴するようになるのです。(平和経837ページ)<br />(iyo )反共主義者の先生がモスクワで神様を語るというのは、たいへんな冒険というか暴挙というか!・・・・実際には国賓としての待遇を受けたようです。この時はNHKの人気記者も参加していました。</div><div style="text-align: left;"><br />***<br />1992/08/22 第十二回 ソウル ヒルトン・ホテル<br />テーマ:「二十一世紀における言論人の使命」<br />---<br />今日、自由世界の中には、共産主義に劣らぬ社会悪が台頭しています。それは、物質中心の人本主義思想であり、そこから派生する極度の個人主義と利己主義の膨張です。いつの間にか私たちの社会に、黄金と財物が神として君臨するようになりました。<br />私は、人本主義を頭から排撃するわけではありません。問題は、社会における人本主義が、徹底した無神論に立脚していることにあります。もし人本主義によって神様の実在と創造主の創造の意義が否定されるならば、人間は一握りの土に転落してしまうか、せいぜい一つの機械とみなされるでしょう。<br />これが、マルクス・レーニン主義が犯した過ちではないですか。神はいないと考えるのですから、人間は動物と大した違いがありません。そして、そこには宗教に基づく道徳があり得ず、霊魂や永生を認めないので、人間は人間に対して無慈悲になり、人間が人間に対して行うあらゆる暴悪を正当化することが可能になるのです。</div><div style="text-align: left;">このような風潮の中にあって、共産主義の解放に勝利感をもつべき自由世界の先進諸国の様相はどうでしょうか。極端な利己主義と個人主義は享楽主義を生み、すべての社会生活に腐敗が氾濫するようになりました。家庭は破綻し、政治的な腐敗は深まり、経済は衰退し、未来の主人である若者たちは、非道徳と麻薬と犯罪によって、その良心が姿をくらましつつあります。そのような彼らにどうして二十一世紀の主役を期待することができるでしょうか。(平和経858ページ)<br />私は昨年の11月30日、不倶戴天の怨讐である共産主義国、北朝鮮を訪問しました。・・・・(中略)・・・・<br />彼(金日成)は私のことを怨讐視し、生命を奪おうとしていた人であり、三年もの間、監獄に閉じ込めた人でした。私はその怨讐を抱擁したのです。私の胸中に彼が怨讐であるという思いがあったとしたら、どうしてこのようなことが可能だったでしょうか。<br />私は、父母の心情で北朝鮮の地を訪ねていきました。そして、父母の心情で金日成主席を抱擁しました。私は真の愛を実践するために行ったのです。そこには闘争の概念は無く、憐憫の情があるだけでした。(平和経860ページ)<br />(iyo )「三年もの間、監獄に閉じ込めた」とは、前述の興南収容所でのこと。</div><div style="text-align: left;"><br />***<br />1997/11/26 第十四回 ワシントンDC JW・マリオット・ホテル<br />テーマ:「世界化と世論、二十一世紀を展望しながら」<br />---<br />私は既に「ソ連共産帝国は間もなく終焉を告げるであろう」と警告したことがあります。1985年、ジュネーブで開かれた第二回「世界平和教授アカデミー」世界大会のテーマを「ソ連共産帝国の滅亡」とするように世界の碩学たちに通達しました。<br />学者たちは、初めはもちろん当時の米ソ関係を見て、私のこのような主張にとまどいながら、非常に困り果てた様子でした。しかし、私の説得力ある主張を受け入れて、その大会のテーマが私の提案通り採択されました。<br />第十一回「世界言論人会議」が1990年4月、モスクワで開催されたとき、私は「ワシントン・タイムズ」を中心につながっている自由世界の言論人たちを多数伴い、ゴルバチョフソ連大統領(当時)に会ったのです。<br />私は、ゴルバチョフ大統領に会ったとき、無神論的唯物論の未来は自己破滅しかなく、唯物論を放棄して、宗教を中心とした霊的価値観の復活を試みるように忠告しました。(平和経873ページ)<br />(iyo )モスクワ訪問や北朝鮮訪問の内容は先生の自叙伝により詳しく載っています。<br />韓国版は金寧社から出版されていますが、日本語版は、<br />「平和を愛する世界人として」 文鮮明自叙伝 文鮮明著<br />翻訳・編集協力:株式会社 光言社 発行所:株式会社 創芸社 <br />金寧社は韓国では大手出版社のようで、編集にあたっては宗教用語の使用は控えめにされているとか。</div><div style="text-align: left;"><br />***<br />2001/01/15 2001世界言論人会議 東京 京王プラザ・インターコンチネンタル・ホテル<br />テーマ:「新千年における言論の統一された方向」<br />---<br />人間の尊厳性の根拠は、どこにあるのでしょうか。人類は本来、神様によって、神様の子女として創造されました。私たちが神様のことをしばしば「父」と呼ぶのはこのためです。そして、私たちの目標は、神様に似た子女として成長し、神様の神性を相続することです。さらに神様を中心とした個人は、同様に神様を中心として生活する家庭を形成するようになります。結局、全人類は、この真の家庭で、真の父母であられる神様の愛と生命と血統を受継ぐようになるのです。<br />人間社会における宗教の役割は、人間と神様の関係を向上させる上で重要なものです。そのような意味で、信仰は必須的なものです。皆様がいかなる宗教を信じたとしても、その宗教が提示する皆様と神様との関係が核心となります。特に人間が信仰を通して、絶対、唯一、永遠、不変であられる神様と一つになるときに、人間の内的価値も、絶対、唯一、永遠、不変になります。ですから、信仰は、人間の尊厳性に必須不可欠な価値をもっているのです。<br />そのような意味で、信仰の自由、信仰生活、信仰に基づいた活動などは、理想社会を建設するための柱になるのです。このような信仰的価値観を土台とした人間の生活は、ために生きる神様の真の愛の世界へと人類を導いていくでしょう。すべての宗教が、信仰を土台として真の愛を実践するとき、世界は神様のもとの一つの兄弟姉妹として結ばれるようになるのです。(平和経879ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"><br /></div>nobotahttp://www.blogger.com/profile/03631300022785333517noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6473942313637128241.post-33710224031175132862023-09-04T22:55:00.002-07:002023-10-27T19:14:24.853-07:00科学の統一に関する国際会議<div> 科学の統一に関する国際会議は1972年に始まり、ほぼ年に1回開催され、2000年に第二十二回まで続きました。</div><div>その間、世界中の科学者が集まるようになり、ノーベル賞受賞者も30人ほど含まれていたとか。<br />講演された先生の文章の多くは私の手元にある平和経にも掲載されています。<br />先生がアメリカのダンベリー刑務所に収監されていた時にも、会議は開催されています(1984年)。</div><div><br /></div><div><div>なぜ、宗教家の立場で、こういうものを主催したのか?・・・・先生の講話から探してみると・・・・</div><div>「世界で我こそはというノーベル賞受賞者などの碩学たちを、文総裁が押したり引いたりしながら「ああしなさい、こうしなさい」と言えるでしょうか。大会を一度開くたびに途方もない予算がかかる国際大会を、なぜ毎年行ったのでしょうか。</div><div>二十世紀に入り、驚くべき速度で発展した科学文明は、人類に豊かな生活を享受できるようにしてくれましたが、一方では自然と環境の破壊、大量殺傷武器の開発、大気オゾンの破壊など、暗い影を落としたのも事実です。科学技術を利己的な動機で使用するとき、科学技術は人類を破滅させるかもしれない凶器に急変するのです。</div><div>科学的理性を固く信じた人類は、二度にわたる世界大戦を経ながら、人間の野蛮性に対して驚愕するようになり、科学的理性に対する信頼が落ちるようになりました。また現代産業社会において、人間は物質文明の奴隷となってしまいました。これらすべての現象は、科学の誤用から来る結果なのです。</div><div>科学は、科学者たちが好んで使う言葉のような「価値中立的な学問」なのではありません。科学こそは、人類のために正しく使われなければならない「価値指向的な学問」なのです。</div><div>私は、毎回開催される「科学の統一に関する国際会議」の主題を「絶対価値の探求」と関連させて設定しました。」(平和経1096ページ)</div></div><div><br />以下は、公演文の中から、ほんの一部を私が独断で拾ったもの。</div><div><br />*****<br />1972/11/26 第一回 ニューヨーク ウォルドルフ・アストリア・ホテル<br />テーマ:「世界の道徳啓蒙に対する統一科学の任務」<br />---<br />人間をはじめとした万物は、すべて質料的な側面と形相的な側面とを兼ね備えた統一的存在であることは、誰も否定できないでしょう。人間は心と体の統一体であり、動物は本能と体、植物は生命と物質、そして無機物は作用と物質の統一体です。<br />ところが存在論的に見るならば、宇宙は結果の世界であって、そこには必ずその究極の原因がなければならないとしたときに、唯物論はそれを物質であると主張し、唯心論、すなわち観念論はそれを精神であると主張しています。<br />しかし、結果の世界がそのような統一体であることから推論すると、その原因も、質料と形相の二つの要素を統一的に持ち合わせている一元的存在でなければならないのです。<br />一元的で統一的な原因であってこそ、そこから統一的な結果の世界が生じるのであり、また統一的結果には、必ず統一的で一元的な存在がその原因にならなければならないのです。<br />・・・・(中略)・・・・<br />したがって人間生活を向上させるにしても、肉身の物質的生活だけを改善しては完全な幸福は実現されないのであり、物質と精神の両面の生活を統一的に同時に改善していくときに、初めて真の幸福が到来するようになるのです。<br />(平和経712ページ)</div><div><br />今日まで人間は、輝かしい科学的発展を成し遂げることによって、創造的生活面においては神様に似たと言うことができますが、愛の生活においては、全く神様に似ることができずにおり、そのために悲しみと苦痛と不幸が継続しています。愛は調和なので、愛のないところに調和はあり得ず、調和のないところに平和や幸福はあり得ないので、ここから様々な悲惨な様相が起るようになるのです。(平和経714ページ)</div><div><br />*****<br />1973/11/21 第二回 東京、帝国ホテル<br />テーマ:「現代科学と人間の道徳的価値観」<br />---<br />人間が科学を発達させた動機には、様々なものがあると思いますが、究極的にはあくまでも、人間共同の福利、すなわち人類共同の平和と繁栄を実現することにあると見て間違いないでしょう。<br />しかし、科学の領域が細分化され、その方法がより一層分析主義へと流れたために、人類共同の福利という価値の方向とは少し異なる方向に発展してきたのです。<br />人間が科学に期待したことは「人類共同の福利」だったのであり、主体である人間の幸福でした。これに対して、科学が成し遂げた成果というのは、対象としての物質的環境の改善、また生活手段の開発だったのではないでしょうか。<br />人間が望んだのは、主体の福祉でしたが、科学が成し遂げたのは、対象の改善だったのです。<br />したがって、私は、人間の要望と科学の成果との不一致から、人間の主体性の喪失がもたらされたのではないかと思います。科学では、生活環境と手段の改善、開発のような対象の問題解決に力を注ぎながらも、それと同時に、主体性の問題も共に扱うことが望ましいことであると言うことができます。(平和経719ページ)</div><div><br />私は人間の姿を、心身の調和が取れた統一体と見ています。価値または善の目的を中心として、精神と肉身が調和の取れた統一を成し遂げている統一的存在が本然の人間なのです。<br />ですから、科学の本来の姿というのは、このような人間の二重性に似て、精神的側面と物質的側面の両面を統一的にもち合わせたものではないでしょうか。ここで精神的側面とは、道徳的価値の領域のことであり、物質的側面とは、物質の現実を扱う従来の科学の領域を意味します。(平和経720ページ)</div><div><br />*****<br />1976/11/27 第五回 ワシントンDC ヒルトン・ホテル<br />テーマ:「科学の調和と絶対価値の探求」<br />---<br />いかなる存在も、何らかの力なしでは、生存し、作用することができません。各存在の固体内で作用する力と、存在と存在の間の作用を可能にする力があります。<br />それでは、このような力はいかにして生じるかということが問題です。力が生じるためには、それに先立って、何らかの主体と対象がなければ絶対に生じることができません。<br />すなわち、主体と対象の関係が先有条件となって、力が生じるのです。<br />例えば原子にも、主体である陽子と対象である電子があって、初めて作用するのです。<br />力の作用は、主体と対象が一つになるための目的から始まるものなので、力が先か、主体と対象が先かと問う場合は、間違いなく主体と対象が先であって、力の作用は、主体と対象が一つになるための過程的現象なのです。<br />そして、この主体と対象との関係の差の軽重によって、力の作用がそれぞれ異なるので、様々な力が作用するたびに、その方向性と目的性が変わるようになっており、それによって多種多様な存在世界が形成されるのです。<br />このように、いかなる主体と対象の間の力の作用にも、方向性と目的性を帯びて作用するようになっているのは、第一原因的存在の中で基本的な主体と対象が先に存在し、方向性と目的性を帯びて作用しているからなのです。<br />固体内で主体と対象が完全に一つとなった存在は、他の存在と関係を結ぶために、主体的立場、あるいは対照的立場を取り、それと一つになることによって、より大きな方向性と目的性を帯びた存在へと発展するのです。<br />主体的存在と対象的存在が作用するところでは、常にある共同利益のためにやりとりしながらより大きな存在に発展するのです。(平和経729ページ)<br /><br />*****<br />1982/11/25 第十一回 フィラデルフィア フランクリン・プラザ・ホテル<br />テーマ:「絶対価値観」<br />---<br />宗教ごとに、その教理が成立する根拠としての絶対者がいます。ユダヤ教の絶対者はヤハウェであり、キリスト教の絶対者は神様であり、イスラームの絶対者はアッラーです。儒教や仏教は絶対者を明示していませんが、儒教の徳目の根本である「仁」は天命と連結するので、「天」が儒教の絶対者と見ることができ、仏教では、諸法は常に変化しており、真理は諸法の背後にある「真如」から見出すことができるとしているので、「真如」が仏教の絶対者と見ることができるのです。<br />ところが、そのような絶対者に関する説明が、非常に曖昧です。絶対者の属性はどのようなものであり、なぜ創造し、創造の動機は何であり、どのような方法によって創造し、いったい神様(絶対者)は実際に存在するのか、などに関する解明が、宗教ごとに明確になっていません。したがって、各宗教の徳目が成立する根拠が明確でないので、今日の宗教の説得力が弱まっているのです。<br />全ての宗教の教えである徳目、すなわち実践要目がきちんと守られるためには、その宗教の本体である絶対者の属性と創造の目的、その絶対者の実在性などが十分に明らかにされなければなりません。中世時代、または近世以前までは、人間の頭がそれほど分析的、論理的でなかったので、「あなたの隣人をあなたの体のように愛しなさい」、「王に忠誠を尽くし、親に孝行しなさい」と言えば、無条件にその教えが正しいと思って従順に従いましたが、科学が発達した今日においては、人間の精神がとても分析的になり、論理的になっているので、いくら宗教指導者が「このようにしなさい」と教えても、「なぜそうしなければならないのか」とその理由をしつこく尋ねてきます。したがって、その疑問に答えてあげなければ、その教えは説得力を失ってしまうのです。<br />宗教の教えに対する疑問には、様々なものがあります。<br />・・・・(中略)・・・・<br />「じっとしていてもよい神様が、なぜ宇宙を創造したのか」、「神様の創造の目的は何か」、「創造には方法があるはずだが、その方法とは何か」・・・・(中略)・・・・などの疑問です。<br />このような疑問に対して合理的な答えが与えられない限り、今日の有識者たちは、宗教を受け入れようとしないのです。・・・・(中略)・・・・<br />歴史的にキリスト教の世界であるヨーロッパの土壌に、近世以後、唯物論と無神論が発生し、今日、全世界を席巻しているのは、その根本原因が実にこの本体論の曖昧性にあるのです。(平和経753ページ)</div><div><br />*****<br />1984/09/03 第十三回 ワシントンDC マリオット・ホテル<br />テーマ:「絶対価値と新しい文化革命」<br />---<br />私たちがどう考えようと世界は一つです。ある分野が他の分野よりも、ある事実に関して完全な見解をもっているといった考えや、異なった分野における発見や発展は互いに関連性がないという考えは誤ったものです。<br />科学や学問のあらゆる分野は、互いに絡み合っています。すなわち、各分野はそれぞれ特異性をもってはいますが、実際は、全体における部分的な見解にすぎないのです。すべての研究分野が、事実に関する統合された見解を形成するために、共に研究するこということは、人類の全体的な進歩や幸福にとって有益なことです。<br />・・・・(中略)・・・・<br />ほとんどの科学者と学者たちが、平和と繁栄を実現しようという切実な熱望をもってたゆまぬ努力を続けてきたにもかかわらず、貧困と文盲、疾病と分裂と戦争は、先進諸国でもいまだになくなっていません。科学と技術は非常に発展しましたが、人類は、悲しみと苦痛と貧困によって苦しみ続けているのです。<br />多くの指導者たちは、このような不幸を取り除き、真の平和と安定を実現しようと努力していますが、世界では平和に対する形ばかりの約束が繰り返されているだけです。民主的資本主義や共産主義的社会主義のいずれも、世界の問題を解決することができずにいます。どちらも、世俗的人本主義をして人間存在を唯物論に陥らせ、生命の価値を落として<br />しまいました。いわゆる自由世界といわれる体制は、その無気力と方向性の喪失によって、このような状況をもたらし、共産世界は唯物論という理念体系によってこのような事態を引き起こしました。<br />目的喪失の状態が全世界に広がり、混乱をより一層加重させています。なぜこのような状況が起きるようになったのでしょうか。その主要な原因は、人間の行為を規制する価値基準が徐々に弱まったからです。倫理と道徳がその力を失ったために、善の基準というものが、ほとんどなくなってしまったのです。このような力の喪失の原因は、部分的には科学の基盤が誤った方向へと引っ張られたことにあります。<br />価値中立的であろうとするあまり、科学はその発展過程において、人間性と道徳的価値に関する問題を除外してきました。科学は次第に分化し、各分野はより一層専門化され、分析的、物質的になり、道徳と価値に関する問題については顧みなくなりました。その結果、人間の科学に対する支配が、この地球星において誰も人間の運命を確信することのできない状況にまで弱まってしまったのです。<br />価値と道徳を喪失するようになった、もう一つの理由は、過去の価値と道徳の基準では、現代の有識者たちをこれ以上<br />満足させることができないということです。新しく妥当な道徳と倫理は、現代人にとって明確で適応し得る新しい価値基準に由来すべきです。・・・・(平和経775ページ)</div><div><br /></div><div>(iyo )この会議では、先生はダンベリーに収監されていたはずなので、代読により発表されたと思います。<br /><br />***<br />1995/08/22 第二十回 ソウル シェラトン・ウォーカーヒル・ホテル<br />テーマ:「真の知識、真の家庭、そして世界平和」<br />---<div>私は、共生、共栄、共義の社会建設を教えてきました。理想世界は、経済的には共生主義であり、政治的には共栄主義であり、そして倫理的には共義主義の社会です。</div><div>共生主義とは、神様の真の愛を基盤とした共同所有をその中心内容とします。共生主義社会の基本となる典型は家庭です。単純な物質的所有だけではなく、神様の愛を基盤とした共同所有です。家庭におけるすべての財産は、たとえ法的には父母の名義になっていたとしても、実質的には父母と子女、すなわち全家族の共同所有となっています。それと同時に、家族の個々人は、各々部屋と衣類、そしてお小遣いを持つようになります。</div><div>このように、家庭においては、家族が共有を基盤として個人的な所有も認められ、全体目的と個体目的が調和するようになっています。このような愛が基盤となった家庭の理想的な所有形態が社会、国家、世界へと拡大されたものが、理想社会の所有形態です。</div><div>・・・・(中略)・・・・</div><div>共栄主義とは、神様の真の愛を基盤として共同参加し、自由、平等、幸福の理想が実現される政治を追求する主義です。共同政治参加の形式は、代議員を選出することになります。しかし、政治の単位が愛中心の家族関係の拡大であることを理解するとき、代議員の候補者は互いに敵対関係にはなり得ません。一人の神様を父母として侍る兄弟関係によって周辺から推薦され、奉仕する使命感をもって候補になるのです。</div><div>・・・・(中略)・・・・</div><div>共義主義とは、真の愛を中心とした普遍的な倫理、道徳を守り、構成員すべてが善と義の生活を追求する主義のことをいいます。これは、神様の真の愛による絶対価値のもとで、万民が倫理と道徳を普遍的に実践する道義社会を目指す思想となるのです。</div><div>理想世界は、理想家庭と完成した人間を前提としています。真の愛による理想的な父母、理想的な夫婦、理想的な子女の統一的な調和が理想家庭の要件になります。また、完成した人間は、真の愛によって心身が調和統一を成し遂げた人間です。このように完成した人々が、真の愛の基地である家庭生活、またその拡大である社会生活において、主体的に善と義を行う最高の世界、道義世界が正に理想世界なのです。(平和経807ページ)</div><div><br /></div></div>nobotahttp://www.blogger.com/profile/03631300022785333517noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6473942313637128241.post-77639103914288217462023-07-16T19:23:00.000-07:002024-02-26T14:14:46.014-08:00霊的アンテナ<div style="text-align: left;"><div>以下、全て先生の講話です。</div><div><br /></div><div>皆さんは、永遠の世界があること、すなわち霊界があることに対して絶対に否定できません。</div><div>なぜなら、それは少しだけ努力すれば体験するからです。</div><div>少しだけ努力すれば、難なく体験するというのです。</div><div>長く統一教会にいる人たちは、みなこれを体験して、統一教会に入ってきたのです。</div><div>体験しなかったとすれば、人々が反対し、迫害する統一教会を誰が信じるでしょうか。</div><div>ところが、体験するので、信じなければ居ても立ってもいられないように、霊界から押し出すのです。それで信じてきたのです。</div><div>(真の父母経1297ページ)</div><div><br /></div><div>私が伝道して、このように多くの人が来たのではないのです。</div><div>霊的に高い霊力をもった人々が集まってきました。</div><div>霊界が案内してきたのです。</div><div>このようにして来た人々は、「神様はいない」とは言えません。</div><div>そのような経験のない人が神様を否定するのであって、経験がある人は神様を否定できないのです。</div><div>(真の父母経1297ページ)</div><div><br /></div><div>自分の素質が神霊的な面に合う人々は、霊的なことについて関心をもちます。</div><div>私はもともとそのように生まれつきました。神様に関する話をすれば、非常に気になるのです。</div><div>ご飯を食べずに二十四時間聞いても、聞くほどおもしろくなるのです。</div><div>そのようなときは、それを一方的にするのではなく、真理で補強しなければなりません。</div><div>このように、両面を選別して行かなければならないのです。</div><div>自分の素質、自分がどのようなタイプの人間かは、各自が分かるでしょう。そうすれば、その反対の分野を啓発するために努力しなければなりません。</div><div>真理を探求したり、神霊的な面での体恤をしたりしなければなりません。</div><div>必ず祈りと真理の探究が必要です。</div><div>神霊的なタイプの人は、既に霊的に感じたことを真理で消化できる基盤を築かなければならず、知性的なタイプの人は、その知性的な面に神霊的な面を補強できる体恤的な基盤を築かなければなりません。</div><div>そうすれば、それは必ず、自分が落ちていくことのない永遠の基盤として発展できる基礎になります。</div><div>自分一人では大変なので、必ず自分と相対的な素質をもつ人を友達にしたり、師にしたりして、指導を受け、協助を受けていかなければなりません。それが一番正しい道なのです。</div><div>(真の父母経1298ページ)</div><div><br /></div><div>霊的に通じる人の多くは、霊的には強いのですが、真理の面では強くありません。</div><div>初めは太いのに最後が細くなれば、これは始終如一(始めから終わりまで同じ調子であること)ではないので、永遠に続かないのです。いつか必ず転がり落ちます。</div><div>また、真理は強くても、霊的な面が弱ければ、永遠に続きません。</div><div>ですから、私たちは、これを調整する生活をしなければならないのです。</div><div>祈りと真理、神霊と真理で礼拝せよという言葉があります。</div><div>それは、平衡をつくって和合する場に入りなさいということです。</div><div>人間は、霊界と肉界を調整しなければなりません。</div><div>霊的世界の中央に立たなければならず、真理の世界の中央に立って、調整できる人間にならなければなりません。</div><div>そのような人間にならなければ、完全な立場になることはできません。</div><div>(天聖経773ページ)</div><div><br /></div><div>心の門、すなわち心門があります。</div><div>皆さんが祈ってみれば分かるのです。時間によって感じが違います。</div><div>真夜中の一時に祈るのと、三時に祈るのは違います。それは皆さんが体験してみれば分かります。</div><div>神秘的な深い境地に入って祈ってみれば、祈る時間によって感じが違うというのです。</div><div>朝に感じるものと、昼に感じるものと、夕方に感じるものと、夜に感じるものが、全て違います。</div><div>私たちの心の状態によっても、感じる基準が違うのです。</div><div>私たちが肉体的な感情をもって常に季節の変化によって感じる感度が変わるのと同じように、心の世界もそうだというのです。</div><div>ですからどの時間によく祈れるかを知らなければなりません。</div><div>祈りのよくできる時間は、神様と通じる距離が近いからです。</div><div>(天聖経773ページ)</div><div><br /></div><div>韓国語に暗示という言葉があります。それはどういう意味でしょうか。</div><div>「私」が道を何げなく歩いているとき、ある良い家の壁に止まっていた鳥が飛ぶのを見て、ひそかに何かを感じることです。</div><div>実際の生活において、そのようなことが起き始めるのです。そのような暗示的なものが多くなるというのです。</div><div>ある人が語った言葉に、偶然何かを悟るようになります。</div><div>このような事実がますます多くなるのです。</div><div>暗示の段階を経るようになれば、どのようなことが起きるのでしょうか。</div><div>夢の啓示のようなことを体験するようになります。</div><div>夢の中で起こることですが、夢も、深い眠り中での夢ではありません。</div><div>パウロも夢うつつの中で三層の天を体験しました。</div><div>夢うつつの中でそのような現象や、あるいは声などというものを、五官を通して感じるようになるのです。</div><div>そのようなことを何げなく流してはいけないというのです。</div><div>それを総合して、「私」をどのような方向と連結させるために現れるのかについて、科学的な統計を出しなさいというのです。</div><div>必ずその結果が現れます。</div><div>ですから、皆さんが忘れられない夢の啓示のようなものは、100パーセント的中するようになります。</div><div>夢うつつの中で、ある人なら人、品物なら品物が関係を結ぶのですが、それが現実の中で実体として連結されるというのです。</div><div>(天聖経777ページ)</div><div><br /></div><div><div>啓示の段階を過ぎれば、次は黙示の段階です。</div><div>一日中霊界に入って体験をする、などというものです。そのような世界にまでつながります。</div><div>神様に対する生活的な感情圏まで到達することができます。</div><div>皆さんがこのような体恤的な信仰をしなければ、偉大な天のみ旨の結果世界を、私たちの生活舞台に適用させることができません。ですから体験をもたない信仰者は、信じることができません。体恤的な信仰がどれほど高貴かということを、皆さんが知って啓発していかなければなりません。</div><div>その次に、役事というものがあります。霊的な力が、電気作用と同じように入ってきます。高圧電流に接したときと同じような力が訪ねてくるようになれば、私たちの意識より強い力が入ってくるので、それは別の世界の意識なのです。</div><div><br /></div><div>体恤するためには必ず祈らなければならず、精誠を尽くさなければなりません。そこで現れる啓示や夢の啓示を絶対に無視してはいけません。それを調整して、現実的生活圏内に、実戦舞台にいかに適用させるかということが、信仰生活において最も重要です。(天聖経778ページ)</div></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div></div>iyo_mizukihttp://www.blogger.com/profile/11025857562542866763noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6473942313637128241.post-39322574178585613292023-06-10T22:02:00.003-07:002023-06-14T21:25:04.561-07:00堕落で血統が変わった<div style="text-align: left;"> 堕落の経緯については <a href="https://wa1.genriz.com/2022/01/blog-post_23.html">*こちら*</a> に挙げています。</div><div style="text-align: left;"><br />先生の講話より・・・・(「<a href="https://wa1.genriz.com/2022/02/blog-post_7.html">堕落とは</a>」にも載せた文です。)<br />「堕落とは血統が変わったことです。家庭がなくなってしまい、国がなくなってしまいました。<br />・・・・(中略)・・・・<br />サタンの血統が入ってきて、心臓から動脈、静脈がサタンの血によって動き、すべての細胞が使えなくなったのです。血統がめちゃくちゃになったので、実体世界の歴史を知らない無知に陥り、悲惨になったのです。」<br />(天聖経420ページ)</div><div style="text-align: left;"><br />とんでもなくひどい表現がなされています。<br />堕落人間側から見ると、「この世界には家庭もあるし、国もあるではないか」というでしょうが、これを個人のスケールでイエス様が言われた言葉・・・「<a href="https://sottyoku.genriz.com/2023/03/blog-post.html">死人を葬ることは、死人に任せておけ</a>」(ルカ9/60)・・・・堕落した人間は死人と同じということ・・・・を家庭と国に拡大し、あるいは逆に細胞に縮小して言ったものでしょう。<br />個人が死んでいるので、その集合体の家庭や国が生きているはずはありません。</div><div style="text-align: left;"><br />これが現状なら「この世は地獄」と言えるでしょう・・・・・・・・が、堕落した本人達は深刻に感じることができないでいます!<br />感じているのは、当初の構想理想を持っている神様だけ?<br />中にはこんな質問をしてくる人たちもいるかも・・・・<br />「血統がめちゃくちゃになったという証拠はありますか?」・・・・これでは天国に行き着くのはまず無理。</div><div style="text-align: left;"><br />今の世界は、井の中の蛙が80億匹いる状態でしょうか・・・・誰も井戸の外を見ることができません。<br />それで、キリスト教ではメシアが必要だと言います。<br />井戸の中の80億匹よりも、井戸の外を見ることができる1匹!</div><div style="text-align: left;"><br />うちの教えでは、堕落することによって、人間は万物以下になったと言われます。<br />日本などでは、神棚にお供えをしますが、人間より上になった万物を通して神様から恵みを頂くのだと言われます。<br />今、ウクライナとロシアが戦争していますが、神様の子女として造られ、堕落前には神様と一問一答できたと聖書に書かれている人間が、地球のあちこちで虫けらのように簡単に殺されています。</div><div style="text-align: left;"><br />なぜエデンの園を追い出されたのか?<br />この世界でも「勘当だ!」と親に言われて家を追い出される方もいますが、そうなると自分の面倒は全て自分で見なければなりません。<br />アダムとエバの代では堕落せず、その子孫の段階で起きたならば、もとに戻すのは容易だっただろうとも言われます。<br />キリスト教にもいろいろな分派があり、いろいろな解釈がありますが、すなおに見れば、そのまま住まわせるわけには行かない状況だったので、追い出されたのでしょう。</div><div style="text-align: left;"><br />以下は先生の講話ですが、このブログの「<a href="https://wa1.genriz.com/2022/02/blog-post.html">堕落しなかったら</a>」にも載せています。<br />「アダムとエバが善悪の実をとって食べずに堕落しなければ、どのようになっていたでしょうか。神様の圏内で結婚して神様の愛を受け継ぎ、神様の生命と血統を受け継いで直系の子女になっていたのです。<br />このような人々には救世主が必要ありません。修養が必要ありません。<br />直系の子女は心が一つになっているので、神様のように全て通じるようになっています。一体になってすべて通じます。」(天聖経115ページ)</div><div style="text-align: left;"><br />「堕落していない本然の人間は、神様の聖殿になります。アダムとエバが堕落していない先祖になったとすれば、その心の中には神様が共にいらっしゃるのです。<br />・・・・(中略)・・・・<br />イエス様も、「私は父の中におり、父は私の中にいる」と言いました。」(天聖経374ページ)</div><div style="text-align: left;"><br />人間始祖で起こった血統変化は、神様の目から見るととてつもない激震だったのでしょう。<br />善・悪という概念がこの出来事によって生まれたのかも知れません。<br />我々人間が、自分以外の人間を見ると、あれはいい人、これは悪い人などと人の善悪を判断したりしますし、自分の心の中にも良い心、悪い心を発見したりします。<br />しかし、動物などを見ると、(たまには人食い熊とかもいて、「恐ろしさ」というのはありますが)善悪観を意識したりはしません。<br />人間と動物の行動をみれば、似た点は沢山見つかりますが、やはり人間社会は他の自然界とは一緒に扱えない別次元の世界です。<br />*余談ですが・・・・やはり人間世界と自然界は別物で、進化論は間違いだろうと思います。</div><div style="text-align: left;"><br />血統が変わったのですから、根本的な発想が変わったでしょう。<br />先生の講話からそのように感じる部分を探してみると、<br /><br />「ヘレニズムに基づいた弱肉強食による適者生存の理論は、根本的に間違っています。<br />ために存在し、真の愛で投入して忘れる絶対服従の対象として、主体的愛の主人として完成させようという絶対価値観を、彼らは見落としているのです。<br />真の愛を排除すれば、闘争概念だけが残るのです。<br />しかし、神様の「創造原理」は、闘争を通した生存と発展ではありません。主体と対象の関係の中で相互に授受作用をしながら、絶対価値観に基づいて調和統一を追求するのです。」(平和経1114ページ)</div><div style="text-align: left;">(iyo )(注.上記で「絶対服従」という言葉が出て来ますが、日本語での通常の意味とはちがっていて、「自らが我を忘れて、相手を大切に思って尽くす(仕える)」というような意味と理解するのがいいかと思います) </div><div style="text-align: left;"><br />「今まで、人間世界では個人の相対観が異なり、家庭の相対観が異なっていました。<br />この異なる相対観を総括的に収拾できる主流的な能力を持っているのは、神様の愛だけです。<br />「統一思想」は、神様の愛と心情を中心として個人統一、家庭統一、民族統一、国家統一、世界統一を成し遂げ、最後には神様統一を経て、相対観を超越する世界を成し遂げようというのです。<br />その時には主権もありません。主権者が高いのでもなく、相対者が低いのでもありません。<br />主権者は相対者のための存在であり、主体は相対のための存在です。<br />そのような世界が来てこそ、今日、世の中で言う支配者や被支配者というようなすべての対立概念が解決するのです。<br />それは、ほかのいかなる論考を通してもあり得ません。ただ神様の愛の他にはないという結論が出てきます。<br />今は、人間の愛にも相対観があります。「わたしはお金のゆえに愛する。何々のゆえに愛する」という人がいるのですが、それは純粋ではありません。<br />ですから、相対観を超越できる神様の愛を訪ね求めていこうというのが、「統一思想」です。<br />これから民主主義世界も、共産主義世界も、この愛の基準に吸収させて一つにしなければなりません。<br />そのようにしなければ、理想世界が訪れないのです。」(真の父母経995ページ)</div><div style="text-align: left;"><br />(iyo )善しか知らないとすれば、殆どの法律は不要になるでしょう。</div><div style="text-align: left;"><br />トインビーさんの言われる神の国と、先生の講話に出てくる天国の間には大きな開きがあるように思われますが、それでも「歴史の研究」にもこんな記述が・・・・<br />「意志の調和があり得る唯一つの社会は、二人もしくは三人---もしくは二十億人、三十億人---が神の名に於いて神を中心に集まっている社会である。<br />神が造った人間ならびに唯一の真の神を包含する社会に於いて、神は無類の役割を演じる。<br />神は各人間構成員と神自身との関係の一方の当事者である。<br />しかし、このために神はまた各人間構成員と他のすべての人間構成員との関係の当事者でもある。<br />そして人間の魂に神自身の聖なる愛を吹き込むこの神の参加を通して、人間の意志は和解することができるのである」/15-p226</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"><br /></div>nobotahttp://www.blogger.com/profile/03631300022785333517noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6473942313637128241.post-76885569386991200982023-04-05T20:47:00.020-07:002023-12-20T22:54:22.982-08:00ために生きる<div style="text-align: left;"> (iyo )「ために生きる」・・・・この小さいブログの中にも何度も出てくる言葉で、今さら、タイトルとして掲げなくてもいいのでは?・・・・とも思えるほど!<div>以下、先生の講話より。</div><div><br /></div><div><div>神様はなぜ「ために生きよ」という原則を立てざるを得なかったのでしょうか。その内容と要因を、私がいくつかお話ししようと思います。</div><div>真心から命を懸けて世話してくれた人がいたとしましょう。そこで皆様自身は、100パーセント世話になったとすれば、その世話に報いるために、50パーセントだけお返ししたいと思うでしょうか。それとも100パーセント以上お返ししたいと思うでしょうか。</div><div>皆様の本心はいかがでしょうか。それは言うまでもなく100パーセント以上お返ししたいと思う本心があるので、今日皆様は、その本心に従って救いを受ける可能性があるのです。</div><div>ですから、知恵の王であられる神様は、ために生きる原則を立てざるを得なかったという事実を知らなければなりません。</div><div>ために生きるときは、永生するだけではなく、繁栄するのです。そこから発展します。</div><div>世話になると、その世話に報いるために適当にお返しするはずはありません。真心から命を懸けてそれ以上お返ししたいと思う本心をもっています。そのような心があるので、天国に行くことができるのです。</div><div><br /></div><div>また、ために存在する原則を立てざるを得ない二番目の要因は何でしょうか。</div><div>例えば、皆様の家庭に八人の家族がいたとしましょう。その八人の家族のうち、最も幼い弟が、家庭のために生きることにおいて、父や母、あるいは兄や姉よりも、その家庭のために生きるときには、どのような立場になるでしょうか。だんだんと高められ、中心的な存在として登場するようになるのです。</div><div><br /></div><div>今日、宗教において教えてくれるすべての論理は逆説的なようですが、ために存在するこの原則に従って見ると、よりために存在すればするほど、より次元の高い中心存在になるのです。なぜ中心存在になるのでしょうか。</div><div>ために生きる人は、万宇宙のために存在する神様に似ているからです。</div><div>ですから、神様が自分に似た存在を、神様に代わる中心存在として立てるというのは妥当な結論です。</div><div>心からために生きる主体の前に、心からために生きる対象となるとき、自然に中心存在にならざるを得ません。</div><div>(平和経80ページ)</div></div><div><br /></div>(iyo )以下に掲げた先生の講話は神様の被造世界創造についてですが、その動機等については寧ろ<a href="https://wa1.genriz.com/2022/01/blog-post_10.html">こちら</a>の方が詳しいでしょう。</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">神様が天地万物を創造し始めたのは、対象の世界を展開するためでした。<br />結局は、別の自分の相対的存在をつくろうということです。それで、神様御自身を投入されたのです。<br />見えない神様から見える神様へと展開させようということです。<br />創造の業を行うということは、力の投入を意味します。創造とは、力を消耗することです。<br />投入したのですが、どのくらい投入したのでしょうか。<br />人々は聖書を読んで、神様がみ言で「このようになれ!」と言って創造されたと思っています。<br />しかし、そうではありません。そこには、真の生命を投入し、真の愛を投入し、真の理想を完全に投入したのです。<br />創造前と創造後が違い、想像する前は自分のことを考えましたが、創造を始めたときからは対象のために生きる時代へと転換されたのです。<br />「私がいるのは、私のためにいるのではなく、相対のためにいるのであり、息子、娘のためにいる」と考えるようになったのです。<br />ですから、皆様はそれを知らなければなりません。愛や理想という言葉は、主体と対象との関係において使う言葉なので、理想的な存在の起源は、自分のために生きるところにあるのではなく、相対のために生きるところにあります。<br />神様は100パーセントを投入しても損をするのであれば、投入されないのです。<br />返ってくるときに90パーセントになり、10パーセントが損害となれば、投入されません。それ以上に返ってくるものがなければならないのです。<br />それで、100パーセント投入することによって、なかったものが生まれました。対象が生まれました。<br />それだけではなく、その対象が、自分の望んでいた愛を持ってきて、生命を刺激する理想的対象として現れるのです。<br />神様も愛には引っ張られます。その対象が引っ張れば、ひっぱられるのです。<br />対象が好む所に神様も行くようになります。自分自身を見て喜ぶのではなく、相手を見れば見るほど喜ぶのです。<br />人間の創造は、自己の完全投入です。人間は、それによる最高の傑作です。<br />有名な画家がいれば、その画家は、遊び半分で描いた絵を重要視するでしょうか。食事もせずに精神を集中させ、すべて投入して、一つ一つ慎重に自分自身の構想どおりにできた作品に対して「傑作である」と言うでしょう。<br />「その原画は自分が持ち歩き、保管し、愛したい」と思うのです。<br />ですから、真の神様は、相対をつくることに完全投入されることによって、より価値のある理想的な完全形を展開したのです。<br />神様も、アダムとエバをお造りになってからは、アダムとエバのために存在しようとするのです。神様のためではありません。(平和経42ページ)</div><div style="text-align: left;"><br />宇宙の存在秩序は「ために生きる人生」を根本にしています。<br />神様は知恵の王なので、宇宙万象が、相対のために存在するという原則をもって生きるように創造されました。<br />これを天理の原則であり創造の秘訣として立てたというのです。<br />真の理想、真の愛、真の幸福、真の平和の世界は、神様の創造理想であると同時に人間の願いでもあります。<br />このような理想を成し遂げる道は別のところにあるのではありません。<br />ために生きるところだけに、真の愛が起こるのであり、真の幸福、真の理想、真の平和が実現するのです。<br />したがって、理想の期限、平和の期限、幸福と愛の期限は、相対のために生きるところにあるのです。<br />「私」は私のために存在するという立場では、互いに一つになれないのです。<br />互いに一つにならなければ、平和も、幸福も、理想も、愛も成就することができません。<br />家庭でも、家族全員が互いにために生きる姿勢で生きるとき、その家庭には平和と幸福が訪れるのです。(平和経245ページ)</div><div style="text-align: left;"><br />歴史始まって以来、神様のみ旨に従った数多くの宗教は、自分自らを否定する修行をしました。<br />なぜ「犠牲になり、奉仕しなさい!」といったのか、今まで知らなかったのです。<br />なぜ犠牲になり、奉仕をしなければならないのかといえば、本然の世界がために生きる本郷だからです。ですから、その世界に行くためには、そこに行ける訓練と準備をしなければなりません。したがって、高等宗教であるほど犠牲と奉仕を強く求めたのは、歴史時代に神様が歴史過程を通じて摂理してきたものであることを、ここで知ることができます。(平和経79ページ)</div><div style="text-align: left;"><br />私たちがイエス様のみ言葉を分析すれば、それは簡単です。<br />「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためである」(マタイ20/28)と語られたのは、天倫の大道を明らかにするためだったことを知らなければなりません。<br />ために生きてもらうためではなく、ために生きるために来たということです。<br />それが本来、神様が創造された存在物の理想的起源なので、この起源を解き明かし、この起源に一致する生涯を歩んで行かれた方が、正にイエス様であることを、私たちは知らなければなりません。<br />新旧約の聖書六十六巻が、いくら内容が膨大だとしても、この一言に帰結するのです。<br />「ために存在せよ」という言葉に尽きるというのです。<br />「だれでも自分を高くするものは低くされ、自分を低くするものは高くされるであろう」(マタイ23/12)という逆説的な論法が、天地創造の原則的起源を通して見るとき、真理に間違いないという事実を、私たちはこれまで知らなかったのです。(平和経78ページ)</div><div style="text-align: left;"><br />真の愛の生活とはどのようなものでしょうか。<br />それを一言で言うならば、「ために生きる人生」です。<br />人が自分のために生きてくれることを願う前に、先に人のために生きる人生です。<br />ために生きてあげたことを忘れてしまう人生です。<br />ために生きてあげたからといって、何かを期待する人生ではありません。<br />そして、ために生きてあげても、もっとために生きてあげることができずにもどかしく思う人生です。<br />ために生きるにおいても、謙遜に頭を下げてために生きる人生です。<br />(真の父母経268ページ)</div><div style="text-align: left;"><br />人は、自分よりも低く、劣悪な立場にいる人を考えながら生きることができなければなりません。それだけでなく、自分よりも大変な境遇に置かれた人がいれば、その人を哀れに思い、自分の境遇に対して感謝しなければなりません。<br />感謝するだけでなく、その人々を助けてあげなければなりません。<br />今日、忠臣や聖人と呼ばれる人々を見れば、裕福な家の息子として、よく食べ、よく暮らしながら聖人や中心になった人は多くありません。彼らは、国や社会、家庭が混乱の渦中に追い立てられ、あすを見つめることができない暗澹たる混沌時代に置かれていても、その国に生まれたことを誇りとし、そのような父母を持ったことを誇りとしました。<br />そうして、誰よりも国と父母を愛しながら、自分よりもさらにかわいそうな人を救ってあげようとしたのです。(真の父母経1110ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"><div>神様御自身の体と心が一つになっているのは、互いにために生きる愛を持っているからです。</div><div>体は心のために生き、心は体のために自分以上のものを投入しようとするので、永存できるのです。</div><div>投入し、さらに投入できるので、理論的な永生の論理が出てくるのです。</div><div>(真の父母経1246ページ) ・・・・(iyo )これはおもしろい話ですね!</div><div><br /></div></div><div style="text-align: left;"><br /></div>iyo_mizukihttp://www.blogger.com/profile/11025857562542866763noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6473942313637128241.post-89397801037353874782023-01-11T17:46:00.000-08:002023-01-11T17:46:43.748-08:00宗教と神様と人間<div style="text-align: left;"> 絶対的な神様がいるかいないかということは、この上なく重大な問題です。<br />これは今世紀だけでなく、歴史を前にして、いかなる識者層や、いかなる聖人たちを通してでも解決すべき人類の課業です。<br />時代的な課業であり、歴史的な課業だというのです。<br />そのため、思想的な面で神様を探し求めていく哲学的な世界の観点がありますが、それとは異なり、神様に出会って、神様から出発する神学的な世界観もあります。<br />神様に出会って、神様とともに生活をするところから始め、世界の人類がどのようにして幸福に生きるかという問題を探求してきたのが宗教です。(真の父母経1242ページ)</div><div style="text-align: left;"><br />宗教は、真理だけで形成されたものではありません。<br />宗旨というものは、真理だけではないのです。<br />主義と思想は、真理を中心として進んでいきますが、宗教は、真理以外に心情が内包されるのです。これが違います。<br />主義と思想には心情がありません。<br />しかし、宗教は、子女と父母が言葉なくして愛し合うのと同じように、その何かが絡み合っています。<br />論理的な条件を越えて動く、ある内容を備えているのです。<br />しかし、主義はそうではありません。主義は組織的な結合です。<br />心情的な結合ではなく、組織的な結合なのです。<br />私たちは、目標に向かって走る競争者として、その歴史的なコースに関する知識を備えなければならず、時代的な実情をよく把握しなければなりません。<br />その次に、未来的な内容、その計画をある程度までは知っていてこそ、目標に向かって走って行けるのです。<br />このように、天に向かって自分の生命を懸けて進んでいくことにおいて、天の歴史的な心情、時代的な心情、未来的な心情まで備えた人がいて、神様が今までこのコースを立て、築いてくるためにどれほど苦労されたかを感じる人がいるとすれば、その人はいかなる困難にぶつかっても、難なく突破して進んでいくだろうと見るのです。(真の父母経1243ページ)</div><div style="text-align: left;"><br />私たちがたたえる四大聖人たちは、教祖、または預言者です。<br />そうだとすれば、聖人たちを誰がそのようにさせたのでしょうか。<br />もし人間がさせたとすれば、人を中心とするはずですが、天意を中心としているのを見れば、神様が聖人たちを立てたと見なすことができます。<br />そのようにしてつくられたのが、宗教文化圏世界です。(真の父母経1241ページ)</div><div style="text-align: left;"><br />理念圏内に入ってくる神は必要ない<br />人間の構想や論理でもって認めることのできる神様ではない。<br />神様は有限なる人間の論理を超越しておられる無限なる存在である。<br />(み旨の道 1997年12月10日発行 第32刷 260ページ)</div><div style="text-align: left;"><br />真の宗教は、架空の理想や架空の人類愛を説明するよりも、本然の問題に入っていき、人間が絶対に否定できないよう、神様に対する認識を何よりも強く植えつけられる宗教でなければなりません。<br />それ以上に真の宗教というものはありません。<br />その価値は、今日この世界で最も貴いと言われるものを一千個、一万個渡しても、取り替えられないのです。(真の父母経1241ページ)</div><div style="text-align: left;"><br />宗教の教えは、体と心を一つにすることに主眼を置いています。<br />いくら修道をし、研究をしても、体と心を一つにしなければ、すべて壊れていくのです。<br />十年どころか、千年努力したとしても、水泡に帰すのです。<br />このような人間の体と心を、どのように統一するのでしょうか。それを教えてくれた聖人がいませんでした。<br />「私」の体と心を一つにできるのは、真の愛です。<br />神様の真の愛と、なぜ接することができなかったのかが深刻な問題です。<br />人間は、神様の創造理想を実現したのではなく、理想世界を見つめて進む途中で堕落することにより、故障した存在になりました。<br />そのため、人間は自分がどこに向かい、どのような主人に従って、どのような世界に行くべきかが分からず、右往左往しながら生きています。<br />これが現世の人類社会です。・・・・(中略)・・・・<br />皆さんは、正に故障した人たちです。<br />ラジオが故障すれば、「ピーピー」となるばかりで本来の音は出ません。<br />そのように故障した人間なので、心が行こうとするにもかかわらず、行くことができないのです。(真の父母経1245ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"><br /></div>iyo_mizukihttp://www.blogger.com/profile/11025857562542866763noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6473942313637128241.post-72346212805920691932022-11-14T18:22:00.004-08:002023-12-10T22:24:58.972-08:00マインドコントロール?<div style="text-align: left;"> 以下、教会の草創期に韓国で起こったこと</div><div><br /></div><div>「すべての人が『死ね』と言い、『滅びろ』と言ったにもかかわらず、私は滅びませんでした。</div><div>なぜ滅びなかったのでしょうか。人々が罵れば罵るほど、私が孤独であれば孤独であるほど、涙を流して私を慰労する人が次第に増えたからです。</div><div>私が刑務所に入っていれば、我先にと刑務所に面会に行こうとするのです。</div><div>また、統一教会員たちは、午前八時以降に面会ができるのに、夜中の一時から列をつくって座りながら待っているのです。それが西大門刑務所での記録です。</div><div>ですから、人々が『人々を狂わせるにしても、どうやったらあそこまで狂わせることができるのか』と言ったのです。」(真の父母経775ページ)</div><div>(iyo)(1955年7月4日拘束され、西大門刑務所へ。10月4日無罪釈放)</div><div><br /></div><div>「梨花女子大と延世大事件の時、三か月の間に梨花女子大がひっくり返るような出来事が起きました。</div><div>三か月の間に百人以上の学生が統一教会に通ったのですが、学校側が反対して通わせないようにしたため『お風呂に行く』と言っては統一教会に行くようなことまで起きました。</div><div>ですから、学校側が緊急対策を立てて防がざるを得ませんでした。</div><div>それで、「(学校側では)統一教会か、梨花女子大か、二者択一しなさい」と言ったのです。</div><div>どれほど切迫していれば、そのようなことを迫るでしょうか。</div><div>統一教会に通う学生たちはみな「退学する」と言いました。</div><div>・・・・(中略)・・・・</div><div>それで、金活蘭総長が『統一教会について調査しなさい』と言って、そこの社会事業課長を努めながら神学や宗教問題について全権を握り、責任をもっていた金永雲博士を送りました。</div><div>そのようにして金永雲が来たのですが、一週間で180度ひっくり返ってしまいました。</div><div>・・・・(中略)・・・・</div><div>(梨花女子大は)アメリカのメソジスト教会の財団から一年に数十万ドルずつ、それ以外のところからも様々な支援を受けていたのですが、その支援が打ち切られそうなので、これを歓迎することはできないというのです。</div><div>ですから、政府を通して(先生を)叩き潰すために、大統領まで動かしたのです。」(真の父母経769ページ)</div><div><br /></div><div>(iyo)当時、梨花女子大の副総長は朴マリヤといい、副大統領夫人。</div><div>最終的に退学になったのは梨花女子大では14人。</div><div>金永雲博士はその後、統一教会の宣教師としてアメリカ開拓をされました。</div><div><br /></div><div>「統一教会員たちが激しく反対され、迫害されていた頃は、おばさんたちが、買い物かごを下げて『市場に行く』と言って出ていくのですが、気がついて見ると統一教会についているのです。そのようなことが普通に起こりました。</div><div>珍しいことでもありませんでした。ですから、狂ったとか、何か電気装置を仕掛けたと言うのです。」</div><div>(真の父母経772ページ)</div><div><br /></div><div>(iyo)上記は西大門刑務所入監のころのこと。</div><div>先生は刑務所に6回も入っています。</div><div>普通に考えれば大悪人!</div><div>「はじめに」の中にも少し書きましたがアメリカでも刑務所に入っています。</div><div>(1984年7月20日 コネティカット州ダンベリー連邦刑務所)</div><div><br /></div><div>以下はアメリカで!</div><div><br /></div><div>「アメリカの監獄に入っても、心配はしませんでした。監獄がどれほど気楽か分かりません。私は、以前は三時間しか寝なかったのですが、そこでは八時間寝なければご飯をくれないのです。」(真の父母経810ページ)</div><div>(iyo)・・・・まさに常連さんです。</div><div><br /></div><div>「私が監獄にいた時、監獄にいる人の中で私に従ってこようとする人が本当に沢山いました。</div><div>だからといって、私が説教をしたわけでもありません。話はしませんでしたが、毎日過ごす生活を通して彼らに影響を与えたのです。</div><div>ダンベリーにいた人々に、私が『集まりなさい』と言えば、恐らく監獄から出てきた人は、みな来るだろうと思います。」(真の父母経810ページ)</div><div><br /></div><div>「ダンベリー刑務所から出てくる時には、多くの囚人たちが歓送しようとしました。</div><div>そうして、私が何日の何時に出所するかを彼らがあらかじめ把握したあと、『道に出て行って見送りしよう』と言っているのを刑務所の所長が知って、大変なことになったと考えたのです。</div><div>文某が出ていくとき、二百人近い人々がみな出てくれば大騒ぎになりそうなので、『午前八時に出所する』と言っておいて、七時に他の所から送り出したのです。</div><div>私が出発したあとに囚人たちがそれを知り、『全く、なぜそのようなひどいことができるのか』と騒ぎ立て、抗議したというのです。」(真の父母経821ページ)</div><div><br /></div><div>(iyo)刑務所では七人以上集まらないようにとの制限があるとか。</div><div>アメリカでも当初は先生が若者達を洗脳しているという噂があったようです。</div><div>以下、「韓国地域社会開発研究院招請朝餐講演会」という長い名前の集会での冗談のような講話です。</div><div><br /></div><div>「私は1975年12月18日、アメリカの下院議員たちの前で講演したとき、このように言いました。「賢明な議員の皆様に一言質問いたします。アメリカ人たちは韓国から来たこの人、いつも通訳をおいて説教するこのレバレント・ムーン(先生のこと)に洗脳されるほど、愚かな人たちですか」。私のこの言葉に、議員たちは名答を得たということでした。</div><div>アメリカの統一教会内に密かに侵入した一人の新聞記者は、統一教会の棚の隅々をくまなく探し、レバレント・ムーンが洗脳工作に使う薬の瓶を探すのに血眼になったそうです。何か薬を飲ませて洗脳しているものと思ったようです。そのうち、彼は一和の高麗人参茶の瓶を見つけたのです。「ああ、これだ!」と言って持って行ったのですが、いくら飲んでみても、何の精神的な変化も起こらず、気分だけが良かったそうです。</div><div>アメリカの青年たちは、私が持っていった何かの薬を飲んで洗脳されたわけではなく、神様が私にくださったみ言を聞いて、人格革命が起こるのです。韓国の地を通して神様が下さった新しいみ言は、一度聞けば人格革命が起こります。極めて利己主義的なアメリカ人たちが、世界のために犠牲になろうと立ち上がります。」(平和経1174ページ)</div><div><br /></div><div>日本でも・・・・!</div><div>このブログの中に「家庭は幸福の基地」という見出しがあります。</div><div>これは、うちのグループでは最も大切な教えの1つですが、一般には必ずしもそのようには見えなかったようです。</div><div><br /></div><div>例えば、先生の講話から引用すると、こんな具合に家庭の重要性を説いています・・・・</div><div>「個人の価値と尊厳性は、真の家庭の安定した基盤の上で一層高揚され、光輝くようになります。家庭は、男性と女性が互いに尊重し合い、和合しながら暮らすことを学べる最高の場所です。結局、人々は、人生で最も重要な要素である真の愛を、家庭の中で完全に学ぶようになるのです。世の中に対する価値認識は、一次的に両親や兄弟姉妹から影響を受けるようになります。家庭は愛を学ぶ最高の学校です。家庭こそが理想社会と平和世界の礎石なのです。」(平和経878ページ)</div><div><br /></div><div>しかし・・・・これを読んで「よくもずうずうしく言えるものだ!」と思われる方もおられるのではないでしょうか(?)</div><div>かなり昔のことですが、「親泣かせ原理運動」などとも呼ばれ、社会現象のようにもなりました。一旦、教えを聞くと特に若者などが、何もかも捨ててこの道に飛び込んでしまったりしたためです。</div><div>家を継ぐことになっていた長男が突然家を出て行ったりして、親から見れば、自分への信頼やこれまでの価値観を全面的に否定されたようなものです。どれほど落ち込むでしょうか。</div><div><br /></div><div>実は、そのようにしてこの道に来た現在の信徒の中にも、「もう家に帰ることはないだろう」とか、「もう家には帰れない」と思っていた方もいたようです。</div><div><br /></div><div>一般のキリスト教会から来た方もいましたし、実は初代の会長ももとは立正佼成会の幹部で、国会議員への出馬を考えていたほど位置のある方だったのですが、身一つで夜逃げするようにやってきて、なんと廃品回収から再出発しています。</div><div><br /></div><div>ところがある日、先生から「還故郷せよ」という指示が出ました。</div><div>生まれ故郷に戻って、その地域のために尽くし、信頼を得、教えを伝えなさいということです。</div><div>「これは困った!」と思ったメンバーも多かったようです。中には、実家の親の前で、成り行き上捨て台詞を吐くようなかたちで家を出てきた方もいます。「今さら帰れって・・・・そんな!」</div><div><br /></div><div>日本の「親泣かせ原理運動」よりも前に、もっと過激に起こったのが、上記韓国での「梨花女子大学事件」です。</div><div>ネット上で検索してもすぐに見つかりますし、先生の自叙伝にも詳しく書かれています。</div><div>(「平和を愛する世界人として」 文鮮明自叙伝 文鮮明著 翻訳・編集協力:株式会社 光言社)</div><div><br /></div><div>ところで2000年前のイエス様当時のことを考えると、ここでも似たような状況が起きていたのではないかと思います。</div><div>マインドコントロールの元祖はイエス様・・・・?!</div><div>イエス様のもとには何千人もの人が集まってきました。信者を取られた既成のユダヤ教会(当時は律法学者やパリサイ人など)が怒りに燃えるのも当然でしょう。</div><div>当時は人間の生命は現代よりずっと軽く扱われていたので、十字架にまで架けられてしまいました。(新約聖書の4つの福音書参照)・・・・既成のキリスト教会では、イエス様は十字架に架けられるために来られたと教えていますのでこれで良しとなるのかも知れませんが!</div><div>イエス様は捕らえられ、総督ピラトによって罪の有無を調べられましたが、罰を受けるような罪は見出せませんでした。しかし当時のユダヤの民衆があまりにも強く十字架に架けることを要求し、そのまま何もしないと暴動さえ起こりかねないほどだったので、ピラトも折れました・・・・「あんたがたが自分たちの法で裁くのがいいだろう。この人の血には私は感知しませんよ」と言って民衆の前で手を洗ったとのこと。(新約聖書 マタイ27/24等)</div><div>ピラトは民衆が妬みのために十字架刑を要求していることを知っていたのです。(マタイ27/18)</div>iyo_mizukihttp://www.blogger.com/profile/11025857562542866763noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6473942313637128241.post-76625498685015123152022-06-05T18:37:00.001-07:002022-06-05T18:37:23.838-07:00(庭の花)オキナグサ(翁草):開花後<p> 最近は温暖化のせいか、異常気象が多いですが、この4、5月も日ごとの寒暖の変化が大きい年だったと思います。</p><p>おかげで庭のダイコンが殆ど花芽をつけてしまいました・・・・こうなると味の良いものは期待できません。</p><p>オキナグサもイマイチ。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgCsblw_sH8gdrkePmWCxwS9_A-2ve9BtPcPqSQatVaMqRTEIvfEHCTXZaNJE3Uh4tRhBh1hnZ8o07Gs6TeNu_eFGtfPfrEsTpZ8t-KQd6s7rS8anpj7NVCay4TRPRx6u27A6y4OKpiZm3kTLueieGYq_Or1KWFaBt3A3SLyeVGIIQpPni1Nh-u6vb_/s600/niwa220405_0070.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="450" data-original-width="600" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgCsblw_sH8gdrkePmWCxwS9_A-2ve9BtPcPqSQatVaMqRTEIvfEHCTXZaNJE3Uh4tRhBh1hnZ8o07Gs6TeNu_eFGtfPfrEsTpZ8t-KQd6s7rS8anpj7NVCay4TRPRx6u27A6y4OKpiZm3kTLueieGYq_Or1KWFaBt3A3SLyeVGIIQpPni1Nh-u6vb_/w400-h300/niwa220405_0070.jpg" width="400" /></a></div><p></p><p>茎の伸びも単純カーブというよりは、クネっています。</p><p>花びらもスッキリと伸びたものが少なめです。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjCgIpef5Z3YFa8MZqu6U3KeFnx8tCWlW5I1JxGmzEGaH63pi7hGHMj1_5Ldg1PSeZUUlaEku_8_k__1oV3-zt3Sfxy3037eKg8QxzQdrxfXXh_MbXYyo5exa6tXIYUz-6wl8_R9Xhz0TEHLp4MVRt3YnVm45UYDl5fG1NXUmaG64HWDsIa_Ez3MgyV/s600/niwa220405_0350.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="450" data-original-width="600" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjCgIpef5Z3YFa8MZqu6U3KeFnx8tCWlW5I1JxGmzEGaH63pi7hGHMj1_5Ldg1PSeZUUlaEku_8_k__1oV3-zt3Sfxy3037eKg8QxzQdrxfXXh_MbXYyo5exa6tXIYUz-6wl8_R9Xhz0TEHLp4MVRt3YnVm45UYDl5fG1NXUmaG64HWDsIa_Ez3MgyV/w400-h300/niwa220405_0350.jpg" width="400" /></a></div><p></p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgVGpqa-opTjtRGcWUHUIxaUBNkhcmL_0PDeUHnsmRirNnO-WGashNTBJQXCvA1tF0qAzL3BOf7PCFB8l2G2b2LuHNTfskYCBvggY4OQACmr9jApvuFurR1MZEqG0o9p5rgeBQEHlxLrRVYqOXEwRSK_yHisQuq1fkuObhdmA15VVdVTH9T0_x7uaXS/s600/niwa220409_2030.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="450" data-original-width="600" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgVGpqa-opTjtRGcWUHUIxaUBNkhcmL_0PDeUHnsmRirNnO-WGashNTBJQXCvA1tF0qAzL3BOf7PCFB8l2G2b2LuHNTfskYCBvggY4OQACmr9jApvuFurR1MZEqG0o9p5rgeBQEHlxLrRVYqOXEwRSK_yHisQuq1fkuObhdmA15VVdVTH9T0_x7uaXS/w400-h300/niwa220409_2030.jpg" width="400" /></a></div><p></p><p>花の後には、いかにも「翁」のように変化。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjXJ_2cWIULO-XVxdN16IPVf3-GPtNG2cnFNmFV4yoKm6Zba4ApLBssLlcOtTazCxj9nN9Dda6Ika0jE0bv0D7Aai42EBufh0Ec8kR2eL7BcFnGHEkjaf0ZHqBnMlJv5b3eFKFmiTJbR3PwcNtAvt2E8NfvMspkfBy7SZCAPVd6C2JXBR_teQXg7ZKo/s600/niwa220412_0890.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="450" data-original-width="600" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjXJ_2cWIULO-XVxdN16IPVf3-GPtNG2cnFNmFV4yoKm6Zba4ApLBssLlcOtTazCxj9nN9Dda6Ika0jE0bv0D7Aai42EBufh0Ec8kR2eL7BcFnGHEkjaf0ZHqBnMlJv5b3eFKFmiTJbR3PwcNtAvt2E8NfvMspkfBy7SZCAPVd6C2JXBR_teQXg7ZKo/w400-h300/niwa220412_0890.jpg" width="400" /></a></div><p></p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjjUHeH5NUKOVMmoD8HyDDytBDFfzVCQAwqtuZXr6sKtiOEFygOvnDtBL6d9xXKzmgzsOqOmWeZKkhs_pXujLoiL2ZFJQ7exon56_VPas0cgh_NUJuZfXGvvi1cwutEaOTZ3W1eVjrM1MSAsV8my0kVZlt4jNnNdH5jc96Ad4_OcWQmjuJIcVyCz_1k/s600/niwa220411_0540.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="450" data-original-width="600" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjjUHeH5NUKOVMmoD8HyDDytBDFfzVCQAwqtuZXr6sKtiOEFygOvnDtBL6d9xXKzmgzsOqOmWeZKkhs_pXujLoiL2ZFJQ7exon56_VPas0cgh_NUJuZfXGvvi1cwutEaOTZ3W1eVjrM1MSAsV8my0kVZlt4jNnNdH5jc96Ad4_OcWQmjuJIcVyCz_1k/w400-h300/niwa220411_0540.jpg" width="400" /></a></div><p></p><p>今年は、この白髪の部分がなんとなく一回り小さいのが多いような!</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEirNCYLK9ywCjSVW2EquFMcSzL7siAqMFU3Fyaj6WuWBCRiggX-773dg0QNcMi8qhHK5Pk-nfcwZC8S9Simn6Q0duO9DlMwW-vx6E91ky2D3fZh0_V6inV02InBHKuoVnhcbwo9x_xOSwEEuuuRGWsm-VMg2HrvVhjE8yxGk0_z2wVGiXG4Cz-R0Qfn/s600/niwa220417_0030.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="450" data-original-width="600" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEirNCYLK9ywCjSVW2EquFMcSzL7siAqMFU3Fyaj6WuWBCRiggX-773dg0QNcMi8qhHK5Pk-nfcwZC8S9Simn6Q0duO9DlMwW-vx6E91ky2D3fZh0_V6inV02InBHKuoVnhcbwo9x_xOSwEEuuuRGWsm-VMg2HrvVhjE8yxGk0_z2wVGiXG4Cz-R0Qfn/w400-h300/niwa220417_0030.jpg" width="400" /></a></div><p></p><p>さらにこれがワタ毛になるのですが、今年は最初から小さいワタ毛が多く見られます。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj3LrJOLGTVL8MjtIpzpEfaWixDkZfuG4H_aDsPywk76L2O029Zrea4Jn5lOTDHgIe0Ph1WqppDjikZyPaYjAQSM8J5DOEL1vR5qrM_mNKhSeKK6zri0Uc5_PG8hzqGVo6t_D3RrHjH7FUGlYb2RBCyeF0FyZPBgoUt38EfS1nmEhltZK98K0HNrKW6/s600/niwa220506_0010.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="450" data-original-width="600" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj3LrJOLGTVL8MjtIpzpEfaWixDkZfuG4H_aDsPywk76L2O029Zrea4Jn5lOTDHgIe0Ph1WqppDjikZyPaYjAQSM8J5DOEL1vR5qrM_mNKhSeKK6zri0Uc5_PG8hzqGVo6t_D3RrHjH7FUGlYb2RBCyeF0FyZPBgoUt38EfS1nmEhltZK98K0HNrKW6/w400-h300/niwa220506_0010.jpg" width="400" /></a></div><p></p><p>こちらのほうが正常</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgm8Q9lDnHgNVbegfoMDCG371Smox8azS3cixHlk2WB9vY4lSxx_4SGbvoGgvAdHaCAPfE5f9MfZ89CzheMhOzZ1IQIhwnTQU9-P2079Ht_R8XiyTi9iY4bI7o3bnf8-buHqkpWRYFCjZN0t-L3PJ0VmFBAovgDUiX1GfwT4fXN2LfVgwSHOVap7R8Y/s600/niwa220503_0170.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="450" data-original-width="600" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgm8Q9lDnHgNVbegfoMDCG371Smox8azS3cixHlk2WB9vY4lSxx_4SGbvoGgvAdHaCAPfE5f9MfZ89CzheMhOzZ1IQIhwnTQU9-P2079Ht_R8XiyTi9iY4bI7o3bnf8-buHqkpWRYFCjZN0t-L3PJ0VmFBAovgDUiX1GfwT4fXN2LfVgwSHOVap7R8Y/w400-h300/niwa220503_0170.jpg" width="400" /></a></div><p></p><p>これがやがてワタ毛に変化。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhjPsp5Psk7jc1pVG7lYYAdh3Qp2GFIptMKPe4kPF7gCJ4zB4AyzDJ40gGZyh5ZUkXkI72DS9C55J3DVcNhsDwSakv1SlB8kX_DihEMNarwAQapW1E3QbFDEonNC96AgZhrg9hf8WUa6kyni4fmDU2jJxmywLCk-1gOHB8sJ374G1c47nWwo6kEPJuT/s600/niwa220519_0040.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="450" data-original-width="600" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhjPsp5Psk7jc1pVG7lYYAdh3Qp2GFIptMKPe4kPF7gCJ4zB4AyzDJ40gGZyh5ZUkXkI72DS9C55J3DVcNhsDwSakv1SlB8kX_DihEMNarwAQapW1E3QbFDEonNC96AgZhrg9hf8WUa6kyni4fmDU2jJxmywLCk-1gOHB8sJ374G1c47nWwo6kEPJuT/w400-h300/niwa220519_0040.jpg" width="400" /></a></div><p></p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg9r_2p2Z4MioXlkDEYdNqX4oTub85vRWebK7j-hEGiKnk2ri3B40a-y1RBNSrP_cAbcwi1N9H4_D-TOmzfDRIdHjSPcUJPfGXmu3daEyeuNGKOllyElOSpTHKwPLmMrr4uONW1wzmFWW5DiKJMzsyV5t4LMkFnrRRup238DnExzYJ7s9JMaipZ1ITb/s600/niwa220506_0050.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="450" data-original-width="600" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg9r_2p2Z4MioXlkDEYdNqX4oTub85vRWebK7j-hEGiKnk2ri3B40a-y1RBNSrP_cAbcwi1N9H4_D-TOmzfDRIdHjSPcUJPfGXmu3daEyeuNGKOllyElOSpTHKwPLmMrr4uONW1wzmFWW5DiKJMzsyV5t4LMkFnrRRup238DnExzYJ7s9JMaipZ1ITb/w400-h300/niwa220506_0050.jpg" width="400" /></a></div><p></p><p>さらにフワフワになって、あとは風に乗って飛んでゆくのみ。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhFWVdlASCRr_8mZj35sDcqAjuy3aI9gZnWAGd7Ev9DUqFgEYddChMP6dxlvCnqJTJWdZ1kZgmU1FVGSnz7sTJKK78pP4aB97qlT4wtCm0vNsvV86X_Fp679q5R1voOCY3y62HAdhiZIq9BxA2gZcFIaLE5nbK6d57aXsxkvMHZAxSQRucvpol-mFGx/s600/niwa220518_1030.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="450" data-original-width="600" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhFWVdlASCRr_8mZj35sDcqAjuy3aI9gZnWAGd7Ev9DUqFgEYddChMP6dxlvCnqJTJWdZ1kZgmU1FVGSnz7sTJKK78pP4aB97qlT4wtCm0vNsvV86X_Fp679q5R1voOCY3y62HAdhiZIq9BxA2gZcFIaLE5nbK6d57aXsxkvMHZAxSQRucvpol-mFGx/w400-h300/niwa220518_1030.jpg" width="400" /></a></div><p></p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjJajAlG1pbb4-s9XTIba_I8JovQsp5DYoquHObuuwTwoe7w7qvlKXf5YktPafDVncsyqGrIoYj6vFVXd3U_aQFUtsc9PaA7b0vAm5R_pLsdzqd2iNFDHJBatL-WzFFoo6FuvpE8My11Uc0v603-6jjKHzv3iKDnBDYqGl6RP9IcMmVdgxUcyAId28Q/s600/niwa220519_0010.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="450" data-original-width="600" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjJajAlG1pbb4-s9XTIba_I8JovQsp5DYoquHObuuwTwoe7w7qvlKXf5YktPafDVncsyqGrIoYj6vFVXd3U_aQFUtsc9PaA7b0vAm5R_pLsdzqd2iNFDHJBatL-WzFFoo6FuvpE8My11Uc0v603-6jjKHzv3iKDnBDYqGl6RP9IcMmVdgxUcyAId28Q/w400-h300/niwa220519_0010.jpg" width="400" /></a></div><p></p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgJT0BWJ12KD1FxdGtbU2r5mbDx6k6Sg5UdKIFZzT-tzOpA43TG0gvEV3Zp3Kw54bLrdV_nU_tuTswWgh-3Vd0zfiEPxMie6uVqTVGICBx8R_04f6xJSjHO_XbQnhc8nKb-rHem5z9-aZkqAr7FcG0KBMPiK-zvlEuFxf625KXTDuMJIE7TSGinExSr/s600/niwa220519_0020.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="450" data-original-width="600" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgJT0BWJ12KD1FxdGtbU2r5mbDx6k6Sg5UdKIFZzT-tzOpA43TG0gvEV3Zp3Kw54bLrdV_nU_tuTswWgh-3Vd0zfiEPxMie6uVqTVGICBx8R_04f6xJSjHO_XbQnhc8nKb-rHem5z9-aZkqAr7FcG0KBMPiK-zvlEuFxf625KXTDuMJIE7TSGinExSr/w400-h300/niwa220519_0020.jpg" width="400" /></a></div><p></p><p>葉っぱのほうは、しばらく青々としています。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhcDlSGAb4K4td25cCLTJStq_Y911QXyqPeX9ibvJ1PAjtzczamyZszMqv2RAf-TxNb9l0evBOocnuROHs8JyQTcHwKyvnXQDMAM6niADv_EvH5f5-BC22O_OjdYNzLZsb8FPptzJr2o0Hhz_J0vhw4fg-DvMnJVbN0kxgkTppJNgdoGF90bryECNqz/s600/niwa220519_0050.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="450" data-original-width="600" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhcDlSGAb4K4td25cCLTJStq_Y911QXyqPeX9ibvJ1PAjtzczamyZszMqv2RAf-TxNb9l0evBOocnuROHs8JyQTcHwKyvnXQDMAM6niADv_EvH5f5-BC22O_OjdYNzLZsb8FPptzJr2o0Hhz_J0vhw4fg-DvMnJVbN0kxgkTppJNgdoGF90bryECNqz/w400-h300/niwa220519_0050.jpg" width="400" /></a></div><br /><p></p><p><br /></p><p><br /></p>iyo_mizukihttp://www.blogger.com/profile/11025857562542866763noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6473942313637128241.post-38104694738540760382022-06-02T19:03:00.003-07:002023-05-29T16:41:00.045-07:00一つになれば感じない(堕落した状態とは)<p style="text-align: left;"> 以下、先生の講話より。</p><div style="text-align: left;">何が重要なのでしょうか。<br />見えるものが重要ですか、見えないものが重要ですか。<br />見えないものがもっと貴いことを知らなければなりません。<br />お金、地位、名誉は見ること、または触ることができますが、愛、生命、血統、良心は見ることも触ることもできないのです。<br />みな持っているのに、なぜ見ることができないのでしょうか。</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">一つになっているからです。<br />心と体が絶対的にバランスを維持していれば感じないのです。</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">皆様。目がまばたきするのを感じながら暮らしていますか。三時間だけ数え続けてみて下さい。<br />また、呼吸を数えながら暮らしていますか。数えてみれば、途中で忘れてしまいます。<br />右手を挙げて、左の胸の上に当てて見てください。どういう音がしますか。<br />鼓動の音、心臓の鼓動の音を感じます。その鼓動の音を一日に何度くらい聞いていますか。</div><div style="text-align: left;"><br /></div><p style="text-align: left;">聴診器で聞いてみれば、爆弾が爆発するような音が聞こえるのに、私たちは一週間、一か月ではなく、忙しい時は何か月間もそれを感じないで暮らしています。</p><div style="text-align: left;">小さいハエが一匹だけ頭の上にとまっても、すぐに感じる私たちが、何百倍も大きな鼓動の音がしても、なぜ感じられないのかというのです。</div><div style="text-align: left;"><br />一つになっているからです。</div><div style="text-align: left;"><br />壇上からこのような話をすれば、失礼だと思われるかもしれませんが、実感の出る話なので、幾つか例を挙げてみましょう。<br />皆様。毎日、朝起きてトイレに行くでしょう。<br />大便をするとき、マスクを使って大便をしますか。<br />もし、ほかの人がそばで大便をして、そのような臭いを漂わせれば、すぐに鼻をふさいで何万里でも逃げ出すはずなのに、なぜ自分の大便の臭いはそのまま嗅いで座っていて平気なのでしょうか。</div><div style="text-align: left;">自分の体と一つになっているので、自分の大便を汚く感じないのです。<br />・・・・(中略)・・・・</div><div style="text-align: left;"><br />愛、生命、血統、良心があっても一つになっていて、完全にバランスを取れば、感じられないのです。<br />私たち人間がそうであるように、神様も愛、生命、血統、良心、みな持っていますが、独りではそれを感じられません。<br />完全にバランスを取っているので、感じることができないのです。</div><div style="text-align: left;"><br />ですから、神様も相対が必要なのです。<br />相対の必要性をここから見つけることができるのです。<br />(平和経223ページ)</div><div style="text-align: left;"><br />(iyo)ここでは相対の必要性ということでの講話ですが、逆に一つになれない例の代表が堕落ということでしょう。</div><div style="text-align: left;"><br />以下、原理講論の最初の部分・・・・心と体の矛盾について</div><div style="text-align: left;"><br />「幸福はいかにしたら得られるのであろうか。<br />人間はだれでも、自己の欲望が満たされるとき、幸福を感ずるのである。<br />しかし欲望などといえば、ややもすると我々はその本意を取り違えがちである。<br />というのは、その欲望が概して善よりは悪の方に傾きやすい生活環境の中に、我々は生きているからである。</div><div style="text-align: left;"><br />しかしながら、我々をして不義を実らせるような欲望は、決して人間の本心からわき出づるものではない。<br />人間の本心は、このような欲望が自分自身を不幸に陥れるものであるということをよく知っているので、悪に向かおうとする欲望を退け、善を指向する欲望に従って、本心の喜ぶ幸福を得ようと必死の努力を傾けているのである。<br />・・・・(中略)・・・・<br />とりわけ、このような本心の指向する欲望に従って、善を行おうと身もだえする努力の生活こそ、ほかならぬ修道者たちの生活である。</div><div style="text-align: left;"><br />しかしながら、有史以来、ひたすらにその本心のみに従って生きることのできた人間は一人もいなかった。<br />それゆえ、聖書には「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない」(ロマ三・10、11)と記されているのである。<br />また人間のこのような悲惨な姿に直面したパウロは<br />「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」(ロマ七・22~24)と慨嘆したのであった。</div><div style="text-align: left;"><br />ここにおいて、我々は、善の欲望を成就しようとする本心の指向性と、これに反する悪の欲望を達成させようとする邪心の指向性とが、同一の個体の中でそれぞれ相反する目的を指向して、互いに熾烈な闘争を展開するという、人間の矛盾性を発見するのである。<br />存在するものが、いかなるものであっても、それ自体の内部に矛盾性をもつようになれば、破壊されざるを得ない。<br />したがって、このような矛盾性をもつようになった人間は、正に破滅状態に陥っているということができる。<br />・・・・(中略)・・・・<br />人間のこのような破滅状態のことを、キリスト教では、堕落と呼ぶのである。」</div><div style="text-align: left;"><br />(iyo)「心と体が絶対的にバランスを維持していれば感じない」はずのものを感じている・・・・良心の呵責とか。<br />それが堕落人間ということになるでしょうか。<br />逆に、天国というものがあるとしたら、どんなものなのか、かすかに分かるような気もしてきますね。</div><div style="text-align: left;"><br />以下、先生の講話より</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"><div>絶対的な神様が造られた存在物は、一つの目的をもたなければならないことは間違いありません。それでは、神様の愛を中心として、絶対的な相対の立場に立った人間がこの地にいると思いますか。いません。</div><div>絶対的な神様が造ったので、一つの目的を指向する人間になるべきですが、人間を見れば二律背反的な、反対の目的となるもう一つの道に立っているのが分かります。</div><div>ある人はこれを、人における主体と対象の関係と見ますが、そうではありません。良心が内的なプラスだとするならば、邪心はまたほかの一つのプラスなのです。ですから反発が起こるのです。</div><div>そのような立場に立っているのが、この地上に生きている私たち人間です。</div><div>神様が私たちに高貴な偉業としてくださった愛の理念、絶対価値の理念を喪失してしまい、反対の二つの現象世界で呻吟して生きる悲惨な人間だということを知らなければなりません。言い換えれば、故障した人々になっているというのです。</div><div>ところが、絶対的な神様は人間に相対するしかないので、このような人間をそのまま放置することができず、歴史過程を通して再生させる運動をしてきたというのです。すなわち、修理工場を造ったのですが、それが宗教なのです。</div><div>(平和経362ページ)</div></div><div style="text-align: left;"><br />私たちの心と体を見たとき、体は悪神サタンの基地になっており、良心は神様の基地になっています。<br />一般的に、体が心を引っ張りまわすのです。<br />宗教は、心を引っ張りまわす体を打って、弱めさせようとするものです。<br />宗教の教えは、体が最も嫌うものを提示します。<br />「断食しなさい。奉仕しなさい。犠牲になりなさい。祭物になりなさい」と言って、義のために苦行の道を歩み、生命を捧げることまで要求します。<br />(平和経255ページ)</div><div style="text-align: left;"><br />宗教においては、休まずに祈祷し精誠を捧げることを教えています。<br />悪魔は、体を横的な舞台として、二十四時間休まずに活動しています。<br />神様は、縦的な基準に立っていらっしゃるので、縦的な心を通してのみ役事(働き)されます。<br />心が、横的な体の強い作用に引っ張られていかないようにするためには、心自体が垂直の位置で精誠を捧げることによって、神様から三倍も四倍も力を受ける必要があります。<br />このような精誠の生活を三年から五年行えば、心が体の環境的、習慣的影響力から自由になることができるのです。<br />(平和経255ページ)</div>iyo_mizukihttp://www.blogger.com/profile/11025857562542866763noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6473942313637128241.post-34680486213386112722022-05-26T17:03:00.003-07:002022-05-31T15:43:29.040-07:00自由<div style="text-align: left;"> 原理講論に「自由と堕落」という箇所があり、自由について書かれています。(第二章第五節)<br />自由とは、自由意思とこれに従う自由行動とを一括して表現した言葉であり、<br />自由に関する原理的な性格を論ずるとき、以下の三点をわきまえなければならないとのこと。</div><p>1.原理を離れた自由はない。</p><p>2.責任のない自由はあり得ない。</p><p>3.実績のない自由はない。</p><p><br /></p><div style="text-align: left;">現在の世界での自由という響きに比較すると、ここでいう自由はとても堅苦しく感じられます。<br />最初にこの部分を読んだ時、「これは自由じゃなくて不自由じゃないの!」と思いました。</div><p>私たちが漠然と自由と言う時、何の制限もない自由のことを考えがちですが、そういう自由は実際にあるのでしょうか。ある人の自由と、その隣にいる人の自由がぶつかる場合、どちらかの自由は通じません。</p><p>私は自由だと言って、好き勝手なことをすれば、警察のお世話になって、不自由なところに閉じ込められたり・・・・。</p><p><br /></p><p>でも、少し考えているうちになるほどと思うようになりました。</p><p><br /></p><div style="text-align: left;">例えば、ある会社に新入社員として入社すると、最初は先輩方の指導を受けます。<br />こちらとしては何も知らない立場なので、言われた通りに実行するしかありませんし、その作業途中にも頻繁にチェックが入ったりします。</div><p>見習い期間を過ぎ、実務について問題無く仕事をこなせるようになれば、先輩の言葉数も監視の目も少なくなります。</p><p>さらに経験を積み、一人前と見なされるようになれば、最初の指示だけで、まとまったその日の仕事を任されます。</p><div style="text-align: left;">ある程度、会社や職場の事情を理解し、前後の環境条件まで考慮して作業できるようになれば、その場の責任者となるでしょう。<br />日々の行動予定も自分で決められます。</div><p><br /></p><div style="text-align: left;">自由が与えられると同時に、責任が増し、ある程度の実績も必要になります。<br />上記の2(責任)と、3(実績)についての表現は、そのままの言葉で通じます。<br />1については、社則とか会社の持つ伝統・経営方針など・・・・ということになるでしょう。<br />ただし、あくまでも現状の世界での会社、社員としての表現です。</div><p>聖書にも、すべてのものを治めよとありますので、人間は、被造世界の経営者であり、責任者の役割を担っています。</p><div style="text-align: left;">その人間が堕落して万物以下の立場に落ちたと言われます。<br />堕落によって、神様のやり方を理解できなくなった人間には、もはや何も任せられません。<br />独自に判断して行動できる能力まで持っているので、なおさら始末に悪いとも言えます。</div><p><br /></p><p>先生の講話によれば、神様が世界を創造された時に言われた、すべてのものを治めなさい(創世記1章)との祝福は、</p><p>「人間が神様から許諾された環境の中で、不便や不足の無い地上天国の環境を所有しなさいということ」(平和経469ページ)とあります。</p><p>また、別の箇所では、</p><div style="text-align: left;">「現代人たちは「自由」を語っています。どんなに現代の教育制度がよくできているといっても、皆様には堕落圏内における自由の観念しかありません。<br />個人主義の観点では、そのようなことは分からないのです。」(同132ページ)とのこと。</div><p>自由は万能ではなく、秩序や優先順位が発生しそうですね。</p><p><br /></p>iyo_mizukihttp://www.blogger.com/profile/11025857562542866763noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6473942313637128241.post-24186431876162777432022-04-01T01:21:00.001-07:002022-04-02T02:12:04.681-07:00(庭の花)オキナグサ(翁草)2022<p> 2022年2月上旬頃、地上に出現</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgo6Vf6j_vt-25CQ6fBwniSDCjJgqyJLFJwvEIDWDoEBXN5enAZVpc60u2u7DFbhyC5A14zcJm0IDoHVTVaCmTF-dvT1mO7LRan32OvSyI1IB-ANm0HlFz3Gx6nxOggCEzaEEG972IuIn3_j-6TbdhOyEhLFRrKuzEFKBqwwoAJOfoMgMCeYe7SkUcm/s600/niwa220206_0010.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="450" data-original-width="600" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgo6Vf6j_vt-25CQ6fBwniSDCjJgqyJLFJwvEIDWDoEBXN5enAZVpc60u2u7DFbhyC5A14zcJm0IDoHVTVaCmTF-dvT1mO7LRan32OvSyI1IB-ANm0HlFz3Gx6nxOggCEzaEEG972IuIn3_j-6TbdhOyEhLFRrKuzEFKBqwwoAJOfoMgMCeYe7SkUcm/w400-h300/niwa220206_0010.jpg" width="400" /></a></div><br /><p></p><p>今年の冬は例年より寒いとか・・・・顔を出すのも少し遅め</p><p>ちなみに、まわりを取り囲んでいる棒っ切れのようなものは、去年伸びた茎です。</p><p>今年、我が家の庭では、以前からあった一番大きな株が枯れて、新しく何箇所か芽を出しました。</p><p>オキナグサは、5年位で株が枯れてしまうらしいので、初めはやや心配でしたが、順調に拡がってくれています。</p><p>性格があまのじゃくなのか、こちらの計画で種をとって撒いても、そこから出たためしがありません。</p><p>・・・・もっとも、そんなに熱心に増やし方を研究したわけでもないのですが。</p><p>同じ株の10日後くらい・・・・あまり変わり映えしてません。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiNPCfSqdyNGlQJIabq8ve1i1P9k5SqD1mSocgVx2zBKyI0QIzACYJiEG5dmwFAsLbDmQ0s4AXj5y-4aM2efpj5h49dG2VDZG_Ee5gp3JpEwELOortVIYgiCC9vO4sdr3WfQyqT4NYEtLvgQzGyxoMw8Me2cwg_5NiqhLtBEUynSb0Kzz2dt17PUtce/s600/niwa220217_0020.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="450" data-original-width="600" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiNPCfSqdyNGlQJIabq8ve1i1P9k5SqD1mSocgVx2zBKyI0QIzACYJiEG5dmwFAsLbDmQ0s4AXj5y-4aM2efpj5h49dG2VDZG_Ee5gp3JpEwELOortVIYgiCC9vO4sdr3WfQyqT4NYEtLvgQzGyxoMw8Me2cwg_5NiqhLtBEUynSb0Kzz2dt17PUtce/w400-h300/niwa220217_0020.jpg" width="400" /></a></div><br /><p></p><p>こちらは別の株(上より一週間後)</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj53EvHqujcW4KNgI9Q58vvjvo2sgNACDlUGnouFb2O4hgfNk31HhxPTv_c63kiJlxjHbp_vEpkd1uwJlvzD2oBWLfNpB5ajSB2gFak9dKh5eSOJx6XFah3bsZXivTxvvWMtkRgDK_19CHGMlmbpoWXHYVI9YuKKbKgck8iRkgXgyBY0-ulXlJSi-L5/s650/niwa220223_0010.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="488" data-original-width="650" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj53EvHqujcW4KNgI9Q58vvjvo2sgNACDlUGnouFb2O4hgfNk31HhxPTv_c63kiJlxjHbp_vEpkd1uwJlvzD2oBWLfNpB5ajSB2gFak9dKh5eSOJx6XFah3bsZXivTxvvWMtkRgDK_19CHGMlmbpoWXHYVI9YuKKbKgck8iRkgXgyBY0-ulXlJSi-L5/w400-h300/niwa220223_0010.jpg" width="400" /></a></div><br /><p></p><p>まわりの棒っ切れは成長の邪魔になりそうなので、時々切り取るようにしています。</p><p>当たり前ですが、日当たりの良しあしで、成長がかなり違います。</p><p>こちらは2/28の別の株、もう1本1本が独立し始めています。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjlI4NRycEUistjlpim0fzmH4tDBlmd5GdAdJN9PquW1ENQeSDFVRmCFuL2cgsffWmy4pLRiiZNncp0u5sAAgzBKKD0QwGDhzFwG0XKZ_GtPOLcRqBY1K1r0uGGKHc99FPlJeWrmIYvcs4BeQAm9CJyJbTM98yYyN9gjGA4lnLsdSiaVCysVsfimKYc/s600/niwa220228_0010.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="450" data-original-width="600" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjlI4NRycEUistjlpim0fzmH4tDBlmd5GdAdJN9PquW1ENQeSDFVRmCFuL2cgsffWmy4pLRiiZNncp0u5sAAgzBKKD0QwGDhzFwG0XKZ_GtPOLcRqBY1K1r0uGGKHc99FPlJeWrmIYvcs4BeQAm9CJyJbTM98yYyN9gjGA4lnLsdSiaVCysVsfimKYc/w400-h300/niwa220228_0010.jpg" width="400" /></a></div><br /><p></p><p>いまのところはこれが一番の大株か?</p><p>その1週間後</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhwm1JG7ODYtT7D04AZzcr-3i9FnMrdztlwxYR9NY3ibxusrOHVF_oBIyOeQO2eeJzOjLbNozvGekQOYVI2mdNyuFOzwRMi2_5HIOL8WpNUyu__5EU_Un5cb13bnAkZfCkYu96qVD7glWE9e6pgcCFrFFEh_iesqYADI_rVuK4MxpdtY7dJEBEU2kQZ/s600/niwa220303_0270.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="450" data-original-width="600" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhwm1JG7ODYtT7D04AZzcr-3i9FnMrdztlwxYR9NY3ibxusrOHVF_oBIyOeQO2eeJzOjLbNozvGekQOYVI2mdNyuFOzwRMi2_5HIOL8WpNUyu__5EU_Un5cb13bnAkZfCkYu96qVD7glWE9e6pgcCFrFFEh_iesqYADI_rVuK4MxpdtY7dJEBEU2kQZ/w400-h300/niwa220303_0270.jpg" width="400" /></a></div><br /><p></p><p>その3日後くらい・・・・緑に染まってきました。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi7NUbCuS8zPtHjOORxVGK99HxncMW5Efq2P1M-PIVsX_Kj8EatZ4A01c7o2KXSpQcvesO2wuUofvswUP-3cVZOH3QWQzN5sDEq2lU4soB1qwvYcqkVNMQbele4zY4wmAYnIr96CaEOYEGkyTjlW3VdWKNodgXUnvD_sh9axy8Yfy-K8AwE3rMwgUy4/s600/niwa220306_0200.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="450" data-original-width="600" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi7NUbCuS8zPtHjOORxVGK99HxncMW5Efq2P1M-PIVsX_Kj8EatZ4A01c7o2KXSpQcvesO2wuUofvswUP-3cVZOH3QWQzN5sDEq2lU4soB1qwvYcqkVNMQbele4zY4wmAYnIr96CaEOYEGkyTjlW3VdWKNodgXUnvD_sh9axy8Yfy-K8AwE3rMwgUy4/w400-h300/niwa220306_0200.jpg" width="400" /></a></div><br /><p></p><p>さらに1週間</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj9cUt8Tx-Tf6Gn_VTknwZm2-pAf_AvZXP5B2arRbU4DS-X6CioonfTKJeVYnM6ng0vr25ota-LygymJtyZH9XNrkG3UF4qAdUpQlxf4VjGSQJb_990EaLRsFpRlNyHwJm2qVUUy03IjZdio_yvZd7KFr3bpc0jNaVIvOrMfwhyR_HI1r17YTewI_Uy/s600/niwa220312_0100.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="450" data-original-width="600" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj9cUt8Tx-Tf6Gn_VTknwZm2-pAf_AvZXP5B2arRbU4DS-X6CioonfTKJeVYnM6ng0vr25ota-LygymJtyZH9XNrkG3UF4qAdUpQlxf4VjGSQJb_990EaLRsFpRlNyHwJm2qVUUy03IjZdio_yvZd7KFr3bpc0jNaVIvOrMfwhyR_HI1r17YTewI_Uy/w400-h300/niwa220312_0100.jpg" width="400" /></a></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><br /></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiXbJBd2lE-nsLg5Ov_aaIsfOWBxitSkxlnzlojDSMtJEpoQRin8btccuw1ibWHOa4Ro45wvO3UkATNjOxBvvX_4OAU7SxeT1nYr2XB6J3wUPxuOpCRurUBCPhiPrWUToBMDfsorhHPggeCLLtzsJNuXVRFae-NVscprMCKzPJe2tsRcniaxP1TaHWR/s600/niwa220312_0190.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="450" data-original-width="600" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiXbJBd2lE-nsLg5Ov_aaIsfOWBxitSkxlnzlojDSMtJEpoQRin8btccuw1ibWHOa4Ro45wvO3UkATNjOxBvvX_4OAU7SxeT1nYr2XB6J3wUPxuOpCRurUBCPhiPrWUToBMDfsorhHPggeCLLtzsJNuXVRFae-NVscprMCKzPJe2tsRcniaxP1TaHWR/w400-h300/niwa220312_0190.jpg" width="400" /></a></div><br /><br /><p></p><p>さあもうすぐ!・・・・と思っていたら3/22は雪・・・・それも朝から一日中</p><p>天気予報では雨まじりとか、大したことないだろうと思っていたのに、朝から完全に雪</p><p>早朝の気温が5度くらいで、日中は下がり続けて2度・・・・鉢植えだったら逃げられるのですが!</p><p>翌朝になってじょうろで水をかけ、上に積もった雪を溶かしてやりました(始めは水道も凍ってました)</p><p>おい!おめえ大丈夫か?・・・・しっかりしろ</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh2X5xLL6yCj5pCErlONFupVSci8acOEADWqn2fm8ytmGLwKTYfpKxmTF2qk0iS9UZbCt5BsQvoCyxJI3CbQQAdGL8ioJMIDsmNASNRTtDSgqKs5nSPwczgbT1ThNEQSd0YH9kFmFKRYF_JuQLL6iFQkAvXQW3oBIvt29UmqiLCKndZ72qH5KJjPQRs/s600/niwa220325_0160.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="450" data-original-width="600" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh2X5xLL6yCj5pCErlONFupVSci8acOEADWqn2fm8ytmGLwKTYfpKxmTF2qk0iS9UZbCt5BsQvoCyxJI3CbQQAdGL8ioJMIDsmNASNRTtDSgqKs5nSPwczgbT1ThNEQSd0YH9kFmFKRYF_JuQLL6iFQkAvXQW3oBIvt29UmqiLCKndZ72qH5KJjPQRs/w400-h300/niwa220325_0160.jpg" width="400" /></a></div><br /><p></p><p>今年はダメかな?・・・・と思いましたが、二日後にはなんとか立ち直り</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjcqt8HM0aSi_QjQz87rdTA1z7NGEEeOGRku8-b7ncDVRL2pLaCZc76hFuhZTpMBp_8zt7QPIvZPBSDG6Fffzaar9WXrTkRCdrTAQFWpOZfu3DH78FLphvohGDY7iOfODakPSd2e9jyml7Qkfr2i1U85hH3hJ5BtrusFjp6eUEfP4bj_aSKIGXxJpE5/s600/niwa220325_0430.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="450" data-original-width="600" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjcqt8HM0aSi_QjQz87rdTA1z7NGEEeOGRku8-b7ncDVRL2pLaCZc76hFuhZTpMBp_8zt7QPIvZPBSDG6Fffzaar9WXrTkRCdrTAQFWpOZfu3DH78FLphvohGDY7iOfODakPSd2e9jyml7Qkfr2i1U85hH3hJ5BtrusFjp6eUEfP4bj_aSKIGXxJpE5/w400-h300/niwa220325_0430.jpg" width="400" /></a></div><br /><p></p><p>その後も強風にやられて、一晩中首を振り回されたのか、元々うなだれ気味のつぼみですが、まだなんとなく下向き。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEipnbzNv3Gd526N1GwKqimFbVaHsgCDBaOP6lsiw3s4VBb9YgCaoyANJmXEHfE8C910shbcgvp7IH5NmmjDK9tHAAHyGmogdPJwws-VK92ZKNDudT7YCS1ScQn6d-Orh2wiZSYRTW1WMAUz_PpAA6HLIAF_rk2HaQKEEox69BvcCqWcwlg4mPRkd5qN/s1500/niwa220325_1250.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1125" data-original-width="1500" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEipnbzNv3Gd526N1GwKqimFbVaHsgCDBaOP6lsiw3s4VBb9YgCaoyANJmXEHfE8C910shbcgvp7IH5NmmjDK9tHAAHyGmogdPJwws-VK92ZKNDudT7YCS1ScQn6d-Orh2wiZSYRTW1WMAUz_PpAA6HLIAF_rk2HaQKEEox69BvcCqWcwlg4mPRkd5qN/w400-h300/niwa220325_1250.jpg" width="400" /></a></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><br /></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;">降雪前はこんなに上を向いて頑張っていたのもあったのに、すくすくと成長するのは難しいものです。</div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiYpTGBi2Lhg7LV5meKi9_oFKHhwxFLlbT8nrkL17aRFuBkOieMTMBhCzrx8FcrqLc4CiMM7RUgQ8Kd5-sbXPqTNt1v0wJq2zD19ojoJ17XFMw-xu-VEXxnFfPg-2OTZa9PrehHyWS6ltTFdWo8_Xm3QKcZn2ceboUoGatsl0ygd4qslVq7Anqdx4yz/s600/niwa220316_0100.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="450" data-original-width="600" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiYpTGBi2Lhg7LV5meKi9_oFKHhwxFLlbT8nrkL17aRFuBkOieMTMBhCzrx8FcrqLc4CiMM7RUgQ8Kd5-sbXPqTNt1v0wJq2zD19ojoJ17XFMw-xu-VEXxnFfPg-2OTZa9PrehHyWS6ltTFdWo8_Xm3QKcZn2ceboUoGatsl0ygd4qslVq7Anqdx4yz/w400-h300/niwa220316_0100.jpg" width="400" /></a></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><br /></div>こちらの小さい株は、花びらが開いて、目玉オヤジが顔を出しました。<br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEht7zkJK-GC_yhBUaDWHlhe1Z3ewMNxpIPDDcir8IF5xMpO4J_nbriDcDaNOTHoRsY00KOFMThqY7os1Di2ppyyUnX2wNgyO9QgsB8VQ7EXwhcCJgNA4k0CGBDNAKGQCL3rC2CRRa78ikf4QUUi_Y92G-Mb7xadDv3gxNSjAOLpk4kLM_ca5c3h_p0c/s1500/niwa220325_1360.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1125" data-original-width="1500" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEht7zkJK-GC_yhBUaDWHlhe1Z3ewMNxpIPDDcir8IF5xMpO4J_nbriDcDaNOTHoRsY00KOFMThqY7os1Di2ppyyUnX2wNgyO9QgsB8VQ7EXwhcCJgNA4k0CGBDNAKGQCL3rC2CRRa78ikf4QUUi_Y92G-Mb7xadDv3gxNSjAOLpk4kLM_ca5c3h_p0c/w400-h300/niwa220325_1360.jpg" width="400" /></a></div><br /><p></p><p>その後も、暑くなったり寒くなったりであまり成長せず。</p><p>普通でも、つぼみの部分は下向きなので、写真うつりはイマイチです。</p><p>3月も終わりの日の様子・・・・なんとなくまだ少し疲れ気味か?</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhfSGpPjQrFAfuG-x5qKtx9ZOdyz-gweffCDU0qsHwflVoAG-v_RAxpqGav-wiuVr6AuuE2D6Eiu1F_thWeQnaVCgEf40eYphFgAaNeEe97uOyfUgFrYEwTvYe2AzUC0WRrhqydBLeKMUFwhexG9po9pn2o3OFOEWWlq6FpvFvC1NcDsXVONme3OoYV/s1500/niwa220331_0020.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1125" data-original-width="1500" height="300" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhfSGpPjQrFAfuG-x5qKtx9ZOdyz-gweffCDU0qsHwflVoAG-v_RAxpqGav-wiuVr6AuuE2D6Eiu1F_thWeQnaVCgEf40eYphFgAaNeEe97uOyfUgFrYEwTvYe2AzUC0WRrhqydBLeKMUFwhexG9po9pn2o3OFOEWWlq6FpvFvC1NcDsXVONme3OoYV/w400-h300/niwa220331_0020.jpg" width="400" /></a></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><br /></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;"><div class="separator" style="clear: both;">でも、良く頑張ってる。</div><div class="separator" style="clear: both;"><br /></div><div class="separator" style="clear: both;">ちなみに、我が家のオキナグサは、地味な色合いですが、カラフルなのもあるようです。</div></div><br /><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><br /></div>iyo_mizukihttp://www.blogger.com/profile/11025857562542866763noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6473942313637128241.post-41966377205681172652022-03-21T17:55:00.008-07:002023-12-20T23:02:19.762-08:00永生<div style="text-align: left;"> 人間も、自分が精誠を込めて完成した作品を自分の子孫万代に残したいと思い、自分の近くに置いておきたいと切実に思うのですが、神様はどうでしょうか。<br />愛らしい息子、娘として生まれた人間を、しばらくの間だけ愛して、それで終えるのでしょうか。</div><div style="text-align: left;">永遠に愛したいと思われるのかというのです。<br />ですから、人間が完成して神様の愛を永遠に受けることができるならば、神様は人間を永遠に近くに置いて置きたいと思われるはずです。<br />絶対者がそのように喜ぶ立場に立たなければならないので、人間も永生しなければならないのです。</div><div style="text-align: left;">(天聖経753ページ)</div><p><br /></p><div style="text-align: left;">人は永生しなければなりません。良い知らせでしょう?<br />悪の世の中で八十年ぐらい生きるのですが、ありが死ぬのも人が死ぬのも違いはないと思うかもしれません。しかし、違います。</div><div style="text-align: left;">人は霊物なので違うのです。<br />なぜ万物の霊長になるのでしょうか。老いない心のためです。</div><div style="text-align: left;">万物はすべて変わります。色あせてしまいます。風化作用によって減退します。<br />ところが心だけは違います。</div><div style="text-align: left;">変わらないことにおいて最高の権威をもっています。</div><div style="text-align: left;">(同755ページ)</div><p><br /></p><div style="text-align: left;">一番重要なものは永生です。</div><div style="text-align: left;">しかし、霊界があるか、ないかということを知らずにいます。<br />間違いなく永生することを知るようになれば、他の人が「罪を犯しなさい」と言っても犯しません。</div><div style="text-align: left;">「自分のために生きなさい」と言っても生きないのです。<br />これを知らなければ、何の宗教を信じても、絶対に天国に行けません。</div><div style="text-align: left;">神様の理想世界に行けないのです。<br />真の愛と生命を投入しなければ、行くことができないのです。</div><div style="text-align: left;">(同754ページ)</div><p><br /></p><div style="text-align: left;">創造主の永遠の愛の対象になれるという論理的結論が出てくるようになるとき、その愛と一つになった愛の対象も永生するという論理が生じるようになります。<br />永生は、自動的な産物です。</div><div style="text-align: left;">永生は、ここから展開します。</div><div style="text-align: left;">愛の関係を中心として、永生論理をどうのように立てるかという問題は、宗教において極めて貴重です。</div><div style="text-align: left;">男性に永生があり、女性に永生があるのではありません。</div><div style="text-align: left;">神様の愛に永生があるのです。</div><div style="text-align: left;">・・・・(中略)・・・・<br />神様が一番愛して、貴く考えるものがあるとすれば、それを一日、あるいは十年や百年ぐらい共に過ごしたのちに、放り投げるようにつくるでしょうか。</div><div style="text-align: left;">永遠に共にいるように造るでしょうか。</div><div style="text-align: left;">永遠に共にいるように造るのです。<br />人も同じです。</div><div style="text-align: left;">人が生まれて、死んで終わりでよいでしょうか、永生しなければならないでしょうか。</div><div style="text-align: left;">永生しなければなりません。</div><div style="text-align: left;">それは、人間が、絶対者の神様が絶対的な愛を中心として喜ぶことができる対象だからです。<br />一日や二日、あるいは十年、百年喜んで投げ出してしまうのなら、それは愛ではありません。<br />愛すれば愛するほど、共にいたいと思うのです。</div><div style="text-align: left;">(同755ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"><div>人間は間違いなく永生するということを知れば、他の人が「罪を犯せ」と言っても、犯さないでしょう。</div><div>「自分のために生きよ」と言っても、そのようには生きないのです。</div><div>これが分からなければ、キリスト教を信じても何の宗教を信じても、絶対に天国に行けません。</div><div>・・・・(中略)・・・・</div><div>この永生問題と連結されなければ、社会の革命も不可能です。</div><div>現在よりもっと疲弊して没落した環境に陥るとすれば、誰もが「その場には行かない」と言うでしょう。</div><div>しかし、永生問題、永遠の生命の問題というときは、環境的条件をすべて克服できるのです。</div><div>宗教はそれで偉大なのです。永生問題がかかっています。</div><div>永生問題の概念さえ確立しておけば、そしてそれが事実であるという主観が立つようになれば、自分の息子、娘と家族を引っ張っていくのです。</div><div>今までの宗教は、そのような思想界を包括し、習慣性によって環境に編み込まれた現在の文化背景の根拠を、すべて消化させることができないのです。</div><div>それはなぜでしょうか。永生世という概念を確立できていないからです。</div><div><br /></div><div>キリスト教もそうです。</div><div>キリスト教も、今まで信仰してきたとしても、終わりの日になって環境が変われば変わるほど、すべてかき回されてしまうのです。</div><div>なぜでしょうか。それは、永生という概念がないからです。</div><div>永生問題においては、自信がないというのです。神様がいるのかいないのか、分かりません。</div><div>生命を懸けて、環境をこえていけるかという問題について見るとき、すべてそこに所属して四方を見まわしながら、現在の生活の方便にしたがってその道に陥りつつあるのです。</div><div><br /></div><div>信仰の道というものが、今生きている人生、肉身生活の準備ではなく、永遠の世界の生活のための準備であるという信念さえ持つようになれば、その人は放っておいてもいいのです。</div><div><br /></div><div>人は時間が経てば経つほど、四十歳を越えて五十歳を越えるほど、死ぬ日が近づいてくるために、永生の概念について深刻になります。</div><div>(平和経574ページ)</div></div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"><br /></div>iyo_mizukihttp://www.blogger.com/profile/11025857562542866763noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6473942313637128241.post-25298888791782215612022-03-17T21:19:00.009-07:002024-01-09T15:33:05.516-08:00こひつじの婚宴、イエス様の使命<div style="text-align: left;"> (iyo)以下に四千年という年数が出てきますが、聖書の歴史を計算してみると、人類が誕生しておよそ六千年経っていることになっています。<br />先生も、よく人類歴史六千年と言われますが、実際の年数が六千年という意味ではないようです。</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">人類が生まれてから四千年ぶりに、この天地間に神様のひとり子が生まれました。</div><div style="text-align: left;">良い知らせです。幸福な知らせです。</div><div style="text-align: left;">それで、キリスト教で「福音」という言葉が出てくるようになったのです。</div><div style="text-align: left;">福音とは幸福な音信です。</div><div style="text-align: left;">・・・・(中略)・・・・<br />ひとり子が現れたことが幸福です。</div><div style="text-align: left;">神様は先にひとり子を送られました。</div><div style="text-align: left;">それで、今までの歴史は男性が作ってきたのです。</div><div style="text-align: left;">ひとり子が来たならば、その次には、ひとり娘がいなければなりません。<br />・・・・(中略)・・・・<br />メシヤはひとり子として来て、ひとり娘を求めなければならないのです。<br />しかし、そのまますぐに求めることができるわけではありません。</div><div style="text-align: left;">アダムを通してエバを造ったので、この世の中に来て、エバを探さなければならないのです。</div><div style="text-align: left;">サタンが奪っていったエバを取り戻さなければなりません。<br />(真の父母経32ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">イエス様の思想の中で最も偉大なことは、神様が自分の父であり、自分は神様のひとり子であると主張したことです。</div><div style="text-align: left;">ひとり子ということは、父なる神様の初愛を占有しているということです。</div><div style="text-align: left;">初愛を受けられる立場に立ったというのです。<br />神様がキリスト教を世界的な宗教にせざるを得なかった理由は、イエス様が「私は神様のひとり子である」と主張する立場に立ったからです。</div><div style="text-align: left;">ひとり子というのは、神様の愛を強調した言葉です。</div><div style="text-align: left;">ひとり子は、神様の初愛と結ばれた個人なのです。</div><div style="text-align: left;">(同30ページ)</div><p><br /></p><div style="text-align: left;">キリスト教の中心は、イエス様です。<br />新郎であられるイエス様が、新婦を迎えるのです。<br />これが正に、「子羊の婚宴」です。<br />「子羊の婚宴」とは、イエス様と聖霊である一人の女性が、実体をまとって結婚式を挙げることです。<br />キリスト教では、「父」は神様であり、「子」はイエス様だと言います。「聖霊」は母なる神です。<br />(同42ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">イスラエルの国を救う前に、家庭をつくらなければなりません。<br />もしイエス様が、神様のひとり子としてひとり娘に出会って結婚式をするとすれば、その結婚式の主礼は、間違いなく神様がしてくださるのです。<br />救援摂理の最高の目的は、神様が愛する一つの家庭をつくることです。<br />それで、神様の愛を中心として、ひとり子とひとり娘の立場で成長し、神様を父としてお迎えできる場で祝福を成し遂げ、人類の真の先祖の基盤を整えるのです。<br />その場を失ってしまったので、再び取り戻さなければなりません。<br />(同31ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">天の国が来る前に、天の国の民族が出てこなければなりません。</div><div style="text-align: left;">その民族が出てくるには、どのようにすべきでしょうか。</div><div style="text-align: left;">民族は一度には出てきません。特別な氏族が出てこなければなりません。</div><div style="text-align: left;">その氏族が出てきて、民族を動かさなければなりません。</div><div style="text-align: left;">その氏族が出て来るには、親族がいなければなりません。</div><div style="text-align: left;">その親族が出て来るには、親族の中心になる家庭が出てこなければなりません。</div><div style="text-align: left;">その家庭が出て来るには、子女がいなければなりません。</div><div style="text-align: left;">その子女が出て来るには、父母がいなければなりません。</div><div style="text-align: left;">その父母が出て来るには、天の国のすべてを代表できる一人の男性がいなければなりません。それがメシヤです。</div><div style="text-align: left;">その男性が父母になるには、相対をつくって、その相対と一つにならなければなりません。それがキリスト教の教えです。それが終末です。</div><div style="text-align: left;">(天聖経179ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">メシヤは、この地上に来るとき、何ももってくることはできません。<br />彼には国もありません。何もないのです。<br />相対を失ってしまったので、相対もいません。エバとカイン、アベルを失ってしまったので、主人の役割を果たせないのです。<br />それで、それを取り戻しに来るのです。<br />ですから、キリスト教は、新郎として来られるメシヤを迎える新婦の宗教です。<br />(真の父母経35ページ)</div><p><br /></p><div style="text-align: left;">(iyo)マリヤ様は、自分の生命を顧みずイエス様を誕生させた歴史的な女性で、崇拝の対象になっていますし、原理でもそのように解釈していますが、イエス様を誕生させた後の行動については、必ずしもそう見ていません。</div><div style="text-align: left;"><br />ヨハネ第2章で、ガリラヤのカナに婚礼があって招かれた時、マリヤはぶどう酒がなくなってしまったことでイエス様に話しかけましたが、その時のイエス様の返事は「婦人よ、何のご用ですか。まだわたしの時は来ていません」というものでした。</div><div style="text-align: left;"><br />この「私のとき」とはなんでしょうか?<br />イエス様もこひつじの婚宴をしなければならなかったので、これを「わたしの時」と表現したと解釈しています。<br />さらに、マタイ12章では、「だれがわが母でだれがわが兄弟か」、「天にいますわが父のみ心をおこなうものこそわが兄弟、姉妹また母である」と言われています。<br />イエス様を誕生させた後も、マリヤはイエス様を助けなければならなかったのです。</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"><div>以下、先生の講話より</div><div>「復帰摂理を概観すると、母子協助の基盤が重要でした。</div><div>ヤコブの時、モーセの時、イエス様のときも、すべてそうでした。</div><div>堕落の張本人であるエバの代わりに責任を果たす母を立て、次子に母子協助をしながら、サタンの血統と生命を分立させるための摂理が行われてきたからです。」</div><div>(平和経118ページ)</div><div><br /></div><div><br /></div></div><div style="text-align: left;"><div>アダムとエバが思春期を経て成熟し、人生の春の季節を迎えるようになれば、神様が結婚させて下さったはずです。</div><div>そのとき、神様は、彼らの結婚式をしてあげなければなりませんでした。</div><div>それをしてあげられなかったので、キリスト教を中心として、「小羊の婚宴」という言葉を立てたのです。</div><div>聖書のヨハネの黙示録の最後を見ると、「小羊の婚宴」という言葉が出てきます。小羊の婚宴とは何でしょうか。</div><div>六千年前、神様が結婚させてあげるべきだったアダムとエバが、サタンを中心として結婚し、悪の先祖になりました。</div><div>したがって、それを復帰するために、歴史的な終わりの日に、神様が新しい新郎新婦を立てて再び結婚式をしてあげる宴がなければなりません。</div><div>その宴が小羊の婚宴です。</div><div>この宴をすることで、失ってしまった真の父母が人類の前に誕生するようになるのです。(天聖経154ページ)</div><div><br /></div><div><div>再び来られる主が、空中から雲に乗って来て、霊的に、妄想的な国家を創設するというのが、神様の願いではありません。その方が再び来られるのは、この地を足場として、神様のありったけの愛を受けることができる一人の新婦を迎え、人間の先祖が六千年前に人類の真の先祖になれず、偽りの先祖となることによって失ってしまったものを、取り戻す役事(働き)をするためです。</div><div>それゆえ、神様の愛と一致し得る位置に立てる完全な男性と、神様の愛に通じ得る位置に立てる完全な女性が、歴史時代に必ず現れなければなりません。</div><div>今この時が、新郎として来られる主を迎える新婦として立つことができる時です。ですから、この位置は、エデンの園でアダムとエバが愛を受けた、それ以上の位置であり、アダムとエバを祝福してくださった、それ以上の位置です。</div><div>地上にそのような基点が生じてこそ、サタンが侵犯できません。</div><div>人間始祖アダムとエバが、そのような勝利の位置に立つようになったとすれば、天使長はサタンにならず、完全なる僕の位置で人間に侍る立場に立ったでしょう。これが創造原則です。このような位置を失ってしまった人類は、孤児です。ですから、このような位置を取り戻すことができる人類の真の父母が、この地上に現れなければなりません。</div><div>(真の父母経27ページ)</div></div></div><div style="text-align: left;"><br /></div><div><br /></div>iyo_mizukihttp://www.blogger.com/profile/11025857562542866763noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6473942313637128241.post-41853930230186795292022-02-26T16:17:00.013-08:002023-06-01T21:16:39.637-07:00高度宗教の発生と成長<div style="text-align: left;"> イギリスの歴史家、アーノルド・トインビー氏は、文明単位に世界の歴史を比較・研究しました。</div><div style="text-align: left;">あまりに読みが深すぎて(?)、歴史家という域を飛び越えてしまったような面があります。<br />「歴史の研究」が主著ですが、膨大過ぎて、ちょっと読み直してみるというわけには行きません。</div><div style="text-align: left;">理解可能な歴史研究の範囲は?・・・・という課題から始まって、それまで主流だった国家単位の研究ではなく、文明単位での発生、成長、衰退、解体の過程を研究しました。<br />その中で、高度宗教の役割について、ユニークな観点から興味深い内容を語っています。</div><p>「歴史の研究」は、3巻(日本語版)に要約された版もあり、こちらの方が多く読まれたようです。</p><div style="text-align: left;">ここでは、山本新氏の著書から引用しています。<br />講談社「人類の知的遺産 74 トインビー」 昭和53年8月20日第1刷発行 <br /> 著者 山本新<br /> Ⅱトインビーの生涯と思想の変遷<br /> 第二の転機(文明から高度宗教へ)より(P.63)</div><p>「一文明内の事象はその文明全体の文脈からでないとしっかりはわからない、という考えをトインビーはシュペングラーから受け、この考えによって「歴史の研究」を書き綴っていった。</p><p>その半ばに達し、文明の最終段階である「世界国家」の段階にさしかかるあたりになると、一文明内の事象をいくら調べてもわからぬことがいろいろと出てきた。」(P.68)</p><p>「一文明が固有の領域をこえて、他の文明の領域を征服したり、長期にわたって支配したりしたとき、そこでおこることは、二つ以上の文明の出会いであって、一文明の内的展開ではない。</p><p>「出会い」というからには、当然、文明間の闘争であり、葛藤であり、支配的な文明の側からだけ一方的にみることはできない。</p><p>トインビーにとって、最も重要と思われたことは、高度宗教の誕生であった。」</p><p>・・・・(中略)・・・・</p><div style="text-align: left;">「いくらギリシア文明を吟味してみても、なぜ、ローマ帝国がその末期にいたってキリスト教に改宗したかは理解不可能である。</div><div style="text-align: left;">また、いくらシリア文明をそれだけの枠で吟味しても、ユダヤ教からキリスト教が紀元直後にいたって出て来たかは理解不能である。」<br />・・・・(中略)・・・・<br />「高度宗教は、一文明の純粋に内的な発展または内的成熟から生まれたものではない。</div><div style="text-align: left;">高度宗教が生まれるためには、文明と文明の接触、より具体的に言えば、一文明による他文明の征服が必要である。</div><p>他を征服した文明の側には、高度宗教を生むほどの高い精神が培われず、逆に、他から征服された文明の方に高度宗教が生まれる。</p><p>強いこと、勝つこと、支配すること、優位に立つことだけが価値のあることと思っている価値観を根本からゆさぶるのが、高度宗教の誕生の深い意味である。」(P.69)</p><div style="text-align: left;">(以前の)「トインビーにとって、高度宗教の歴史における役割は、親文明を子文明に橋渡しする「蛹(さなぎ)」の役をするものであった。」<br />・・・・(中略)・・・・<br />「しかし、宗教中心に、宗教の方に重点をおいて考えると、文明は高度宗教を生み出すために、挫折し、解体し、消滅し、やがて子文明として誕生するのだ、というふうに解しうる。</div><p>「蛹」説を放棄し、文明を高度宗教の手段の位置におとし、文明の目的は高度宗教を生み出すことにあるという見解に達した。」(P.71)</p><p>「これは神学者や宗教家の歴史観に酷似しており、これには世俗の歴史家はついていけなくなった。</p><div style="text-align: left;">歴史は神の活動する舞台であり、その秘儀を前衛的に自覚的に代弁し、代行するものが教会であるということになる。<br />宗教団体である教会は、神的事業にもっとも直接に接触している社会組織で、文明とは別種の社会と考えられ、そこに、歴史の要である中核的な錘(おもり)があるとされた。</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">いいかえれば、歴史の表面には、民族や国家が活動しているように見えるが、世俗的活動は、実は文明と言う単位で動いている。<br />しかし、それを一皮めくると、諸文明の抗争し、角逐する歴史の奥に、宗教史がかくされているから、歴史の意味と目的は、宗教史のクライマックスである高度宗教を中心に読まなければならないというのである。」(P.72)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><p>(iyo)ここではキリスト教の例を中心に記述していますが、その親にあたるユダヤ教も同じような経過を辿っています。</p><div style="text-align: left;">南朝ユダが新バビロニアに滅ぼされて、バビロンに捕らわれの身となりました。</div><div style="text-align: left;">この頃からユダヤ教が深化・成熟していったと言われます。<br />キリスト教もローマ帝国の迫害の中で成熟しましたし、宗教に迫害はつきものですね。</div><p>トインビーには「一歴史家の宗教観」という著書もあって、山本新氏は代表作に挙げています。</p><div style="text-align: left;">30年もかけて「歴史の研究」を書いている間に、本人の考えにも変化が生じてきています。<br />歴史の背後に神の存在を見るようになってきました。<br />以下、同じく世界史家のマクニール氏の文章より引用。</div><div style="text-align: left;"> 社会思想社「トインビー著作集」の「トインビー研究」 <br />「『歴史の研究』の基本的想定」(p120) W・H・マクニール</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">「各文明の衰退期に宗教が創始せられることによって、人間は神についての知識を、苦しい骨折のなかで、何ほどかずつ積み重ねてきた。</div><div style="text-align: left;">こうして世界史は、人間に対して神が自己を漸次に段階的に啓示していく過程と見られるにいたった。</div><div style="text-align: left;">宗教が歴史にかわって、人間結合のもっとも価値高いもっとも重要な形式となり、神が人間にかわって歴史の主役となった。<br />・・・・(中略)・・・・<br />文明の周期性はなるほど依然として認められはした。</div><div style="text-align: left;">しかし、文明は回帰しつつも前進する。</div><div style="text-align: left;">それは大きい戦車の車輪のように、人類を載せて、絶えず前進を続け、神的な意志によって定められたある目標、予知しがたいが、あきらかに好ましい目標へと人類を近づけるのだと考えられた。」</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">(iyo)</div><div style="text-align: left;"><div>トインビーの「歴史の研究」には、「誰のために」という見出しがあって、世界国家(例えばローマ帝国)がつくり出した平和や制度は、誰のために最も有効に機能したかを検証しています。</div><div>具体的には、交通手段、首都、地方制度、公用言語と公用文字、法律制度、駐屯部隊と植民地、度量衡や貨幣など、多方面から様々な文明を対象に検討・分析します。</div><div><br /></div><div>例えば、「ローマの平和」がもたらした最大の恩恵とも言える交通手段について・・・・レギオンや商人たちも大いに利用しましたが、最も有効活用したのは、使徒パウロを始めとするキリスト教徒達の伝道活動であったと結論付けます。</div><div>聖書の使徒行伝にはそのようすも書かれていますが、中でもパウロは、歴史的に見ても長距離旅行者として有名な人物のようです。</div><div>新約聖書には「○○の手紙」というのも沢山ありますが、山賊や海賊が多ければ発展は難しいわけで、郵逓制度もその多大な恩恵の1つでしょう。</div><div>その後の時代においても発展し、世界国家全体に教会が多数作られました。司教や大司教が忙しく飛び回ったとか。</div><div><br /></div><div>日本でも徳川幕府(世界国家に相当)のおかげで、平和が訪れ、各街道が整備されました・・・・もっとも日本の場合は弾圧により、布教活動は失敗に終わりましたが。</div><div><br /></div><div>結論として、世界国家の諸制度は、当時の支配者達が意図しない、意外な利用者に役立つことがきわめて多いとのこと。</div><div><br /></div><div>こうした世界国家をつくった本当の目的は、まさに神のみぞ知るということでしょう。</div><div><br /></div><div><div>(iyo)国家の興亡と宗教について原理講論p142から引用します。</div><div>「中国の歴史を見ると、春秋戦国の各時代を経て、秦統一時代が到来し、そして前漢、新、後漢、三国、西晋、東晋、南北朝の各時代を経て、隋唐統一時代がきた。</div><div>さらに、五代、北宋、南宋、元、明、清の時代を経て、今日の中華民国に至るまで、複雑多様な国家の興亡と、政権の交代を重ねてきたのであるが、今日に至るまで、儒、仏、仙の極東宗教だけは、厳然として残っているのである。</div><div>つぎにインドの歴史をひもといてみても、マウリア、アンドラ、クシャナ、グプタ、ヴァルダーナ、サーマン、カズニ、ムガール帝国を経て、今日のインドに至るまで、国家の変遷は極まりなく繰り返してきたわけであるが、ヒンズー教だけは衰えずにそのまま残っているのである。</div><div>また、中東地域の歴史を見れば、サラセン帝国、東西カリフ、セルジュク・トルコ、オスマン・トルコなど、国家の主権は幾度か変わってきたのであるが、彼らが信奉するイスラム教だけは、連綿としてその命脈が断ちきられることなく継承されてきたのである。</div><div>・・・・(中略)・・・・</div><div>ヨーロッパの主導権はギリシャ、ローマ、フランク、スペイン、ポルトガルを経て、一時フランスとオランダを経由し、英国に移動し、それが、米国とソ連に分かれ今日に至っているのである。</div><div>ところが、その中においても、キリスト教だけはそのまま興隆してきたのであり、唯物史観の上にたてられた専制政体下のソ連においてさえ、キリスト教は、今なお滅びずに残っている。</div><div>・・・・(中略)・・・・</div><div> 歴史上には数多くの宗教が生滅した。その中で影響力の大きい宗教は、必ず文化圏を形成してきたのであるが、文献に現れている文化圏だけでも、二十一ないし二十六を数えている。</div><div>・・・・(中略)・・・・</div><div>そして近世に至っては、前に列挙したように、数多くの国家興亡の波の中で、結局、極東文化圏、印度教文化圏、回教文化圏、キリスト教文化圏の四大文化圏だけが残されてきたのであり、これらはまた、キリスト教を中心とした一つの世界的な文化圏を形成していく趨勢を見せているのである。</div><div>・・・・(中略)・・・・</div><div>このように、文化圏の発展史が数多くの宗教の興亡、あるいは融合によって、結局、一つの宗教を中心とする世界的な文化圏を形成していく」</div></div></div><div><br /></div>iyo_mizukihttp://www.blogger.com/profile/11025857562542866763noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6473942313637128241.post-19501572672857756052022-02-24T18:06:00.003-08:002024-02-02T15:40:54.663-08:00地上生活と霊界の関係<div style="text-align: left;"><div>人間の構造をよく見ると、神様は、本来人間を二重構造で創造されたことが分かります。</div><div>有形世界である現象世界の縮小体として肉身を創造され、無形世界の代表であり、主人として立てるために霊人体を創造されました。</div><div>したがって、人間は、地上界で百年くらい生きて肉身の役割が終われば、自然に、そして自動的に無形世界の霊界に入っていくようになっているのです。</div><div>このように霊界は、肉身を土台として生きている私たちの目では見ることができないだけであって、地上生活の自動的で必然的な延長です。</div><div>神様が創造してくださった、人間の永遠の本郷なのです。</div><div>霊界は、このように厳然として存在します。妄想の世界でもなく、想像の世界でもありません。</div><div>これは、人間の選択権の外にあるのです。良いからと言って行き、嫌だからといって行かなくてもよい、そのような世界ではありません。</div><div>神様が永遠不変の方であられるように、御自身が創造された霊界も永遠不変なのです。</div><div>私たちが地上界で、肉身をもって現象世界と様々な関係を結んで暮らすのと同じように、霊界でも人間は、霊人体をもって霊界のすべての現象と密接な関係を維持して生きていかなければならない宿命的存在です。</div><div>人間の霊人体と肉身の関係について見るとき、より重要なのは、肉身ではなく霊人体です。</div><div>肉身は百年くらい生きて死ぬのですが、霊人体は、時間と空間を超越して永生します。</div><div>いくら地上界で良い服を着て、良いものを食べ、裕福に暮らす人も、結局、死ぬのではないですか。</div><div>したがって、皆様の人生は、霊的な基準と肉的な基準をよく調和させ、霊肉が一つになった完成実体を形成して暮らしてから逝かなければなりません。</div><div>現象世界であり有限世界である地上界の人生で、肉身を土台として霊人体を完成させる責任があるということです。</div><div>ところが、霊人体の完成は自動的にやってくるのではありません。</div><div>必ず真の愛の実践を通して、体と心が完全一体になった人生の土台の上で、初めて完熟した霊人体が結果として実って行くのです。</div><div>皆様。秋になって、倉庫に入って行く、良く熟した果物になるためには、春と夏という過程を経ながら、自然界が提供してくれる栄養素と主人の細やかな世話が絶対に必要です。</div><div>無精で見識の無い主人に出会った果樹園の果物は、あらゆる疾病と悪天候に悩まされ、熟すこともできないまま落果したり、虫に食われた果物として選別されたりしてしまうでしょう。</div><div>果物は果物ですが、全てが同じ果物というわけではありません。すべての果物が、市場に出して売れる完成品になるわけではないのです。</div><div>木の上で完熟した果物は、自動的に主人の倉庫に入っていきます。同じように、人間の霊人体は、木と同じ立場にある地上界の人生で完成してこそ、自動的に無形世界である霊界の天国に入って行くのです。</div><div>言い換えれば、人間は、肉身を持って暮らす地上界の人生で、完熟した人生、すなわち、この地に天国を形成し、楽しく暮らしてから逝ってこそ、自動的に天上天国に入場するようになるのです。(平和経1571ページ)</div><div><br /></div><div>地上の生活と永生の生活は、別々ではありません。地上の生活も重要であり、永生の生活も重要です。永遠の生活は、地上生活からつながっているという意味です。二つとも重要ですが、今日この地に生きる人たちは、永生の概念を知りません。この地の生活が重要だと思っています。・・・・(中略)・・・・それは、互いに向き合って動きます。地上世界が上がれば永生世界(霊界)も上がり、地上世界が下がれば永生世界も下がります。一方が回れば、他方も同様に回ります。それで、現世においてそれを実感して、永生にプラスさせる生活をしなければなりません。永生と現世は分かれません。天国と地獄を明らかにしなければそれが分かりません。したがって、永生と地上生活の重要性を感じながら働きなさいというのです。(天聖経758ページ)</div><div><br /></div><div>皆さんの良心が自分の生涯をすべて知っているように、すべての内容が霊界のコンピュータに入力されます。霊界に行って名前を入力すれば、その人の生涯が一瞬にしてすべて出てきます。霊界は時間と空間を超越しているので、その場で、あっという間にすべての生涯の記録が分かります。ですから、良心は、永遠の世界のコンピューターのボタンです。知っていることがそのまま入力されます。良心のの呵責を受けることがあれば、それがそのまま入力されるのです。良心の呵責を受けない人生であれば、きれいな障害として記録されます。霊界に行って弁解できません。自分が生きてきた一生の姿が、そのままはっきりと見られます。そのような世界があることを知って、その世界に通じることができ、その世界を迎えることができる準備をする訓練所が地上世界です。(天聖経762ページ)</div></div>iyo_mizukihttp://www.blogger.com/profile/11025857562542866763noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6473942313637128241.post-67107157603685603572022-02-14T01:10:00.005-08:002024-01-16T15:11:18.860-08:00血統転換して生まれたイエス様<div style="text-align: left;"> 神様は、四千年を経てイエス様を送られました。</div><div style="text-align: left;">イエス様は、長い歴史を経てこられた方です。</div><div style="text-align: left;">生まれるときは、母親のおなかを通して十か月で生まれたのですが、地上に来るために、四千年前から準備された方なのです。</div><div style="text-align: left;">(真の父母経74ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">イエス様は、サタンが讒訴できる位置を抜け出した立場で生まれたので、原罪がない方です。<br />サタンの主管圏内においてサタンと相対したのが原罪ですが、イエス様はサタンの讒訴条件を越えてお生まれになった方なので、原罪とは関係がないというのです。</div><div style="text-align: left;">このために入れ替える歴史があったのです。<br />エサウとヤコブの時に入れ替え、また、ペレヅとゼラの時に入れ替えて、勝利の基盤を築いてきました。</div><div style="text-align: left;">ですから、イエス様は、原罪と関係のない人間として生まれたのです。</div><div style="text-align: left;">(同36ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">神様は、アダムとエバの堕落以降、失ってしまった子女が戻ってくることを、ただ待っていることはできませんでした。神様は、人間がサタンの讒訴条件を抜け出すことができる道を探し求めてこられたというのです。その路程が、どれほど大変で、悲惨だったでしょうか。サタンが王になっている世界で、神様の立場はどのようなものだったでしょうか。<br />ひとり子イエス・キリストを、サタンの讒訴条件を免れた位置で誕生させるまでの神様の苦労は、到底言い表すことができませんでした。(真の父母経33ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">イエス様は、神様の主管下で生まれた息子なので、原罪を免れた立場に立ちました。<br />サタンの讒訴条件を持っているがゆえに原罪があるというのですが、原罪を免れた立場に立っているため、本然の基準、堕落する前のアダムの位置に帰ることができるのです。</div><div style="text-align: left;">ですから、イエス様だけが第二次のアダムになることができます。人類の先祖として、アダムが失敗したことを復帰できます。</div><div style="text-align: left;">アダムの位置を身代わりできるのです。<br />ここから新しい歴史時代に入ります。<br />イエスは無原罪で生まれたので、サタンの讒訴から完全に脱しました。<br />サタンの讒訴から脱すると同時に、サタンを完全に屈服させました。</div><div style="text-align: left;">天使長を屈服させたというのです。<br />イエス様は、このように神様の息子として、堂々と本然のアダムの位置に立つことができました。</div><div style="text-align: left;">(同37ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">聖書には、ヤコブが母であるリベカと一つになって、兄エサウと父イサクを欺き、祝福される話があり、また、タマルが舅と関係を結んで生んだペレヅとゼラを中心として、ユダの支派が祝福を受けるようになったという内容が出てきます。</div><div style="text-align: left;"><br />このような、人倫や道徳観において解決できない内容が、どうしてあるのかということが問題です。<br />そして、マタイによる福音書を見れば、四大淫女についての話が出てきます。</div><div style="text-align: left;">タマルが出てきて、バテシバが出てきて、ラハブが出てきて、ルツが出てきます。<br />マタイによる福音書は創世記に相当するものですが、歴史時代において、最初の章になぜこのような神聖でない、汚点を持っている女性たちが出て来たのかというのです。<br />このようなすべての問題は、堕落論を知らなければ解決するすべがありません。</div><div style="text-align: left;">(同37ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">ヨセフと婚約したマリヤは、エバとちょうど同じです。</div><div style="text-align: left;">アダムとエバは、堕落する時、婚約した立場にいました。<br />アダムとエバが婚約段階にいるときに堕落したのと同じなので、これを蕩減復帰するためには、リベカの伝統を引き継がなければならず、タマルの伝統を引き継げる女性がいなければなりません。</div><div style="text-align: left;">そのため、血統を清めた女性を代表した基準で、それを相続できる位置に立った人がマリヤでした。<br />マリヤは、神様の息子、娘を生むために命を捧げることを覚悟し、犠牲になる道でも、神様のみ旨を立てた女性でした。<br />タマルのように、イスラエルの王権を立てることを最高の希望と思い、自分の身がどうなろうと、死のうと生きようと、自分を通して神様のみ旨を継承しようとした歴史的な女性でした。</div><div style="text-align: left;">(同37ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">マリヤの腹中にいるイエス様に対しては、サタンが讒訴できません。<br />イエス様が生まれるようになったのも、マリヤが動機になったのではなく、神様のみ旨を中心として、神様の命令によって生まれたので、神様が動機となったのであり、また出生に至る過程も、腹中の勝利の基盤をもつマリヤの腹中から生まれたイエス様だったので、イエス様には、サタンのいかなる讒訴条件もあり得ないというのです。</div><div style="text-align: left;"><br />歴史時代に、腹中から始まったアダムとエバ以降のあらゆる闘いの基盤を、初めて腹中から分別したというのです。</div><div style="text-align: left;">このような血統もって現れた人がイエス様でした。<br />ですから、イエス様は、いかなる預言者や、いかなる世界的な宗教指導者とも、その根本が違うというのです。</div><div style="text-align: left;"><br />イエス様は、サタンが讒訴できない血統的な内容を備えてこられた世界的な代表者です。<br />また、歴史的な内容をすべて清算して来られた方なので、正に神様を中心とした血統的な内容をもって生まれた最初の人に違いありません。<br />イエス様は、このような動機や過程を経て、神様の真の息子として、この地上に誕生するようになったのです。</div><div style="text-align: left;">(同38ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">ヤコブはヤボク川のほとりで天使を屈服させる霊的勝利の条件と実体の天使長の立場であるエサウを屈服させることにより、歴史始まって以来、初めて勝利したというイスラエルの祝福を受けるようになりました。<br />しかし、そのときは既に、年が四十代でした。<br />サタンの偽りの愛の種がエバの胎中に蒔かれて悪の命が生まれたので、神様は母の胎中まで入っていって分別しなければ、天の息子が胎中から誕生できなかったのです。<br />ですから、ヤコブの勝利によっても、いまだ分別されていない妊娠から四十代までの期間も、サタンが分立されなければなりませんでした。</div><div style="text-align: left;">結果的にこの責任を引き受けた偉大な母が、タマルでした。(真の父母経560ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">イエス様は、血統を清めた上で来ました。</div>双子の時代、すなわちエサウとヤコブを通して長子権を復帰し、タマルの腹中でペレヅとゼラの、歴史にない闘いを通して、ひっくり返すことによって、血統転換をしました。<div>歴史がすべてみせてくれたのです。</div><div><br />聖書は、本当に啓示的です。世界史、文化史、宗教史において欠かせない宝典です。<br />人類歴史に関する曲折の事情と秘密が、すべて含まれています。</div><div>それを解かなければなりません。</div><div>このようにして、血統を復帰しなければならないのです。<br />マリヤの腹中から生まれたイエス様は、サタン世界の血統が転換されています。<br />血統が転換された位置から来たのでイエス様の相対となり得る新婦も、血統転換歴史の過程を経なければなりません。</div><div>(同39ページ)<div><br /></div><div><br /></div><div><div>サタンはいつも、人間を自らの方へ引きずり込むため、人間の中に鉤が無いかと探しているのです。</div><div>普通の人間は、至る所に讒訴条件があるので、サタンはたやすくそれを見つけることができます。</div><div>しかしイエス様という人は、どこを探しても、サタンが引っ掛けることができる鉤を持っていない方でした。</div><div>だからイエス様はサタンの讒訴から完全に自由となって、神と一体化することができたのです。</div><div>イエス様がそのようにしてサタン世界を越えて、神と一つになったからこそ、神はイエス様を百パーセント用いることができたのです。</div><div><br /></div><div>それゆえに神はサタンに対して「サタンよ、お前は私の子イエスを十字架につけて殺したのだから、私は私でイエスを復活させるのだ」と堂々と主張することができました。</div><div>かくして神は、サタンに対して何の遠慮も無く、自分の力を行使して、イエス様を復活させることができました。</div><div>(み旨と世界552ページ 1977/04/18 ニューヨーク)</div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div></div></div>iyo_mizukihttp://www.blogger.com/profile/11025857562542866763noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6473942313637128241.post-41869531289024500002022-02-13T15:11:00.001-08:002022-05-31T21:40:53.819-07:00理想世界、絶対価値圏<div style="text-align: left;"> (注.以下に「服従」という言葉が出て来ますが、日本語での通常の意味とはちがっていて、「自らが我を忘れて、相手を大切に思って尽くす(仕える)」というような意味と理解するのがいいかと思います) </div><div style="text-align: left;"><br />子女として造られた人間が成長して完成し、神様から祝福結婚を受け、真の子女を繁殖し、真の永遠の理想天国を成し遂げて生きる姿を見て、喜びを感じようとしたのが神様の創造目的でした。</div><div style="text-align: left;"><br />愛の主人となる道は、まず相対のために自分を徹底的に犠牲にして投入する、そのような真の愛の実践を通して開かれるようになります。<br />神様は人間を創造されるときも、まず御自身が絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を立てて、100パーセント投入されたのです。相対圏を絶対価値圏として立てるのです。</div><div style="text-align: left;"><br />愛の主人は、独りでなるものではありません。</div><div style="text-align: left;">必ず対象を通して成立するものなのです。</div><div style="text-align: left;">この絶対的価値圏の愛の原理の前では、神様も同じなのです。<br />子女がいなければ、父母は永遠に愛の主人になれないように、神様御自身が絶対愛の主人の位置に立つためには、その相対圏である人間を、絶対愛の価値圏に立てなければならなかったのです。</div><div style="text-align: left;"><br />絶対主体と絶対対象の価値観が生まれて、初めて完成するのです。<br />宇宙の秩序を見れば、大きいからといって、小さいものを無条件に犠牲を強いて、摂取するようにはなっていません。<br />ヘレニズムに基づいた弱肉強食による適者生存の理論は、根本的に間違っています。<br />ために存在し、真の愛で投入して忘れる絶対服従の対象として、主体的愛の主人として完成させようという絶対価値観を、彼らは見落としているのです。</div><div style="text-align: left;"><br />真の愛を排除すれば、闘争概念だけが残るのです。<br />しかし、神様の「創造原理」は、闘争を通した生存と発展ではありません。</div><div style="text-align: left;">主体と対象の関係の中で相互に授受作用をしながら、絶対価値観に基づいて調和統一を追求するのです。</div><div style="text-align: left;">「小」が「大」のために犠牲になるとしても、それを闘争と見てはいけません。</div><div style="text-align: left;">相互発展のための投入と見なければならないのです。<br />個人は家庭のため、家庭は国家のため、そして国家は世界のために譲歩し、犠牲を甘受することが、どうして闘争と言えるでしょうか。</div><div style="text-align: left;"><br />このように、絶対的価値圏とは、まず相対を真の愛の主人格として立ててあげる真の愛を完成させるためのものです。<br />・・・・(中略)・・・・<br />「前」と「後」のことを考えてみてください。</div><div style="text-align: left;">「前」という言葉を語るそれ自体が、既に「後」を前提条件として認めているのであり、「上」という言葉も「下」を先に認めてこそ成立する言葉であり、「左」は「右」を前提とする言葉です。</div><div style="text-align: left;">同じ論理で、「男性」という言葉も「女性」という存在が先にあってこそ成立するものです。<br />すなわち、男性は女性のために生まれたのであり、女性は男性のために生まれたと言うことができます。</div><div style="text-align: left;">男性がいなければ、女性は必要ありません。</div><div style="text-align: left;">同じように女性がいなければ、男性は存在価値がないのです。<br />結局、自分のために生まれたものは一つもないということです。</div><div style="text-align: left;"><br />すべての存在物は、相対のために存在し作用するのです。<br />相対的関係によって理想郷に向かうように創造されたという意味です。<br />人間の五官について考えてみてください。</div><div style="text-align: left;">皆様の目は自分の目そのものを見るために出来ていますか。</div><div style="text-align: left;">目、鼻、耳、口、手、これらすべては相手のために生じました。<br />そうであれば、この五官を総動員し、生命を維持して活動を続けるようにする力は何でしょうか。</div><div style="text-align: left;">真の愛の価値観を完成させようとする力です。</div><div style="text-align: left;"><br />私たちの五官は、真の愛を実践するために必要なものとして生じた道具にすぎません。<br />このように、自分のためにできたものは一つもないのです。</div><div style="text-align: left;">相対のために与え、愛で犠牲となり、服従で愛の主人を完成させる生き方こそが、神様の創造理想にかなった生き方なのです。<br />相対のために創造されたのですから、当然のこととして、相対のために生きてあげなければならないのは天理なのです。</div><div style="text-align: left;">そこから真の愛の絶対価値が創出されるのです。</div><div style="text-align: left;">(平和経1114ページ)</div><p><br /></p><div style="text-align: left;">人間の生活の中で、ために生きる真の愛があらゆる相関関係の基本ですが、これは父母の真の愛を動機として体恤するものです。<br />神の真の愛を根とした父母の真の愛は、人間の個体を完成させるようになります。<br />完成した個体が真の愛の理想的な夫婦となった家庭において、彼らの子女に真の愛を伝授するようになるのが創造の秩序です。</div><div style="text-align: left;">地上の理想世界は、完全な一人から、真の愛による家庭、社会、国家、世界に拡大していきます。<br />現在の世界は、このような理想世界とは、その出発を異にした世界です。</div><div style="text-align: left;">神様の創造原則のうち、最も貴い真の愛の秩序から人間が離れた、堕落の結果が拡大してきた世界です。<br />神様の創造秩序を度外視したまま、人為的な組織形態や法則、秩序だけを重視する現在の世界は、理想的な個人、家庭、そして民族を養成することはできません。</div><div style="text-align: left;">(天聖経84ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"><br /></div><div><br /></div>iyo_mizukihttp://www.blogger.com/profile/11025857562542866763noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6473942313637128241.post-19009957774932492492022-02-07T16:44:00.004-08:002024-01-10T15:29:09.508-08:00堕落とは<div style="text-align: left;"> 男性は女性の、女性は男性のために生まれたのですが、自体自覚ではない他我自覚をして、自体自覚が再認定されれば、二人の所有権と勝利権が備わるのです。</div><div style="text-align: left;"><br />しかし、相対圏の二人の価値を融合させる前に、自体自覚をして行動に出てしまったのが堕落です。<br />なぜそれによって、神様がこのように手を付けられず、無力になったのでしょうか。</div><div style="text-align: left;">堕落と言うのが、なぜそれほどまでに深刻かというのです。<br />善悪の実を取って食べたのなら、なぜ下部を覆ったのですか。</div><div style="text-align: left;">血を汚したのです。血を汚したというのは生命を汚したということであり、生命を汚したというのは愛を汚したということです。<br />天地大道の神経器官になるべき人間が、未成年期に堕落しました。<br />・・・・(中略)・・・・<br />堕落は、自由意思によってではなく、自体自覚によって起きました。<br />環境的に与えられた条件を忘れ、自分だけを中心として自体自覚をしたのです。<br />全体が和動するのを無視し、全体の主体と対象の連帯的関係を無視してしまい、個別的関係において連帯関係を占領したので、盗賊だというのです。それがサタンです。</div><div style="text-align: left;"><br />創造理想の大宇宙の連帯的関係の愛の圏を、個人を中心として垣根を抜け出して支配したということは、神様までも無視してしまったということなのです。</div><div style="text-align: left;">(天聖経418ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"><div>エデンの園のアダムは、神様のひとり子です。エバは、神様のひとり娘です。彼らが成長し、春の日になって花が咲くとき、二人が互いに春の歌を歌いながら、「あなたは私のお兄さんではないですか」、「あなたは私の妹ではないですか」と言えば、神様はどの様にするでしょうか。明るく咲いた花が香りを漂わせるようになれば、神様が(二人を)結んでくださったでしょう。</div><div>神様が結婚式をしてあげることによって成し遂げようとしていた創造の最高の理想が、アダムとエバを中心として成し遂げられるのです。彼らがひとり子と一人娘としてよく育ち、思春期まで行こうとすれば、期間が必要なのです。</div><div>(真の父母経31ページ)</div></div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"><div>人類の真の父母にならなければならなかったアダムとエバが、思春期になる前に堕落してしまいました。言い換えれば、秋に良い実を結ぶために春に種を蒔いたのですが、これが秋まで行くことができず、夏に落ちてしまったというのです。堕落とは正に、このように途中で脱落したことを意味します。</div><div>・・・・(中略)・・・・</div><div>成熟した思春期を迎えていない未成年の時に堕落しました。霊肉が神様の愛と連結されていない未発達の時期に堕落したというのです。そのため、愛が分からずにいます。</div><div>いが栗はいが栗なのですが、中身のないいが栗の姿と同じなのです。(天聖経409ページ)</div><div><br /></div><div>人間始祖がエデンの園で犯した堕落の動機とは何でしょうか。自分を中心としたことです。</div><div>それで神様の息子の位置で息子になることができず、神様の娘の位置で娘になることができませんでした。</div><div>サタンの侵犯を受けたのです。そのために、すべて失ってしまいました。</div><div>侵犯されることを避ければ息子になり、娘になります。(天聖経457ページ)</div><div><br /></div><div>堕落とは血統が変わったことです。家庭がなくなってしまい、国がなくなってしまいました。</div></div><div>・・・・(中略)・・・・<br />サタンの血統が入ってきて、心臓から動脈、静脈がサタンの血によって動き、すべての細胞が使えなくなったのです。</div><div>血統がめちゃくちゃになったので、実体世界の歴史を知らない無知に陥り、悲惨になったのです。<br />エバは自分を中心として自覚をもちました。</div><div>未完成の圏内で、自分を中心として自覚して対処し、天宙をひっくり返して打ち込んでしまったため、その自覚を新たにしなければならないのです。</div><div>(同420ページ)<br /><br /><br />堕落とは血統を転換したことです。</div><div>血統が問題です。</div><div>神様は、変わってしまった血統をどうにもできません。<br />神様の体になり、神様の実体を中心とした父母の血肉を受けた直系の子女にならなければならないのに、恩讐に奪われ、神様が計画したすべてを失ってしまいました。<br />天の国や地上天国の理念を中心として、愛の柱が建てられなければならなかったですが、その柱がすべて崩れてしまったというのです。</div><div>(同421ページ)</div><div><br /></div><div><div>本来、創造理想の中で、愛は所有権を決定するようになっています。</div><div>したがって、一旦、愛の関係を結べば、その愛を中心とした主体と対象は、互いの所有権を持つようになるのが原理です。</div><div>このような原理的基準で、天使長が堕落して悪神になったサタンは、不倫の愛の因縁を通して、堕落人間に対する所有権を堂々と主張できるようになったのであり、人間の本当の父が神様でいらっしゃるのに、かえってサタンが父の振る舞いをしているのです。(平和経1550ページ)</div><div><br /></div><div>真の愛の属性は、自分より相対のために投入することだと言いました。</div><div>したがって、神様には、御自身の対象としてつくられた人間が、罪を犯して地獄で苦痛を受けるようになるという概念はあり得ません。</div><div>これはすべて人間の先祖が真の愛の理想に逆らって堕落することによって、後天的に生じた結果なのです。</div><div>本然の世界から追放された人間の先祖は、神様の真の愛の祝福の下で真の生命、真の血統の子女を持つことができませんでした。</div><div>人類は神様の真の愛、真の生命、真の血統とは関係のない存在として生まれるようになったのです。</div><div>したがって、人間は、生まれる時から宿命的に救い主と救援が必要な存在になりました。</div><div>救援は現状回復、すなわち復帰です。</div><div>人間が堕落する前の原状に戻り、失ってしまった神様との関係を回復するのです。</div><div>堕落人間は、必然的に蕩減復帰の道を行かなければなりません。</div><div>したがって、神様は、時代と場所に合わせて宗教を立て、人類を復帰する発展的な道に導いてこられたのです。(平和経273ページ)</div></div><div><br /></div><div><div>以下は先生の奥様が2002年8月10日、韓国で開催された大会の講演より抜粋したものです。</div><div><br /></div><div>本来、人間はエデンの園で、神様を中心として、永遠の自由と理想と平和を享受しながら暮らすように造られました。しかし、私たちの始祖であるアダムとエバの堕落により、そのような本然の世界が成し遂げられませんでした。堕落したその日から、この地上には苦痛と悲しみと悲運の歴史が始まりました。</div><div>真の愛と真の理念をもって生きるべき人間が、真の理念を持つことができず、真の愛が何であるか分からなくなってしまい、幸福な環境で暮らすべき人間が、幸福の園を失ってしまったのです。</div><div>自由と平和を謳歌し、ひいては創造主の前に心情で一つになった幸福のすべての要素をもって、栄光をお返しすべき人間とならなければなりませんでしたが、そのような人間になることができなかったのです。(平和経154ページ)</div><div><br /></div><div>一言でいうと、堕落とは、自己中心的自覚から始まりました。</div><div>今日、私たちの周辺で、堂々と我がもの顔で猛威を振るっている極度の利己主義的思考と行為が、正に私たちを堕落の道に追いやった元凶なのです。</div><div>他人の立場や境遇を考える前に、自らの利益や都合だけを追求する拙劣な行為、他人が死のうと死ぬまいと自分だけが生きようという破廉恥な姿は、みな堕落が引き起こした行為の片鱗なのです。</div><div>しかし、これは、創造当時に神様が計画された本来の目的ではありません。</div><div>・・・・(中略)・・・・</div><div>人間には誰しも本然の世界を指向する本心が残っているので、人類は歴史を通して神様が願われる世界を望み、指向してきたのであり、私たちのその希望は、行くまいとしても行かざるを得ない、困難であるとしてもかなえざるを得ない理想として残されたのです。</div><div>(平和経156ページ)</div></div><div><br /></div><div><div>終末である今日、利己的な個人主義が普遍的な生活様式になったことは、決して偶然ではありません。人々は日がたつにつれ、周囲からだんだんと疎外感を感じるようになり、自分の属する国家、社会、そして甚だしくは自分の家庭にさえ、さほど責任感を持たないようになっています。離婚率が日に日に増加しているという事実は、夫婦が互いに結婚に対する責任感を殆ど持ち合わせていないという証拠です。父母も子女に対してしかるべき責任をもちません。個人においても人間の尊厳性を失い、自分に対する責任すら取ろうとしません。</div><div>(平和経954ページ)</div></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div>iyo_mizukihttp://www.blogger.com/profile/11025857562542866763noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6473942313637128241.post-23832862178310778092022-02-03T18:16:00.006-08:002023-04-05T14:45:36.894-07:00超宗教、超教派運動<div style="text-align: left;"><div>(以下、先生の講話より)</div><div><br /></div><div>宗教の貴重な教えは、人類歴史を明らかにしてきた知恵の根本です。</div><div>ところが、宗教人たちは三つの弱点をもっています。</div><div><br /></div><div>第一に、彼らはとても来世的であり非現実的です。</div><div>第二に、彼らは偏狭的であり党派的です。</div><div>第三に、彼らは狂信的になりやすいのです。</div><div><br /></div><div>宗教指導者たちは、開かれた心で万人を包容しなければなりません。</div><div>すべての宗教人の真の責務は、人間の多くの境界線、さらには宗教自体の障壁までも乗り越えることです。</div><div>(平和経259ページ)</div></div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"> 私が知っている神様は、宗派主義者ではありません。</div><div style="text-align: left;">枝葉的な教理理論に縛られたお方ではありません。<br />私たちは、教義の文字や儀式の条件に融通性なく縛られる、神学的葛藤から早く抜け出し、神様と生きた交流を持たなければなりません。<br />信徒たちの信仰が蘇生し、各自の神霊が神様と交信する、純粋な宗教風土の造成が急がれていると思います。</div><div style="text-align: left;">(同424ページ)</div><p>私たちは、キリスト教徒たちに、「私たちは等しく、神様を父と信じているのは間違いないのではなではないか。</p><div style="text-align: left;">ぶどうの木ややまぶどうの木のように、枝が少し違うだけで、形は一緒ではないか」と言って、説得しなければなりません。<br />そのようになれば、私たちの教会は超教派運動もすることができ、宗教協議会の運動もすることができます。<br />このように、キリスト教と一つになって、宗教を信じない人々が神様を信じるように導かなければなりません。</div><div style="text-align: left;">(真の父母経1263ページ)</div><p>この地上には数多くの宗教があります。</p><div style="text-align: left;">人類が分散されているので、人類を収拾しようとすれば、自然と各民族に合った宗教が必要になります。<br />それぞれの歴史と環境、文化の背景と風習、習慣が異なるので、このような様々な形態を一つの目的に収拾するためには、数多くの宗派が無ければなりません。</div><div style="text-align: left;"><br />例えば、川を見ると、上流には数多くの支流があります。</div><div style="text-align: left;">この数多くの支流が降りてくれば降りてくるほど、互いに合流しながらその数が次第に減ってきて、結局は一つの川になって大海に入って行くのです。<br />同じように、数多くの宗教も一つの流れに合わさり、最後には神様を心の中に迎え、神様の愛を占領する所にとどまるようになるのです。</div><div style="text-align: left;"><br />宗教の目的は、ただ神様のみ旨の完成にあります。</div><div style="text-align: left;">宗教はそのために貢献しなければなりません。<br />数多くの宗教が善を語り、愛を語りますが、その善と愛は、国家や民族、宗教圏内にとどまるものではなく、これを超越して世界的基盤を越え、人類に向かう善と愛を論じるところまで連結されなければなりません。</div><div style="text-align: left;">(同1268ページ)</div><p>世界には、神様を唱える教派が多くあります。</p><div style="text-align: left;">しかし、教派圏内で唱える神様は、もはや必要ありません。<br />教派を超越して、全天地の中心として信じ、唱えることができ、全体に代わって神様を「私の父」と呼べる資格がある存在が集まってこそ、この地上に神様を迎えることができるのです。</div><div style="text-align: left;"><br />神様は、必ず地上に宗教を立てて世界の救援摂理をされるのですが、その宗教は世界性を帯びるようになります。<br />ですから一つの宗教を模索しなければなりません。</div><div style="text-align: left;">その宗教の教理には、一つの世界をつくるという内容がなければならないのです。・・・・(中略)・・・・<br />そこでは、自分に味方する人や自分の民族、自分の文化背景と一つになるだけでなく、自分と反対の内容をすべて吸収し、消化できる能力がなければなりません。<br />自分が好きな人とだけ一つになるのではないのです。</div><div style="text-align: left;">自分の恩讐は取り除いてしまい、自分の味方とだけ一つになるためのの主張ではなく、恩讐までも漏らさず、一つになろうという宗教の内容がなければなりません。<br />このような宗教を神様は願い、イエス・キリストもそのような宗教を目標にしてきたのです。</div><div style="text-align: left;">(同1259ページ)</div><p>昔は、自分の国を中心として生きればよかったのですが、今は国を越え、世界とともに生きなければならない時代です。</p><div style="text-align: left;">このことは、国を治める政治家だけでなく、宗教界でも問題になります。<br />四大聖人によって世界的な版図を備えた宗教圏でも、問題になっているのです。</div><div style="text-align: left;"><br />宗教も、自分の宗派的、あるいは地域的な文化背景を中心として進んではいけない時代になったので、宗教間において和解をしなければならないと考え、私は今まで数十年間、超教派運動と韓国宗教協議会の活動をしてきました。<br />今や、世界的に宗教連合体制を構成することができなければなりません。</div><div style="text-align: left;">(同1273ページ)</div><p>ユダヤ教とキリスト教とイスラームが一つになるのは、簡単なことではありません。</p><div style="text-align: left;">一つになろうとすれば、どのようにしなければならないのでしょうか。</div><div style="text-align: left;">イエス様、ムハンマド、ユダヤ教のモーセとアブラハムよりも、さらに大きな愛の心、父母の心情をもって耐えることができなければなりません。</div><div style="text-align: left;">そのように耐えられるか、という問題が重要です。</div><div style="text-align: left;"><br />あとから、「ムハンマドも愛し、イスラームも愛した。イエス様も愛し、キリスト教も愛した。モーセも愛し、イスラエルも愛した」と言うことのできる結果的存在が出てこなければなりません。<br />1990年8月16日、第二回「世界宗教議会」を開催しましたが、私はいったい何ゆえに宗教議会をつくり、宗教界に問題を起こすのでしょうか。</div><div style="text-align: left;">一つの教派でも一つになれないのに、超教派的な面で一つにしようとするのは正気を失った話です。</div><div style="text-align: left;">いくら統一教会の責任者としてそのように歩んでいるといっても、世界に散らばっている統一教会の人々が、そのようにできるのかというのです。</div><div style="text-align: left;">ですから、それを教えてあげなければなりません。</div><div style="text-align: left;">(同1278ページ)</div><p>私は、1981年に「神様会議」を始めました。</p><div style="text-align: left;">「神様会議」というタイトルを中心として、神様について自身のある人はみな来て、話をしなさいというのです。</div><div style="text-align: left;">仏教、儒教、イスラーム、ヒンドゥー教、ユダヤ教など、全体が集まって、神様についてすべて話してみなさいというのです。</div><div style="text-align: left;"><br />神様の摂理完成の道は、宗教を超越してこそ行くことができると分かったので、「神様会議」をするのです。<br />宗教界が通じ合うことのできる穴を開けようというのです。</div><div style="text-align: left;">超宗教的な立場で壁を取り壊さなければなりません。</div><div style="text-align: left;"><br />超宗教、超教団的な基準を連結させ、世の中を救うための神様の摂理完成を期することができる終着点に向かって、一つの道に前進するためには、これが必ず経なければならない過程であることが分かりました。<br />また、私がいくら愚かだと批判されても、神様のみ旨の中で誰かがこの道を開拓しなければならないということが分かったので、莫大な犠牲を覚悟して開拓して来ました。<br />そのようにしたところ、今や宗教界でも私が有名になったのです。</div><div style="text-align: left;">(同1279ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"><br /></div>iyo_mizukihttp://www.blogger.com/profile/11025857562542866763noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6473942313637128241.post-37532958093735862362022-02-02T15:05:00.004-08:002024-01-24T14:50:21.093-08:00堕落しなかったら<div style="text-align: left;">堕落していない本然の人間は、神様の聖殿になります。<br />アダムとエバが堕落していない先祖になったとすれば、その心の中には神様が共にいらっしゃるのです。<br />・・・・(中略)・・・・<br />イエス様も、「私は父の中におり、父は私の中にいる」と言いました。<br />(天聖経374ページ)</div><div style="text-align: left;"><br />アダムとエバが善悪の実をとって食べずに堕落しなければ、どのようになっていたでしょうか。<br />神様の圏内で結婚して神様の愛を受け継ぎ、神様の生命と血統を受け継いで直系の子女になっていたのです。<br />このような人々には救世主が必要ありません。修養が必要ありません。<br />直系の子女は心が一つになっているので、神様のように全て通じるようになっています。<br />一体になってすべて通じます。<br />(同115ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"><div>人間は、堕落していなければ、神様が分かるようになっています。心で分かるのです。世の中が何と言おうと、自分がどこに行くべきかが、自然に分かるというのです。体は自然に心と一つになるようになっているのであって、心と体が闘うようにはなっていません。堕落したので、角度が合わないのです。</div><div>この角度を合わせようとするので、宗教世界では必ず体を打ちなさいというのです。</div><div>(真の父母経49ページ)</div><div><br /></div></div><div style="text-align: left;">堕落していないアダムとエバは、人類の真の先祖です。</div><div style="text-align: left;">真の父と真の母です。<br />体をまとった人類の真の父母です。<br />そのアダムとエバが堕落したため、人類がサタンの子孫になったのです。<br />アダムとエバが堕落せずに、本然の神様の心情に通じて、神様が喜ばれる中で、善男善女として聖婚式を執り行い、人類の真の父母になったとすれば、万物はアダム、エバと和動しながら、喜んでその家庭に必要とされるものになったでしょう。<br />(真の父母経25ページ)</div><div style="text-align: left;"><br />アダムとエバが人類の真の先祖になっていれば、救い主も必要無く、宗教も必要ありません。<br />宗教が必要ない善なる世界は、神様が喜ばれる世界です。<br />神様は、地上にそのような世界がつくられることを願われるのですが、地上にそのような世界はつくられませんでした。</div><div style="text-align: left;">(同29ページ)</div><div style="text-align: left;"><br />人間は、神様の真の愛の対象となるように創造されたのです。<br />神様は人間を御自身の息子として創造したというのです。<br />ですから、神様は私たち人間の真の父母です。<br />神様が最初の男性であるアダムと最初の女性であるエバが、真の愛を中心として純潔なままで成長することを願われました。<br />神様は、アダムとエバが真の人となることを望まれました。<br />神様はこのように美しく奥妙な自然世界を、すべての生命が成長できる環境として創造されました。<br />そして人間は、このような環境の中で成長したのです。<br />しかし、神様の主な関心は、人間の内的な人格の成長にありました。<br />真の愛を経験することにおいて、神様は私たち人間が、神様の真の愛を体恤し、完全な存在に成長するよう計画されたのです。<br />そして、神様は愛の力をいかなる力よりも強く創造されました。<br />天の愛と法度の領域の中で、人間をして真の愛の力を経験させることによって、私たち人間が父母であられる神様にだんだんと似ていくのです。<br />無限な真の愛を所有するために、私たちはまず責任意識を学ばなければなりません。<br />人間が真の愛を通して神様と一つとなったとき、人間は、神様に似た完全な人格体として、真の愛の完全な実体となることができるのです。<br />そのような意味から、神様は人間の幸福の本質と生命であり、理想であるということができます。<br />アダムとエバは、神様の愛の中で成長し、真の個人となり、真の夫と真の妻となって子女を養育することで真の父母になるようになっていました。<br />人生の成長段階を通し、人間は徐々に神様の愛を経験します。<br />個人は、父母の愛を通して子女の心情を知り、兄弟姉妹の愛を通して兄弟姉妹の心情を、配偶者を通して夫と妻の心情を、そして子女に対する愛を通して父母の心情を知るようになります。<br />家庭は、このような四大愛と心情圏を確立する基盤になるのです。<br />家庭は、愛と幸福、生命、そして血統の基盤です。<br />私たちは家庭以外の如何なるところにおいても、このような四大愛と心情圏を経験することはできません。<br />私たち人間は、実際的な経験を通してのみ愛を知るようになります。<br />個人、家庭、社会、そして環境の真の完成は、家庭の中における真の愛の実現に基づいています。<br />(平和経1380ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"><div>人類が堕落せずに本性の善の父母を通して生まれていれば、「神様がいるかいないか」という論争は必要なかったはずです。赤ん坊がおなかの中でお乳を飲む方法を学んで出てくるのではないのと同じように、人間の先祖の堕落がなかったならば、人間は誰でも自動的に神様を父として侍って暮らすようになっていたのです。</div><div>人間の先祖としてつくられたアダムとエバを、神様御自身の実体として立てるために、神様の男性性稟はアダムの心のなかに、そして女性性稟はエバの心のなかに定着して永生するようになっていたのです。</div><div>・・・・(中略)・・・・</div><div>しかし、堕落によって人類は、すべてのものを失ってしまいました。</div><div>忘却の世界へ落ちて、神様がいるかいないかさえも分からない青盲の人になったのです。人類史上、これより悲惨な事件がどこにあるでしょうか。</div><div>もし神様に似た人間の先祖アダムとエバが堕落せずに成長し、完成して人類の父母の位置を確保していたならば、人類は、彼らの姿を通して生きていらっしゃる神様の実在をいつでも認知できたはずです。</div><div>そして、「神様はいる」、「神様はいない」という論争は考えることもできなかったはずです。神様は、人類の真の父母として、永遠に私たちと苦楽をともにされたことでしょう。神様は、私たちの生の中心であり、根になっていたはずです。</div><div>私たちが生活の中で、五官を通して直接神様を感じ、神様の実在を知るようになって、初めて本当に神様を知っているということになるのです。言い換えれば、神様の実在を体恤しなければならないということです。</div><div>このように、神様の実在を私たちの生活の中で直接体恤して生きるようになれば、私たちは、自動的に神様のみ旨とは何かをその一瞬一瞬で感じ、自ら進んですべてのことに臨むようになり、罪を犯そうとしても犯せない完成した人間の姿になるはずです。</div><div>そのようになっていれば、無形でいらっしゃる神様は、人間の実体をもって主人的人格と形体を備え、有形世界である地上界の万物万象はもちろん、霊界までも主管されるようになっているのです。</div><div>このように、神様をはっきりと知ることは、人間の生涯において最も優先的で重要なことなのです。</div><div>(平和経283ページ)</div></div><div><div><br /></div></div>iyo_mizukihttp://www.blogger.com/profile/11025857562542866763noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6473942313637128241.post-14527112731593241092022-01-31T17:47:00.001-08:002022-05-31T21:55:28.342-07:00堕落の結果・・・・心と体<div style="text-align: left;"> 皆様は、私たち一人一人の体の中で、常に戦争が続いていることをご存知でしょうか。</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">それは個々人の体の中における心と体の熾烈な闘いです。<br />本来、心と体は切り離そうにも切り離すことのできない、一つのものでした。</div><div style="text-align: left;">人間の心は神様の心であり、人間の体はその心を入れる器でした。</div><div style="text-align: left;"><br />ところが、人間の堕落は人間の体を悪魔に引き渡したのです。</div><div style="text-align: left;">その時から人間の体は悪魔の僕になりました。</div><div style="text-align: left;"><br />人間の良心は、神様を代表する心です。</div><div style="text-align: left;">良心は自分のために存在しません。天の義のために存在します。</div><div style="text-align: left;">良心は常に善に向かって走ろうとします。</div><div style="text-align: left;"><br />それに対して体は反抗します。</div><div style="text-align: left;">体は自分だけが安らかであろうとし、利己的であり、本能的欲求に従って肉欲のままに行おうとします。<br />良心はこの体を叱責し、心に従わせようとします。</div><div style="text-align: left;">・・・・(中略)・・・・</div><div style="text-align: left;">ですから、昔から歴史を通じて、すべての宗教は自分の体を打つ道を教えてきました。<br />(平和経1359ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">私たちには体と心があります。</div><div style="text-align: left;">その体と心が一つになったときは苦痛を感じません。<br />体と心が一つになっていないとき、苦痛を感じるのです。</div><div style="text-align: left;">(天聖経379ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">私たち人間は、人生を生きる間、自分に最も近く、天下を与えても変えることのできない主人がいるにもかかわらず、知らずに罪に捕らわれて生きる哀れな群れだということを知らなければなりません。</div><div style="text-align: left;"><br />その主人は正に自分の良心です。</div><div style="text-align: left;">この良心がどれほど皆様のために忠告し、疲れることも知らずに昼も夜も、悪い考えをすれば「おい、こいつ!」と言って引っ張り、峠を越え、川を渡るために、どれほど気をもんだことでしょうか。</div><div style="text-align: left;"><br />真の主人の姿をもって私を保護しようとする心を裏切ったこの体、</div><div style="text-align: left;">・・・・(中略)・・・・</div><div style="text-align: left;">心と体が一つにならなければなりません。</div><div style="text-align: left;">(平和経1229ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">創造本然の人間は、その心と体に神様の真の愛を備え、それにそのまま感応しながら生活するようになっています。<br />言い換えれば、心は真の愛を中心として神様に感応し、体はその心に自動的に共鳴するのです。</div><div style="text-align: left;"><br />心と体が闘うことのない真の統一の起源は、神様の真の愛をそのまま受け継いで体感するところにあります。<br />心と体が統一体になる人間の理想は、神様の真の愛を完全に所有する時に成し遂げられるのです。</div><div style="text-align: left;"><br />心と体が真の愛を中心として統一されるところから、真の自由と平和の理想が出発できるようになります。<br />そして、心と体が統一された基盤の上で、自由で平和な個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を成し遂げることができるのです。<br />ですから、世界と国家の中においてではなく、個人の心と体の間において平和の基点を探さなければなりません。</div><div style="text-align: left;">(同470ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">真の愛の共鳴圏に入れば、天と地がはっきりと見えるようになります。<br />釈迦が「天上天下唯我独尊」と言ったその言葉も、その共鳴圏の核心に入ってみると、天下がすべて自分の手中に入っており、神様が自分の中におられ、天理が自分と共に連結されているので、そのような言葉を言うことができたのです。<br />真の愛の共鳴圏に入るようになれば、信仰も必要無く、救世主も必要ありません。</div><div style="text-align: left;">(同1234ページ)</div><p><br /></p><p><br /></p>iyo_mizukihttp://www.blogger.com/profile/11025857562542866763noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6473942313637128241.post-42046501206414801682022-01-23T15:46:00.006-08:002023-08-01T16:49:02.143-07:00霊界<div style="text-align: left;">人間は、地上界で百年くらい生きて肉身の役割が終われば、自然に、そして自動的に無形世界の霊界に入って行くようになっているのです。</div><div style="text-align: left;">このように霊界は、肉身を土台として生きている私たちの目では見ることができないだけであって、地上生活の自動的で必然的な延長です。</div><div style="text-align: left;">神様が創造して下さった、人間の永遠の本郷なのです。</div><div style="text-align: left;">(平和経1571ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"> 霊界は、いくら優秀で、いくら立派な知識人がいるとしても、彼が持っている知識を一週間以内に凌駕できる直観の世界です。<br />心の光を通じて見るので、そこに関連している世界は自動的に理解されるのです。<br />それは心情を通して見れば、「私」と相対的関係を持ち、主体的関係をもつようになるからです。(天聖経722ページ)</div><p>(iyo)上記は、アニメ「もののけ姫」の一場面を思い出すような内容です。たしか、「オコトヌシ」 というイノシシの頭領が、相手(アシタカ)の経験してきた記録を一瞬で吸い上げる場面がありました。</p><div>霊界を知らなければなりません。</div><div style="text-align: left;">何千年前の先祖たちが霊界に行って何をしているかを知るようになれば、どうなるのでしょうか。<br />必然的にその運命に引っ張られて行かざるを得ないことをはっきりと知ることによって、この地上の難しい問題も越えていくことができます。<br />(同721ページ)</div><p><br /></p><div style="text-align: left;">腹中時代から、母親のおなかの中から出てくるとき、自分が暮らしていた所帯道具を抱えて出てきますか。</div><div style="text-align: left;">すべて破壊し、捨てて出てきますか。</div><div style="text-align: left;">一つでもぶら下げて出てくれば大変なことになります。</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">へその緒で食べ生きていたのですが、それを切ってしまえば死ぬようになります。<br />しかし、母親のおなかの中から出てくれば、それを切ってしまわなければなりません。</div><div style="text-align: left;">無慈悲に切ってしまわなければならないのです。</div><div style="text-align: left;">すべて破壊して出て来るのです。</div><div style="text-align: left;"><br />人間は、時になれば誰でも母親の腹中での生活を清算して、地上界での生涯を始めるようになっています。</div><div style="text-align: left;">本人が願おうと願うまいと、宇宙の法則がそのように運行しています。</div><div style="text-align: left;">想像もできず、夢にも見ることができなかった広大無辺の新しい世界が拡がるのです。</div><div style="text-align: left;">水中生活の一生涯が終わり、地上生活の一生涯が展開します。</div><div style="text-align: left;">腹中生活の十か月が地上生活の百年に変わり、発展するのです。</div><div style="text-align: left;"><br />そして人間は、色とりどりの変化無双な生涯を生きていきながら、最終段階である霊界、すなわち死後の世界のために準備する生活を送るようになります。</div><div style="text-align: left;">ですから、死ぬことを心配してはいけないというのです。</div><div style="text-align: left;">もっと良い所に引越しするのです。</div><div style="text-align: left;">(同698ページ)</div><p><br /></p><p>地上での百年は、つかの間です。この世の中で生きる堕落した人々は、この世が一番だと思って生きています。何も知りません。それは腹中から生まれていない胎児と同じです。(同730ページ)</p><p><br /></p><div style="text-align: left;">人間の一生は短いのです。<br />生涯において十年がいつ過ぎたのか分からないのです。<br />結婚して三十年以内に、すべての物が決定します。<br />ですから、人生の道はいつも待っていません。忙しいのです。<br />そして、一度はみな死ななければなりません。<br />死なない自信がありますか。<br />死ななければなりません。<br />死ねば霊界に行きます。<br />この世は束の間です。<br />十か月の腹中生活と同じなのです。<br />(同700ページ)</div><p><br /></p><div style="text-align: left;">霊界と地上世界は、断絶された別の世界ではありません、一つの根本の存在原理のもとで相互交流し、授受する関係にあります。<br />私たちの教会も、本来、神霊を通じて統一する神霊協会として出発しました。<br />神霊とは何ですか。<br />一時的、配分的な霊力や霊的作用のことをいうのではありません。<br />真の愛を中心として霊界と人間世界が調和し、共鳴することができる神様の愛の力です。<br />ために生きて投入する真の愛の生活を通じて、人の心に感動を与えることはもちろん、霊的世界の協力も得る運動が、統一教会の運動です。<br />(同792ページ)</div><p><br /></p><div style="text-align: left;">天国は一人では入れません。<br />人間の先祖が思春期を過ぎて、神様を中心とした愛の理想を完成して生活し、真の愛の種を残して父母になって先に入るべきところが天国です。<br />ところが、まだ神様の愛を中心として、この地に愛の種を残した父母が無く、そのような子孫を残した基盤を形成できなかったがゆえに、天国は空いているのです。<br />(同723ページ)</div><p><br /></p><div style="text-align: left;">霊界は愛の空気で出来ていますが、皆さんの霊人体が準備できずに天国に入っていけば、息ができません。<br />地上世界は空気で出来ていますが、あの世は愛の世界です。<br />皆さんの霊人体が愛を感じられるように準備しなければなりません。<br />そのようにできずに霊界に行けば、関係を結ぶことができません。<br />問題が大きくなります<br />。何千万年もかかるのです。<br />・・・・(中略)・・・・<br />地上で愛を呼吸する人は、死んでいるのではなく、生きているのです。<br />・・・・(中略)・・・・<br />ご飯だけ食べていてはいけません。<br />この期間に何を満たさなければなりませんか。<br />この期間には、新しい愛の人格を形成しなければなりません。<br />(同700ページ)</div><p><br /></p><div style="text-align: left;">本然の世界に基づいて、私たちが生まれ、生きてから、行くべきところはどこでしょうか。<br />これがはっきりしていません。</div><div style="text-align: left;">ですから一般の人たちは、霊界があるのかないのか、神様がいるのかいないのか、分からずにいるのです。</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">しかし「統一原理」を学んだ人たちは、霊界が確実にあることを知っています。<br />信じているだけではなく、知っているのです。</div><div style="text-align: left;">なぜでしょうか。</div><div style="text-align: left;">多くの体験を通じて知るのです。</div><div style="text-align: left;"><br /><div>今日、統一教会が世界的な基盤を形成するに至った背後を調べてみる時、多くの体験過程を経てきたというのです。</div><div>・・・・(中略)・・・・</div><div>ある人は、「神様がいるとしても私たちとは関係ない」と思うかもしれませんが、それは誤った考えです。</div><div><br /></div><div>「霊界があるとしても私とは関係ない」と言うのは、まるで「私は家庭の一員であって、国は必要無く、世界も必要ない」というのと同じです。</div><div>・・・・(中略)・・・・</div><div>使徒パウロが霊界の第三の天(コリント2-12-2)を見て体験したことが、彼にとって根気強く宣教活動を続けることができた原動力になりました。</div><div>(平和経703ページ)</div><div><br /></div><div><br /></div></div>iyo_mizukihttp://www.blogger.com/profile/11025857562542866763noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6473942313637128241.post-53325540600426279732022-01-20T20:17:00.005-08:002023-10-31T23:27:20.239-07:00家庭は幸福の基地<div style="text-align: left;"> 人にとって幸せな環境とは、どのようなものでしょうか。</div><div style="text-align: left;">幸せな環境にある人とは、父母の愛を受けられる立場に立った人です。</div><div style="text-align: left;">その次には、夫婦の愛を互いに授け受けできる立場に立った人です。</div><div style="text-align: left;">その次には、子女を愛せる立場に立った人です。</div><div style="text-align: left;">その次には、兄弟の愛が分かる立場に立った人です。</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">そのような内容が分かってこそ、国家と世界を発展させることができます。</div><div style="text-align: left;">したがって、幸福の母体になることができるのは、完全な家庭の円満な父母と夫婦、そして子女を中心とした愛の基盤なのです。</div><div style="text-align: left;"><br />私たちは、家が絶対的に必要です。</div><div style="text-align: left;">完全な幸福の根拠地である家を離れては、国も、世界も、いかなる目的も成立しません。</div><div style="text-align: left;">私たちは、神様が望む家を中心とした父母、夫婦、兄弟にならなければなりません。</div><div style="text-align: left;">幸福の要因や願望の要因も、家を中心として国家と世界に広がっていきます。</div><div style="text-align: left;">神様が望む出発点と決着点は家庭です。</div><div style="text-align: left;"><br />しかし、私たちは神様が理想とする家を築くことができませんでした。</div><div style="text-align: left;">むしろ破滅と不幸に近づいているのが、私たちが暮らしている家だというのです。</div><div style="text-align: left;">最高の幸福の根拠地である家が絶望の根拠地になり、不信の根拠地になるとは誰も知りませんでした。</div><div style="text-align: left;">神様は、これを蕩減復帰するために、今まで役事(働き)してきました。</div><div style="text-align: left;">そのような家庭的な不幸は、アダムとカインの時から始まったのです。</div><div style="text-align: left;">(天聖経499ページ)</div><p>ある人は、「会社に行っても愛を探すことができる」と言うかもしれませんが、違います。会社は物質を通して利益を得ようと連結されたところです。</p><div style="text-align: left;">また、政治の分野は、人同士が自分の権益を得るところです。</div><div style="text-align: left;">そして、宗教も、神様を見出すありとあらゆる方法があり、それぞれの宗教で異なる方法があります。</div><div style="text-align: left;">それで神様を見出すことは出来ますが、愛は見いだせません。</div><div style="text-align: left;">真の愛は家庭で探さなければならないのです。</div><div style="text-align: left;"><br />いくら会社に出て行ってお金をたくさん稼いでうまくいったとしても、愛する家庭のない人は不幸な人です。</div><div style="text-align: left;">また、いくら政治の分野に進出して大統領になったり、国会議員になったりしたとしても、帰ってきて愛することのできる愛の家庭がなくなるときには、不幸な人です。</div><div style="text-align: left;">(同500ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">人間の生活において、ある人を幸せな人だというとき、何を基準として幸せだと言うのですか。</div><div style="text-align: left;">外的な能力、権勢、権威をもっているからといって、幸せな人だと言うことはできません。何不自由ないほどお金があるといって幸せな人ですか。</div><div style="text-align: left;">違います。</div><div style="text-align: left;">世界的な知識を有していて、世界を意のままにできる位置にあるからといって、彼が幸せな人になることができますか。</div><div style="text-align: left;">決してそれだけで人が幸せなのではありません。</div><div style="text-align: left;">この地のすべての人間が、幸福の根拠地は家庭だと一般的に感じ、体験し、認めながらも、いまだに幸せな家庭の基準をもつことができずにいます。</div><div style="text-align: left;">ですから問題は家庭です。</div><div style="text-align: left;">(同501ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">天国は「私」が父母を愛するように、年を取った人々を愛することができる世界、兄弟を愛するように世界の人類を愛する世界、そして、夫婦同士で愛し合うように自分と同年配の人々を愛する世界です。</div><div style="text-align: left;">家庭的な心情を中心とした、大宇宙的な人格観を中心として生きる世界です。<br />そのような人々の家庭が全体化した社会的形体が、天国社会だというのです。<br />天国は、私の家庭を拡大した世界、私の兄弟を拡大した世界なのです。<br />(同502ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">家庭は、天国に行くことのできる訓練所です。</div><div style="text-align: left;">修練所だというのです。</div><div style="text-align: left;">世界には、祖父や祖母のような人々も暮らしています。</div><div style="text-align: left;">家庭を拡大すれば、世界と全く同じなのです。</div><div style="text-align: left;">父母の年代、夫や妻の年代、息子、娘の年代を拡大したのが世界の人類です。</div><div style="text-align: left;">ですから、家庭で訓練されたことを四方に拡大させて、ために生きる愛をもって生きる人は、天国に行くことができます。</div><div style="text-align: left;">家庭は、天国に直行できるようにする修練所なのです。</div><div style="text-align: left;">(同504ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"><div>人間は成長期間を通して、神様の愛を段階的に体得します。</div><div>生活の中の経験を通して、父母の愛、夫婦の愛、兄弟の愛、子女の愛を順次的に体得するようになっているのです。</div><div>この四種類の愛と心情がとどまる基台が家庭なので、家庭は人間の愛と幸福、そして生命と血統の基地になるのです。</div><div>このように、真の愛の家庭は、人間の願いであると同時に、神様の創造目的の根本でもあります。</div><div>人間の個体や家庭、そして社会や環境の真の完成は、家庭の中で真の愛の具現にその根を置いています。</div><div>(平和経477ページ)</div><div><br /></div><div><div>皆様。家庭はなぜ良いのでしょうか。それは父母の愛を中心として、本然の自由活動の基地になっているからです。見た目はいくらみすぼらしくとも、輝く真の愛の核をもつ心情で結ばれた人間で構成される本然の家庭となるとき、そこにおいて人間はもちろん、神様までもが真の自由を感じられるのです。愛が欠如した自由は、真の自由ではありません。私たちがある家に客として行ったときに不自由さを感じるのは、まだその家と深い愛の関係を結ぶことができていないからです。すなわち、愛の関係が四方性を備えることができずにいるので、ぎこちなく不自由なのです。</div><div>それでは、本然の家庭で最高、最上の価値は何でしょうか。それは本然の父母です。本然の父母は、なぜ素晴らしいのでしょうか。永遠の愛の主体だからです。愛を中心として一生の関係を結ぶことができる最も近い場所にいらっしゃる方が、正に本然の父母なのです。私たちが生まれて最初に、喜びを交わし合う相手が本然の父母です。したがって、本然の父母は、私たちの喜びの主体であり、また対象でもあるのです。</div><div>私たちが喜ぶとき、最初に喜んで下さり、私たちが悲しいときも、誰よりもさきに悲しみの涙を流す方が本然の父母です。ですから、ふぼのない子女を孤児と呼び、孤児はかわいそうな人として扱われるのです。次に、愛する夫と妻が本然の家庭で最も善い価値的存在となるのです。</div><div>夫と妻は条件的な愛ではなく、無条件的な本然の愛を交わす夫婦でなければなりません。たとえ初めから、天が与えた絶対的で永遠な次元の愛の関係で始まった愛ではなかったとしても、夫婦という絶対的次元の関係を土台とした相対関係で結ばれた本然の愛になれば、その愛こそが家庭に幸福と喜びを抱かせてくれる根幹となるのです。しかし、このような理想的な本然の夫婦関係が、夫婦関係それ自体だけで終わってしまったら、絶対的価値を内包した永遠な幸福と喜びにはなり得ません。夫婦の前には、必ず本然の子女がいなければならないということです。夫婦二人だけで子女を生まず、幸福に暮らそうとしてみてください。そうすれば人類は二代を越える前に滅亡してしまうでしょう。本然の子女から返ってくる愛を受けて暮らすことができてこそ、真の夫婦が本然の父母の位置まで上がるようになるのです。</div><div>その次に貴く重要なものが、本然の父母のための子女の愛です。絶望ではなく、あすの希望として芽生える理想的な環境を慕いながら、明るく肯定的な姿勢で、子女が本然の父母のために犠牲となり、愛することができたとすれば、その愛は、家庭の幸福のための、純粋で真実な価値としての本然の愛となるのです。</div><div>このように本然の家庭で三代圏を形成し、本然の父母の、子女のための犠牲的な本然の愛と本然の夫婦間の真の愛、そして本然の子女による、本然の父母のための真の愛が完璧に備わった本然の家庭があるとするならば、その本然の家庭は、人間世界で最も理想的な真の家庭となるのです。(平和経1117ページ)</div></div><div><br /></div><div>家庭というものは、人類愛を学び教える学校です。</div><div>父母の温かい愛を受けて育った子供は、外に出て行けば、家で学んだとおりに、困っている人を愛の心で助けるでしょう。</div><div>また、兄弟姉妹の間で情け深い愛を分かち合って育った子供は、社会に出て隣人と厚い情を分かち合って生きて行くでしょう。</div><div>愛で養育された人は、世の中のどんな人でも家族のように思うものです。</div><div>(真の父母経233ページ)</div><div><br /></div><div>皆様。共に生きる生活の典型は家庭です。</div><div>父母と子女は愛と尊敬で、夫婦は相互信頼と愛を土台として、兄弟姉妹はお互いに信じて助け合いながら、一つになって暮らす家庭の姿が、正にモデル的理想家庭なのです。</div><div>真の愛の根に、真の愛の幹が生じて、真の愛の実を結ばせる、真の家庭を取り戻さなければならないと言うことです。</div><div>そのような家庭には、歴史の根が生きており、天国の根が張っているのです。</div><div>地上天国の根が張っている所が、そのような家庭です。</div><div>永遠に継続する王権の根も、ここに定着するのです。</div><div>・・・・(中略)・・・・</div><div>神様も、どこかへ外出しても懐かしく思って、再び訪ねて来られる家庭を築きなさいというのです。</div><div>父母が子女の家を訪ねるように、喜びの心で気楽に訪ねられる過程を準備しなさいということです。</div><div>それが、正に神様に侍って暮らす生活です。</div><div>(平和経1579ページ)</div><div><br /></div><div><div>以下は、平和という観点から、第九回「科学の統一に関する国際会議」での学者たちを相手にしての講話です。(1980/11/27 マイアミのヒルトンホテルにて)</div><div><br /></div><div>平和は、世界的段階に限って求められるものではなく、国家や社会、または家庭の段階においても願われています。</div><div>さらには、個人においても心と体の平和を渇望しています。このような平和に対する様々な段階のうちで、最初に成し遂げられなければならないものはどれでしょうか。</div><div>先に世界平和が成し遂げられるならば、その基盤の上に国家、社会、家庭、そして最終的には個人の平和も成し遂げられるだろうと考えがちです。しかし、これは誤った見解です。</div><div>それは、実際に平和を成し遂げるために必要な順序とは反対です。ですから、先に個人的な平和が実現されなければなりません。その次に、家庭の平和が成し遂げられ、そのような基盤の上に、社会と国家、そして世界といった、それぞれの平和を期待することができるのです。これは個人が家庭の基本単位であり、家庭は社会と国家の基本単位だからです。</div><div>多くの指導者たちは、優れた組織と立派な思想を通して、社会秩序と世界平和を回復することができると信じています。しかし、現実において、ただ単にこのような二つの手段だけでは、人類平和は絶対に実現されません。</div><div>国連のような国際機構と共産主義や民主主義などのような思想体系は、それぞれ独自の方法で世界平和を実現するために努力して来ました。しかし、平和はまだはるかに遠く、世界は時間が経つにつれ、ますます混乱状態に陥っていくのです。(平和経738ページ)</div></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div></div>iyo_mizukihttp://www.blogger.com/profile/11025857562542866763noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-6473942313637128241.post-7033632302555691272022-01-17T16:10:00.003-08:002022-05-31T22:19:52.669-07:00神様の存在<div style="text-align: left;"><div>磁石にはプラス極とマイナス極がありますが、その極の間に絶縁体や紙のような妨げとなる物質があれば、それを貫いて作用します。</div><div>それがだんだん厚くなれば、作用はだんだんと鈍くなります。</div><div>さらに厚くしておけば、作用しないように見えるのです。しかし、作用はしているというのです。</div><div><br /></div><div>それと同じように、人間が堕落したために神様と人間の間に何かが挟まっています。</div><div>これが全て塞がったように見えるのですが、良心はそこに向かっていつでも作用するのです。</div><div>これを開け放つ日には、その作用が強くなるのです。</div><div>その間の絶縁体を1つ1つ取り除いてしまえば、だんだんと強くなるのです。</div><div>それを全て取り除いた時には、完全に通じてしまいます。</div><div>学ばなくても、全て分かるようになるというのです。</div><div>(天聖経457ページ)</div></div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"> </div><div style="text-align: left;">神様は「私」が存在する前にいらっしゃったのであり、私が考える前にいらっしゃったのであり、私のすべての感覚、私の一切を主管するお方です。</div><div style="text-align: left;">それを認識することが何よりも重要な問題です。<br />知って認識するのが原則ではありません。</div><div style="text-align: left;">認識して知るようになっているのです。<br />寒ければ寒いことを知って感じるのではなく、寒いことを感じて知るのです。<br />これと同じように、神様がいらっしゃるとすれば、神様がいらっしゃることを感じなければなりません。</div><div style="text-align: left;">細胞で感じなければなりません。</div><div style="text-align: left;">その境地が問題です。</div><div style="text-align: left;">(同23ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;">皆さんは、漠然と、観念的にのみ神様の実存を認識してはいけません。<br />論理的な面でのみ神様の実存を認識しようとすれば、無理があります。<br />なぜなら、論理圏内だけにとどまる神様ではないからです。<br />(同24ページ)</div><p>私たちの周囲において、私たちも知らないうちに繰り広げられている天下の万象が、神様の愛と共に存在するものであるという事実を知りませんでした。</p><div style="text-align: left;">神霊的な境地に入ってみると、小さな砂一粒にも宇宙の道理が入っていて、一つの原子にも無尽蔵の宇宙の調和が入っていることが分かります。<br />存在するすべてのものをよく知ることはできませんが、ある複合的な力を通して現れた結果であることは否定することができません。</div><div style="text-align: left;">分子を越えて原子、原子を越えて素粒子のようなものは、無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的をもって存在するのです。<br />したがって、存在するすべてのものは、神様の愛のみ手を通って出て来たものであり、必ず神様と心情的な関係を結んで存在しているというのです。<br />天地万物は神様に似ています。万物は神様に象徴的に似て生まれました。</div><div style="text-align: left;">人は神様に形象的に似て生まれました。</div><div style="text-align: left;">(同93ページ)</div><div style="text-align: left;"><br /></div><div style="text-align: left;"><div>神様がいるか、いないかについて、少しの間お話して見ましょう。<br /> 私たちが人類始祖を求めてさかのぼれば、最初の人類始祖がでてくるでしょう。・・・・その生まれた最初の人類が、大地に生まれるとともに、太陽があることを、それ自体が知っていて準備して出て来たか、そうでなければ、それ自体は知らずに出て来たかということを考えてみます。</div><div>この地に出てくるとき、目は太陽があることを知らなかったでしょう。</div><div>しかし、それ自体は知らなかったとしても、あらかじめ天体に太陽があって、見ることが出来ることを知り、目をそのように生じさせたのです。</div><div>皆様の目をみるとまばたきしています。</div><div>それは、地の熱を受けて目の水分が蒸発するので、湿らせなければならないことを知っていたからです。</div><div>また、まつげは、ほこりを防止しなければならないことを知って生じました。</div><div>これを見れば、人間は博物学的、天文学的知識を基盤として生まれたということです。<br />そして、目はあらかじめ汗が流れて来ることを知っていました。</div><div>それを知って、この貴重なところに異物が入れば大変なことになるので、防波堤をつくっておいたのです。<br /><div>そして、人が立って行き来することを知っていたというのです。</div><div>また、耳をみてください。あらかじめ音波が来ることを知って、それを聞き取れるようになっています。</div><div>また、鼻をみてください。</div><div>鼻がなぜこのように下にむかうようになっているかというのです。</div><div>鼻に汗や雨水が入ってはいけないので防波堤をつくって下に向かうようにしたのです。</div><div>すべて知ってつくられたというのです。<br />それらが自然にそのようになるでしょうか。<br />このように私たちの人体を見れば、神秘の王宮のようになっています。<br />これがただそのままそのように生じることはありません。</div><div><br />このように見るとき、人間が生まれるとき、自分自身は知りませんでしたが、それを知っていた方がいたか、いなかったかということが問題になります。</div><div>(平和経359ページ)</div></div><p><br /></p></div>iyo_mizukihttp://www.blogger.com/profile/11025857562542866763noreply@blogger.com0