2022年2月26日土曜日

高度宗教の発生と成長

 イギリスの歴史家、アーノルド・トインビー氏は、文明単位に世界の歴史を比較・研究しました。
あまりに読みが深すぎて(?)、歴史家という域を飛び越えてしまったような面があります。
「歴史の研究」が主著ですが、膨大過ぎて、ちょっと読み直してみるというわけには行きません。
理解可能な歴史研究の範囲は?・・・・という課題から始まって、それまで主流だった国家単位の研究ではなく、文明単位での発生、成長、衰退、解体の過程を研究しました。
その中で、高度宗教の役割について、ユニークな観点から興味深い内容を語っています。

「歴史の研究」は、3巻(日本語版)に要約された版もあり、こちらの方が多く読まれたようです。

ここでは、山本新氏の著書から引用しています。
講談社「人類の知的遺産 74 トインビー」 昭和53年8月20日第1刷発行 
 著者 山本新
 Ⅱトインビーの生涯と思想の変遷
  第二の転機(文明から高度宗教へ)より(P.63)

「一文明内の事象はその文明全体の文脈からでないとしっかりはわからない、という考えをトインビーはシュペングラーから受け、この考えによって「歴史の研究」を書き綴っていった。

その半ばに達し、文明の最終段階である「世界国家」の段階にさしかかるあたりになると、一文明内の事象をいくら調べてもわからぬことがいろいろと出てきた。」(P.68)

「一文明が固有の領域をこえて、他の文明の領域を征服したり、長期にわたって支配したりしたとき、そこでおこることは、二つ以上の文明の出会いであって、一文明の内的展開ではない。

「出会い」というからには、当然、文明間の闘争であり、葛藤であり、支配的な文明の側からだけ一方的にみることはできない。

トインビーにとって、最も重要と思われたことは、高度宗教の誕生であった。」

・・・・(中略)・・・・

「いくらギリシア文明を吟味してみても、なぜ、ローマ帝国がその末期にいたってキリスト教に改宗したかは理解不可能である。
また、いくらシリア文明をそれだけの枠で吟味しても、ユダヤ教からキリスト教が紀元直後にいたって出て来たかは理解不能である。」
・・・・(中略)・・・・
「高度宗教は、一文明の純粋に内的な発展または内的成熟から生まれたものではない。
高度宗教が生まれるためには、文明と文明の接触、より具体的に言えば、一文明による他文明の征服が必要である。

他を征服した文明の側には、高度宗教を生むほどの高い精神が培われず、逆に、他から征服された文明の方に高度宗教が生まれる。

強いこと、勝つこと、支配すること、優位に立つことだけが価値のあることと思っている価値観を根本からゆさぶるのが、高度宗教の誕生の深い意味である。」(P.69)

(以前の)「トインビーにとって、高度宗教の歴史における役割は、親文明を子文明に橋渡しする「蛹(さなぎ)」の役をするものであった。」
・・・・(中略)・・・・
「しかし、宗教中心に、宗教の方に重点をおいて考えると、文明は高度宗教を生み出すために、挫折し、解体し、消滅し、やがて子文明として誕生するのだ、というふうに解しうる。

「蛹」説を放棄し、文明を高度宗教の手段の位置におとし、文明の目的は高度宗教を生み出すことにあるという見解に達した。」(P.71)

「これは神学者や宗教家の歴史観に酷似しており、これには世俗の歴史家はついていけなくなった。

歴史は神の活動する舞台であり、その秘儀を前衛的に自覚的に代弁し、代行するものが教会であるということになる。
宗教団体である教会は、神的事業にもっとも直接に接触している社会組織で、文明とは別種の社会と考えられ、そこに、歴史の要である中核的な錘(おもり)があるとされた。

いいかえれば、歴史の表面には、民族や国家が活動しているように見えるが、世俗的活動は、実は文明と言う単位で動いている。
しかし、それを一皮めくると、諸文明の抗争し、角逐する歴史の奥に、宗教史がかくされているから、歴史の意味と目的は、宗教史のクライマックスである高度宗教を中心に読まなければならないというのである。」(P.72)

(iyo)ここではキリスト教の例を中心に記述していますが、その親にあたるユダヤ教も同じような経過を辿っています。

南朝ユダが新バビロニアに滅ぼされて、バビロンに捕らわれの身となりました。
この頃からユダヤ教が深化・成熟していったと言われます。
キリスト教もローマ帝国の迫害の中で成熟しましたし、宗教に迫害はつきものですね。

トインビーには「一歴史家の宗教観」という著書もあって、山本新氏は代表作に挙げています。

30年もかけて「歴史の研究」を書いている間に、本人の考えにも変化が生じてきています。
歴史の背後に神の存在を見るようになってきました。
以下、同じく世界史家のマクニール氏の文章より引用。
 社会思想社「トインビー著作集」の「トインビー研究」 
「『歴史の研究』の基本的想定」(p120) W・H・マクニール

「各文明の衰退期に宗教が創始せられることによって、人間は神についての知識を、苦しい骨折のなかで、何ほどかずつ積み重ねてきた。
こうして世界史は、人間に対して神が自己を漸次に段階的に啓示していく過程と見られるにいたった。
宗教が歴史にかわって、人間結合のもっとも価値高いもっとも重要な形式となり、神が人間にかわって歴史の主役となった。
・・・・(中略)・・・・
文明の周期性はなるほど依然として認められはした。
しかし、文明は回帰しつつも前進する。
それは大きい戦車の車輪のように、人類を載せて、絶えず前進を続け、神的な意志によって定められたある目標、予知しがたいが、あきらかに好ましい目標へと人類を近づけるのだと考えられた。」

(iyo)
トインビーの「歴史の研究」には、「誰のために」という見出しがあって、世界国家(例えばローマ帝国)がつくり出した平和や制度は、誰のために最も有効に機能したかを検証しています。
具体的には、交通手段、首都、地方制度、公用言語と公用文字、法律制度、駐屯部隊と植民地、度量衡や貨幣など、多方面から様々な文明を対象に検討・分析します。

例えば、「ローマの平和」がもたらした最大の恩恵とも言える交通手段について・・・・レギオンや商人たちも大いに利用しましたが、最も有効活用したのは、使徒パウロを始めとするキリスト教徒達の伝道活動であったと結論付けます。
聖書の使徒行伝にはそのようすも書かれていますが、中でもパウロは、歴史的に見ても長距離旅行者として有名な人物のようです。
新約聖書には「○○の手紙」というのも沢山ありますが、山賊や海賊が多ければ発展は難しいわけで、郵逓制度もその多大な恩恵の1つでしょう。
その後の時代においても発展し、世界国家全体に教会が多数作られました。司教や大司教が忙しく飛び回ったとか。

日本でも徳川幕府(世界国家に相当)のおかげで、平和が訪れ、各街道が整備されました・・・・もっとも日本の場合は弾圧により、布教活動は失敗に終わりましたが。

結論として、世界国家の諸制度は、当時の支配者達が意図しない、意外な利用者に役立つことがきわめて多いとのこと。

こうした世界国家をつくった本当の目的は、まさに神のみぞ知るということでしょう。

(iyo)国家の興亡と宗教について原理講論p142から引用します。
「中国の歴史を見ると、春秋戦国の各時代を経て、秦統一時代が到来し、そして前漢、新、後漢、三国、西晋、東晋、南北朝の各時代を経て、隋唐統一時代がきた。
さらに、五代、北宋、南宋、元、明、清の時代を経て、今日の中華民国に至るまで、複雑多様な国家の興亡と、政権の交代を重ねてきたのであるが、今日に至るまで、儒、仏、仙の極東宗教だけは、厳然として残っているのである。
つぎにインドの歴史をひもといてみても、マウリア、アンドラ、クシャナ、グプタ、ヴァルダーナ、サーマン、カズニ、ムガール帝国を経て、今日のインドに至るまで、国家の変遷は極まりなく繰り返してきたわけであるが、ヒンズー教だけは衰えずにそのまま残っているのである。
また、中東地域の歴史を見れば、サラセン帝国、東西カリフ、セルジュク・トルコ、オスマン・トルコなど、国家の主権は幾度か変わってきたのであるが、彼らが信奉するイスラム教だけは、連綿としてその命脈が断ちきられることなく継承されてきたのである。
・・・・(中略)・・・・
ヨーロッパの主導権はギリシャ、ローマ、フランク、スペイン、ポルトガルを経て、一時フランスとオランダを経由し、英国に移動し、それが、米国とソ連に分かれ今日に至っているのである。
ところが、その中においても、キリスト教だけはそのまま興隆してきたのであり、唯物史観の上にたてられた専制政体下のソ連においてさえ、キリスト教は、今なお滅びずに残っている。
・・・・(中略)・・・・
 歴史上には数多くの宗教が生滅した。その中で影響力の大きい宗教は、必ず文化圏を形成してきたのであるが、文献に現れている文化圏だけでも、二十一ないし二十六を数えている。
・・・・(中略)・・・・
そして近世に至っては、前に列挙したように、数多くの国家興亡の波の中で、結局、極東文化圏、印度教文化圏、回教文化圏、キリスト教文化圏の四大文化圏だけが残されてきたのであり、これらはまた、キリスト教を中心とした一つの世界的な文化圏を形成していく趨勢を見せているのである。
・・・・(中略)・・・・
このように、文化圏の発展史が数多くの宗教の興亡、あるいは融合によって、結局、一つの宗教を中心とする世界的な文化圏を形成していく」

2022年2月24日木曜日

地上生活と霊界の関係

人間の構造をよく見ると、神様は、本来人間を二重構造で創造されたことが分かります。
有形世界である現象世界の縮小体として肉身を創造され、無形世界の代表であり、主人として立てるために霊人体を創造されました。
したがって、人間は、地上界で百年くらい生きて肉身の役割が終われば、自然に、そして自動的に無形世界の霊界に入っていくようになっているのです。
このように霊界は、肉身を土台として生きている私たちの目では見ることができないだけであって、地上生活の自動的で必然的な延長です。
神様が創造してくださった、人間の永遠の本郷なのです。
霊界は、このように厳然として存在します。妄想の世界でもなく、想像の世界でもありません。
これは、人間の選択権の外にあるのです。良いからと言って行き、嫌だからといって行かなくてもよい、そのような世界ではありません。
神様が永遠不変の方であられるように、御自身が創造された霊界も永遠不変なのです。
私たちが地上界で、肉身をもって現象世界と様々な関係を結んで暮らすのと同じように、霊界でも人間は、霊人体をもって霊界のすべての現象と密接な関係を維持して生きていかなければならない宿命的存在です。
人間の霊人体と肉身の関係について見るとき、より重要なのは、肉身ではなく霊人体です。
肉身は百年くらい生きて死ぬのですが、霊人体は、時間と空間を超越して永生します。
いくら地上界で良い服を着て、良いものを食べ、裕福に暮らす人も、結局、死ぬのではないですか。
したがって、皆様の人生は、霊的な基準と肉的な基準をよく調和させ、霊肉が一つになった完成実体を形成して暮らしてから逝かなければなりません。
現象世界であり有限世界である地上界の人生で、肉身を土台として霊人体を完成させる責任があるということです。
ところが、霊人体の完成は自動的にやってくるのではありません。
必ず真の愛の実践を通して、体と心が完全一体になった人生の土台の上で、初めて完熟した霊人体が結果として実って行くのです。
皆様。秋になって、倉庫に入って行く、良く熟した果物になるためには、春と夏という過程を経ながら、自然界が提供してくれる栄養素と主人の細やかな世話が絶対に必要です。
無精で見識の無い主人に出会った果樹園の果物は、あらゆる疾病と悪天候に悩まされ、熟すこともできないまま落果したり、虫に食われた果物として選別されたりしてしまうでしょう。
果物は果物ですが、全てが同じ果物というわけではありません。すべての果物が、市場に出して売れる完成品になるわけではないのです。
木の上で完熟した果物は、自動的に主人の倉庫に入っていきます。同じように、人間の霊人体は、木と同じ立場にある地上界の人生で完成してこそ、自動的に無形世界である霊界の天国に入って行くのです。
言い換えれば、人間は、肉身を持って暮らす地上界の人生で、完熟した人生、すなわち、この地に天国を形成し、楽しく暮らしてから逝ってこそ、自動的に天上天国に入場するようになるのです。(平和経1571ページ)

地上の生活と永生の生活は、別々ではありません。地上の生活も重要であり、永生の生活も重要です。永遠の生活は、地上生活からつながっているという意味です。二つとも重要ですが、今日この地に生きる人たちは、永生の概念を知りません。この地の生活が重要だと思っています。・・・・(中略)・・・・それは、互いに向き合って動きます。地上世界が上がれば永生世界(霊界)も上がり、地上世界が下がれば永生世界も下がります。一方が回れば、他方も同様に回ります。それで、現世においてそれを実感して、永生にプラスさせる生活をしなければなりません。永生と現世は分かれません。天国と地獄を明らかにしなければそれが分かりません。したがって、永生と地上生活の重要性を感じながら働きなさいというのです。(天聖経758ページ)

皆さんの良心が自分の生涯をすべて知っているように、すべての内容が霊界のコンピュータに入力されます。霊界に行って名前を入力すれば、その人の生涯が一瞬にしてすべて出てきます。霊界は時間と空間を超越しているので、その場で、あっという間にすべての生涯の記録が分かります。ですから、良心は、永遠の世界のコンピューターのボタンです。知っていることがそのまま入力されます。良心のの呵責を受けることがあれば、それがそのまま入力されるのです。良心の呵責を受けない人生であれば、きれいな障害として記録されます。霊界に行って弁解できません。自分が生きてきた一生の姿が、そのままはっきりと見られます。そのような世界があることを知って、その世界に通じることができ、その世界を迎えることができる準備をする訓練所が地上世界です。(天聖経762ページ)

霊界が故郷です。故郷に帰って永遠に生きられる基準を、地上で合わせていかなければなりません。地上生活で、今までの世の中の何も知らない人々のように自分勝手に生活することはできません。霊界を知って、そこに合わせて生きることによって、この世の中を離れるときに、神様のみ前に行って天国と関係を結ぶことができるのであって、そうでなければ不可能です。ですから、霊界に対する事実をはっきりと知らなければなりません。
(天聖経769ページ)

水晶のように霊人体と肉体で清く生きてこそ、のちに霊界に行って問題がありません。そこに何かの傷があれば、天国に入っていくことができません。地上での生活が重要です。生きた通りに霊界に行くのです。ここには誰も例外がありません。自分自身が透明のように、すべて表に現れて見えるのです。ですから、地上生活を本当に正しく生きなければなりません。(天聖経770ページ)

今日、世の中に出てみれば、祖父、祖母、父と母、兄弟たちのような人が四方にあまねくいますが、その世界の人たちを、自分の家で愛したように愛して生きなければなりません。彼らは他人ではありません。おなかがすいていれば食べさせてあげ、困難なことがあれば助けてあげる、そのようにできる人にならなければなりません。この地上に生まれ、あの世界の愛の拍子に合うように準備の生活をするのが肉身生活です。(天聖経771ページ)


2022年2月14日月曜日

血統転換して生まれたイエス様

 神様は、四千年を経てイエス様を送られました。
イエス様は、長い歴史を経てこられた方です。
生まれるときは、母親のおなかを通して十か月で生まれたのですが、地上に来るために、四千年前から準備された方なのです。
(真の父母経74ページ)

イエス様は、サタンが讒訴できる位置を抜け出した立場で生まれたので、原罪がない方です。
サタンの主管圏内においてサタンと相対したのが原罪ですが、イエス様はサタンの讒訴条件を越えてお生まれになった方なので、原罪とは関係がないというのです。
このために入れ替える歴史があったのです。
エサウとヤコブの時に入れ替え、また、ペレヅとゼラの時に入れ替えて、勝利の基盤を築いてきました。
ですから、イエス様は、原罪と関係のない人間として生まれたのです。
(同36ページ)

神様は、アダムとエバの堕落以降、失ってしまった子女が戻ってくることを、ただ待っていることはできませんでした。神様は、人間がサタンの讒訴条件を抜け出すことができる道を探し求めてこられたというのです。その路程が、どれほど大変で、悲惨だったでしょうか。サタンが王になっている世界で、神様の立場はどのようなものだったでしょうか。
ひとり子イエス・キリストを、サタンの讒訴条件を免れた位置で誕生させるまでの神様の苦労は、到底言い表すことができませんでした。(真の父母経33ページ)

イエス様は、神様の主管下で生まれた息子なので、原罪を免れた立場に立ちました。
サタンの讒訴条件を持っているがゆえに原罪があるというのですが、原罪を免れた立場に立っているため、本然の基準、堕落する前のアダムの位置に帰ることができるのです。
ですから、イエス様だけが第二次のアダムになることができます。人類の先祖として、アダムが失敗したことを復帰できます。
アダムの位置を身代わりできるのです。
ここから新しい歴史時代に入ります。
イエスは無原罪で生まれたので、サタンの讒訴から完全に脱しました。
サタンの讒訴から脱すると同時に、サタンを完全に屈服させました。
天使長を屈服させたというのです。
イエス様は、このように神様の息子として、堂々と本然のアダムの位置に立つことができました。
(同37ページ)

聖書には、ヤコブが母であるリベカと一つになって、兄エサウと父イサクを欺き、祝福される話があり、また、タマルが舅と関係を結んで生んだペレヅとゼラを中心として、ユダの支派が祝福を受けるようになったという内容が出てきます。

このような、人倫や道徳観において解決できない内容が、どうしてあるのかということが問題です。
そして、マタイによる福音書を見れば、四大淫女についての話が出てきます。
タマルが出てきて、バテシバが出てきて、ラハブが出てきて、ルツが出てきます。
マタイによる福音書は創世記に相当するものですが、歴史時代において、最初の章になぜこのような神聖でない、汚点を持っている女性たちが出て来たのかというのです。
このようなすべての問題は、堕落論を知らなければ解決するすべがありません。
(同37ページ)

ヨセフと婚約したマリヤは、エバとちょうど同じです。
アダムとエバは、堕落する時、婚約した立場にいました。
アダムとエバが婚約段階にいるときに堕落したのと同じなので、これを蕩減復帰するためには、リベカの伝統を引き継がなければならず、タマルの伝統を引き継げる女性がいなければなりません。
そのため、血統を清めた女性を代表した基準で、それを相続できる位置に立った人がマリヤでした。
マリヤは、神様の息子、娘を生むために命を捧げることを覚悟し、犠牲になる道でも、神様のみ旨を立てた女性でした。
タマルのように、イスラエルの王権を立てることを最高の希望と思い、自分の身がどうなろうと、死のうと生きようと、自分を通して神様のみ旨を継承しようとした歴史的な女性でした。
(同37ページ)

マリヤの腹中にいるイエス様に対しては、サタンが讒訴できません。
イエス様が生まれるようになったのも、マリヤが動機になったのではなく、神様のみ旨を中心として、神様の命令によって生まれたので、神様が動機となったのであり、また出生に至る過程も、腹中の勝利の基盤をもつマリヤの腹中から生まれたイエス様だったので、イエス様には、サタンのいかなる讒訴条件もあり得ないというのです。

歴史時代に、腹中から始まったアダムとエバ以降のあらゆる闘いの基盤を、初めて腹中から分別したというのです。
このような血統もって現れた人がイエス様でした。
ですから、イエス様は、いかなる預言者や、いかなる世界的な宗教指導者とも、その根本が違うというのです。

イエス様は、サタンが讒訴できない血統的な内容を備えてこられた世界的な代表者です。
また、歴史的な内容をすべて清算して来られた方なので、正に神様を中心とした血統的な内容をもって生まれた最初の人に違いありません。
イエス様は、このような動機や過程を経て、神様の真の息子として、この地上に誕生するようになったのです。
(同38ページ)

ヤコブはヤボク川のほとりで天使を屈服させる霊的勝利の条件と実体の天使長の立場であるエサウを屈服させることにより、歴史始まって以来、初めて勝利したというイスラエルの祝福を受けるようになりました。
しかし、そのときは既に、年が四十代でした。
サタンの偽りの愛の種がエバの胎中に蒔かれて悪の命が生まれたので、神様は母の胎中まで入っていって分別しなければ、天の息子が胎中から誕生できなかったのです。
ですから、ヤコブの勝利によっても、いまだ分別されていない妊娠から四十代までの期間も、サタンが分立されなければなりませんでした。
結果的にこの責任を引き受けた偉大な母が、タマルでした。(真の父母経560ページ)

イエス様は、血統を清めた上で来ました。
双子の時代、すなわちエサウとヤコブを通して長子権を復帰し、タマルの腹中でペレヅとゼラの、歴史にない闘いを通して、ひっくり返すことによって、血統転換をしました。
歴史がすべてみせてくれたのです。

聖書は、本当に啓示的です。世界史、文化史、宗教史において欠かせない宝典です。
人類歴史に関する曲折の事情と秘密が、すべて含まれています。
それを解かなければなりません。
このようにして、血統を復帰しなければならないのです。
マリヤの腹中から生まれたイエス様は、サタン世界の血統が転換されています。
血統が転換された位置から来たのでイエス様の相対となり得る新婦も、血統転換歴史の過程を経なければなりません。
(同39ページ)


サタンはいつも、人間を自らの方へ引きずり込むため、人間の中に鉤が無いかと探しているのです。
普通の人間は、至る所に讒訴条件があるので、サタンはたやすくそれを見つけることができます。
しかしイエス様という人は、どこを探しても、サタンが引っ掛けることができる鉤を持っていない方でした。
だからイエス様はサタンの讒訴から完全に自由となって、神と一体化することができたのです。
イエス様がそのようにしてサタン世界を越えて、神と一つになったからこそ、神はイエス様を百パーセント用いることができたのです。

それゆえに神はサタンに対して「サタンよ、お前は私の子イエスを十字架につけて殺したのだから、私は私でイエスを復活させるのだ」と堂々と主張することができました。
かくして神は、サタンに対して何の遠慮も無く、自分の力を行使して、イエス様を復活させることができました。
(み旨と世界552ページ 1977/04/18 ニューヨーク)



2022年2月13日日曜日

理想世界、絶対価値圏

 (注.以下に「服従」という言葉が出て来ますが、日本語での通常の意味とはちがっていて、「自らが我を忘れて、相手を大切に思って尽くす(仕える)」というような意味と理解するのがいいかと思います) 

子女として造られた人間が成長して完成し、神様から祝福結婚を受け、真の子女を繁殖し、真の永遠の理想天国を成し遂げて生きる姿を見て、喜びを感じようとしたのが神様の創造目的でした。

愛の主人となる道は、まず相対のために自分を徹底的に犠牲にして投入する、そのような真の愛の実践を通して開かれるようになります。
神様は人間を創造されるときも、まず御自身が絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を立てて、100パーセント投入されたのです。相対圏を絶対価値圏として立てるのです。

愛の主人は、独りでなるものではありません。
必ず対象を通して成立するものなのです。
この絶対的価値圏の愛の原理の前では、神様も同じなのです。
子女がいなければ、父母は永遠に愛の主人になれないように、神様御自身が絶対愛の主人の位置に立つためには、その相対圏である人間を、絶対愛の価値圏に立てなければならなかったのです。

絶対主体と絶対対象の価値観が生まれて、初めて完成するのです。
宇宙の秩序を見れば、大きいからといって、小さいものを無条件に犠牲を強いて、摂取するようにはなっていません。
ヘレニズムに基づいた弱肉強食による適者生存の理論は、根本的に間違っています。
ために存在し、真の愛で投入して忘れる絶対服従の対象として、主体的愛の主人として完成させようという絶対価値観を、彼らは見落としているのです。

真の愛を排除すれば、闘争概念だけが残るのです。
しかし、神様の「創造原理」は、闘争を通した生存と発展ではありません。
主体と対象の関係の中で相互に授受作用をしながら、絶対価値観に基づいて調和統一を追求するのです。
「小」が「大」のために犠牲になるとしても、それを闘争と見てはいけません。
相互発展のための投入と見なければならないのです。
個人は家庭のため、家庭は国家のため、そして国家は世界のために譲歩し、犠牲を甘受することが、どうして闘争と言えるでしょうか。

このように、絶対的価値圏とは、まず相対を真の愛の主人格として立ててあげる真の愛を完成させるためのものです。
・・・・(中略)・・・・
「前」と「後」のことを考えてみてください。
「前」という言葉を語るそれ自体が、既に「後」を前提条件として認めているのであり、「上」という言葉も「下」を先に認めてこそ成立する言葉であり、「左」は「右」を前提とする言葉です。
同じ論理で、「男性」という言葉も「女性」という存在が先にあってこそ成立するものです。
すなわち、男性は女性のために生まれたのであり、女性は男性のために生まれたと言うことができます。
男性がいなければ、女性は必要ありません。
同じように女性がいなければ、男性は存在価値がないのです。
結局、自分のために生まれたものは一つもないということです。

すべての存在物は、相対のために存在し作用するのです。
相対的関係によって理想郷に向かうように創造されたという意味です。
人間の五官について考えてみてください。
皆様の目は自分の目そのものを見るために出来ていますか。
目、鼻、耳、口、手、これらすべては相手のために生じました。
そうであれば、この五官を総動員し、生命を維持して活動を続けるようにする力は何でしょうか。
真の愛の価値観を完成させようとする力です。

私たちの五官は、真の愛を実践するために必要なものとして生じた道具にすぎません。
このように、自分のためにできたものは一つもないのです。
相対のために与え、愛で犠牲となり、服従で愛の主人を完成させる生き方こそが、神様の創造理想にかなった生き方なのです。
相対のために創造されたのですから、当然のこととして、相対のために生きてあげなければならないのは天理なのです。
そこから真の愛の絶対価値が創出されるのです。
(平和経1114ページ)


人間の生活の中で、ために生きる真の愛があらゆる相関関係の基本ですが、これは父母の真の愛を動機として体恤するものです。
神の真の愛を根とした父母の真の愛は、人間の個体を完成させるようになります。
完成した個体が真の愛の理想的な夫婦となった家庭において、彼らの子女に真の愛を伝授するようになるのが創造の秩序です。
地上の理想世界は、完全な一人から、真の愛による家庭、社会、国家、世界に拡大していきます。
現在の世界は、このような理想世界とは、その出発を異にした世界です。
神様の創造原則のうち、最も貴い真の愛の秩序から人間が離れた、堕落の結果が拡大してきた世界です。
神様の創造秩序を度外視したまま、人為的な組織形態や法則、秩序だけを重視する現在の世界は、理想的な個人、家庭、そして民族を養成することはできません。
(天聖経84ページ)



2022年2月7日月曜日

堕落とは

 男性は女性の、女性は男性のために生まれたのですが、自体自覚ではない他我自覚をして、自体自覚が再認定されれば、二人の所有権と勝利権が備わるのです。

しかし、相対圏の二人の価値を融合させる前に、自体自覚をして行動に出てしまったのが堕落です。
なぜそれによって、神様がこのように手を付けられず、無力になったのでしょうか。
堕落と言うのが、なぜそれほどまでに深刻かというのです。
善悪の実を取って食べたのなら、なぜ下部を覆ったのですか。
血を汚したのです。血を汚したというのは生命を汚したということであり、生命を汚したというのは愛を汚したということです。
天地大道の神経器官になるべき人間が、未成年期に堕落しました。
・・・・(中略)・・・・
堕落は、自由意思によってではなく、自体自覚によって起きました。
環境的に与えられた条件を忘れ、自分だけを中心として自体自覚をしたのです。
全体が和動するのを無視し、全体の主体と対象の連帯的関係を無視してしまい、個別的関係において連帯関係を占領したので、盗賊だというのです。それがサタンです。

創造理想の大宇宙の連帯的関係の愛の圏を、個人を中心として垣根を抜け出して支配したということは、神様までも無視してしまったということなのです。
(天聖経418ページ)

エデンの園のアダムは、神様のひとり子です。エバは、神様のひとり娘です。彼らが成長し、春の日になって花が咲くとき、二人が互いに春の歌を歌いながら、「あなたは私のお兄さんではないですか」、「あなたは私の妹ではないですか」と言えば、神様はどの様にするでしょうか。明るく咲いた花が香りを漂わせるようになれば、神様が(二人を)結んでくださったでしょう。
神様が結婚式をしてあげることによって成し遂げようとしていた創造の最高の理想が、アダムとエバを中心として成し遂げられるのです。彼らがひとり子と一人娘としてよく育ち、思春期まで行こうとすれば、期間が必要なのです。
(真の父母経31ページ)

人類の真の父母にならなければならなかったアダムとエバが、思春期になる前に堕落してしまいました。言い換えれば、秋に良い実を結ぶために春に種を蒔いたのですが、これが秋まで行くことができず、夏に落ちてしまったというのです。堕落とは正に、このように途中で脱落したことを意味します。
・・・・(中略)・・・・
成熟した思春期を迎えていない未成年の時に堕落しました。霊肉が神様の愛と連結されていない未発達の時期に堕落したというのです。そのため、愛が分からずにいます。
いが栗はいが栗なのですが、中身のないいが栗の姿と同じなのです。(天聖経409ページ)

人間始祖がエデンの園で犯した堕落の動機とは何でしょうか。自分を中心としたことです。
それで神様の息子の位置で息子になることができず、神様の娘の位置で娘になることができませんでした。
サタンの侵犯を受けたのです。そのために、すべて失ってしまいました。
侵犯されることを避ければ息子になり、娘になります。(天聖経457ページ)

堕落とは血統が変わったことです。家庭がなくなってしまい、国がなくなってしまいました。
・・・・(中略)・・・・
サタンの血統が入ってきて、心臓から動脈、静脈がサタンの血によって動き、すべての細胞が使えなくなったのです。
血統がめちゃくちゃになったので、実体世界の歴史を知らない無知に陥り、悲惨になったのです。
エバは自分を中心として自覚をもちました。
未完成の圏内で、自分を中心として自覚して対処し、天宙をひっくり返して打ち込んでしまったため、その自覚を新たにしなければならないのです。
(同420ページ)


堕落とは血統を転換したことです。
血統が問題です。
神様は、変わってしまった血統をどうにもできません。
神様の体になり、神様の実体を中心とした父母の血肉を受けた直系の子女にならなければならないのに、恩讐に奪われ、神様が計画したすべてを失ってしまいました。
天の国や地上天国の理念を中心として、愛の柱が建てられなければならなかったですが、その柱がすべて崩れてしまったというのです。
(同421ページ)

本来、創造理想の中で、愛は所有権を決定するようになっています。
したがって、一旦、愛の関係を結べば、その愛を中心とした主体と対象は、互いの所有権を持つようになるのが原理です。
このような原理的基準で、天使長が堕落して悪神になったサタンは、不倫の愛の因縁を通して、堕落人間に対する所有権を堂々と主張できるようになったのであり、人間の本当の父が神様でいらっしゃるのに、かえってサタンが父の振る舞いをしているのです。(平和経1550ページ)

真の愛の属性は、自分より相対のために投入することだと言いました。
したがって、神様には、御自身の対象としてつくられた人間が、罪を犯して地獄で苦痛を受けるようになるという概念はあり得ません。
これはすべて人間の先祖が真の愛の理想に逆らって堕落することによって、後天的に生じた結果なのです。
本然の世界から追放された人間の先祖は、神様の真の愛の祝福の下で真の生命、真の血統の子女を持つことができませんでした。
人類は神様の真の愛、真の生命、真の血統とは関係のない存在として生まれるようになったのです。
したがって、人間は、生まれる時から宿命的に救い主と救援が必要な存在になりました。
救援は現状回復、すなわち復帰です。
人間が堕落する前の原状に戻り、失ってしまった神様との関係を回復するのです。
堕落人間は、必然的に蕩減復帰の道を行かなければなりません。
したがって、神様は、時代と場所に合わせて宗教を立て、人類を復帰する発展的な道に導いてこられたのです。(平和経273ページ)

以下は先生の奥様が2002年8月10日、韓国で開催された大会の講演より抜粋したものです。

本来、人間はエデンの園で、神様を中心として、永遠の自由と理想と平和を享受しながら暮らすように造られました。しかし、私たちの始祖であるアダムとエバの堕落により、そのような本然の世界が成し遂げられませんでした。堕落したその日から、この地上には苦痛と悲しみと悲運の歴史が始まりました。
真の愛と真の理念をもって生きるべき人間が、真の理念を持つことができず、真の愛が何であるか分からなくなってしまい、幸福な環境で暮らすべき人間が、幸福の園を失ってしまったのです。
自由と平和を謳歌し、ひいては創造主の前に心情で一つになった幸福のすべての要素をもって、栄光をお返しすべき人間とならなければなりませんでしたが、そのような人間になることができなかったのです。(平和経154ページ)

一言でいうと、堕落とは、自己中心的自覚から始まりました。
今日、私たちの周辺で、堂々と我がもの顔で猛威を振るっている極度の利己主義的思考と行為が、正に私たちを堕落の道に追いやった元凶なのです。
他人の立場や境遇を考える前に、自らの利益や都合だけを追求する拙劣な行為、他人が死のうと死ぬまいと自分だけが生きようという破廉恥な姿は、みな堕落が引き起こした行為の片鱗なのです。
しかし、これは、創造当時に神様が計画された本来の目的ではありません。
・・・・(中略)・・・・
人間には誰しも本然の世界を指向する本心が残っているので、人類は歴史を通して神様が願われる世界を望み、指向してきたのであり、私たちのその希望は、行くまいとしても行かざるを得ない、困難であるとしてもかなえざるを得ない理想として残されたのです。
(平和経156ページ)

終末である今日、利己的な個人主義が普遍的な生活様式になったことは、決して偶然ではありません。人々は日がたつにつれ、周囲からだんだんと疎外感を感じるようになり、自分の属する国家、社会、そして甚だしくは自分の家庭にさえ、さほど責任感を持たないようになっています。離婚率が日に日に増加しているという事実は、夫婦が互いに結婚に対する責任感を殆ど持ち合わせていないという証拠です。父母も子女に対してしかるべき責任をもちません。個人においても人間の尊厳性を失い、自分に対する責任すら取ろうとしません。
(平和経954ページ)




2022年2月3日木曜日

超宗教、超教派運動

(以下、先生の講話より)

宗教の貴重な教えは、人類歴史を明らかにしてきた知恵の根本です。
ところが、宗教人たちは三つの弱点をもっています。

第一に、彼らはとても来世的であり非現実的です。
第二に、彼らは偏狭的であり党派的です。
第三に、彼らは狂信的になりやすいのです。

宗教指導者たちは、開かれた心で万人を包容しなければなりません。
すべての宗教人の真の責務は、人間の多くの境界線、さらには宗教自体の障壁までも乗り越えることです。
(平和経259ページ)

 私が知っている神様は、宗派主義者ではありません。
枝葉的な教理理論に縛られたお方ではありません。
私たちは、教義の文字や儀式の条件に融通性なく縛られる、神学的葛藤から早く抜け出し、神様と生きた交流を持たなければなりません。
信徒たちの信仰が蘇生し、各自の神霊が神様と交信する、純粋な宗教風土の造成が急がれていると思います。
(同424ページ)

私たちは、キリスト教徒たちに、「私たちは等しく、神様を父と信じているのは間違いないのではなではないか。

ぶどうの木ややまぶどうの木のように、枝が少し違うだけで、形は一緒ではないか」と言って、説得しなければなりません。
そのようになれば、私たちの教会は超教派運動もすることができ、宗教協議会の運動もすることができます。
このように、キリスト教と一つになって、宗教を信じない人々が神様を信じるように導かなければなりません。
(真の父母経1263ページ)

この地上には数多くの宗教があります。

人類が分散されているので、人類を収拾しようとすれば、自然と各民族に合った宗教が必要になります。
それぞれの歴史と環境、文化の背景と風習、習慣が異なるので、このような様々な形態を一つの目的に収拾するためには、数多くの宗派が無ければなりません。

例えば、川を見ると、上流には数多くの支流があります。
この数多くの支流が降りてくれば降りてくるほど、互いに合流しながらその数が次第に減ってきて、結局は一つの川になって大海に入って行くのです。
同じように、数多くの宗教も一つの流れに合わさり、最後には神様を心の中に迎え、神様の愛を占領する所にとどまるようになるのです。

宗教の目的は、ただ神様のみ旨の完成にあります。
宗教はそのために貢献しなければなりません。
数多くの宗教が善を語り、愛を語りますが、その善と愛は、国家や民族、宗教圏内にとどまるものではなく、これを超越して世界的基盤を越え、人類に向かう善と愛を論じるところまで連結されなければなりません。
(同1268ページ)

世界には、神様を唱える教派が多くあります。

しかし、教派圏内で唱える神様は、もはや必要ありません。
教派を超越して、全天地の中心として信じ、唱えることができ、全体に代わって神様を「私の父」と呼べる資格がある存在が集まってこそ、この地上に神様を迎えることができるのです。

神様は、必ず地上に宗教を立てて世界の救援摂理をされるのですが、その宗教は世界性を帯びるようになります。
ですから一つの宗教を模索しなければなりません。
その宗教の教理には、一つの世界をつくるという内容がなければならないのです。・・・・(中略)・・・・
そこでは、自分に味方する人や自分の民族、自分の文化背景と一つになるだけでなく、自分と反対の内容をすべて吸収し、消化できる能力がなければなりません。
自分が好きな人とだけ一つになるのではないのです。
自分の恩讐は取り除いてしまい、自分の味方とだけ一つになるためのの主張ではなく、恩讐までも漏らさず、一つになろうという宗教の内容がなければなりません。
このような宗教を神様は願い、イエス・キリストもそのような宗教を目標にしてきたのです。
(同1259ページ)

昔は、自分の国を中心として生きればよかったのですが、今は国を越え、世界とともに生きなければならない時代です。

このことは、国を治める政治家だけでなく、宗教界でも問題になります。
四大聖人によって世界的な版図を備えた宗教圏でも、問題になっているのです。

宗教も、自分の宗派的、あるいは地域的な文化背景を中心として進んではいけない時代になったので、宗教間において和解をしなければならないと考え、私は今まで数十年間、超教派運動と韓国宗教協議会の活動をしてきました。
今や、世界的に宗教連合体制を構成することができなければなりません。
(同1273ページ)

ユダヤ教とキリスト教とイスラームが一つになるのは、簡単なことではありません。

一つになろうとすれば、どのようにしなければならないのでしょうか。
イエス様、ムハンマド、ユダヤ教のモーセとアブラハムよりも、さらに大きな愛の心、父母の心情をもって耐えることができなければなりません。
そのように耐えられるか、という問題が重要です。

あとから、「ムハンマドも愛し、イスラームも愛した。イエス様も愛し、キリスト教も愛した。モーセも愛し、イスラエルも愛した」と言うことのできる結果的存在が出てこなければなりません。
1990年8月16日、第二回「世界宗教議会」を開催しましたが、私はいったい何ゆえに宗教議会をつくり、宗教界に問題を起こすのでしょうか。
一つの教派でも一つになれないのに、超教派的な面で一つにしようとするのは正気を失った話です。
いくら統一教会の責任者としてそのように歩んでいるといっても、世界に散らばっている統一教会の人々が、そのようにできるのかというのです。
ですから、それを教えてあげなければなりません。
(同1278ページ)

私は、1981年に「神様会議」を始めました。

「神様会議」というタイトルを中心として、神様について自身のある人はみな来て、話をしなさいというのです。
仏教、儒教、イスラーム、ヒンドゥー教、ユダヤ教など、全体が集まって、神様についてすべて話してみなさいというのです。

神様の摂理完成の道は、宗教を超越してこそ行くことができると分かったので、「神様会議」をするのです。
宗教界が通じ合うことのできる穴を開けようというのです。
超宗教的な立場で壁を取り壊さなければなりません。

超宗教、超教団的な基準を連結させ、世の中を救うための神様の摂理完成を期することができる終着点に向かって、一つの道に前進するためには、これが必ず経なければならない過程であることが分かりました。
また、私がいくら愚かだと批判されても、神様のみ旨の中で誰かがこの道を開拓しなければならないということが分かったので、莫大な犠牲を覚悟して開拓して来ました。
そのようにしたところ、今や宗教界でも私が有名になったのです。
(同1279ページ)



2022年2月2日水曜日

堕落しなかったら

堕落していない本然の人間は、神様の聖殿になります。
アダムとエバが堕落していない先祖になったとすれば、その心の中には神様が共にいらっしゃるのです。
・・・・(中略)・・・・
イエス様も、「私は父の中におり、父は私の中にいる」と言いました。
(天聖経374ページ)

アダムとエバが善悪の実をとって食べずに堕落しなければ、どのようになっていたでしょうか。
神様の圏内で結婚して神様の愛を受け継ぎ、神様の生命と血統を受け継いで直系の子女になっていたのです。
このような人々には救世主が必要ありません。修養が必要ありません。
直系の子女は心が一つになっているので、神様のように全て通じるようになっています。
一体になってすべて通じます。
(同115ページ)

人間は、堕落していなければ、神様が分かるようになっています。心で分かるのです。世の中が何と言おうと、自分がどこに行くべきかが、自然に分かるというのです。体は自然に心と一つになるようになっているのであって、心と体が闘うようにはなっていません。堕落したので、角度が合わないのです。
この角度を合わせようとするので、宗教世界では必ず体を打ちなさいというのです。
(真の父母経49ページ)

堕落していないアダムとエバは、人類の真の先祖です。
真の父と真の母です。
体をまとった人類の真の父母です。
そのアダムとエバが堕落したため、人類がサタンの子孫になったのです。
アダムとエバが堕落せずに、本然の神様の心情に通じて、神様が喜ばれる中で、善男善女として聖婚式を執り行い、人類の真の父母になったとすれば、万物はアダム、エバと和動しながら、喜んでその家庭に必要とされるものになったでしょう。
(真の父母経25ページ)

アダムとエバが人類の真の先祖になっていれば、救い主も必要無く、宗教も必要ありません。
宗教が必要ない善なる世界は、神様が喜ばれる世界です。
神様は、地上にそのような世界がつくられることを願われるのですが、地上にそのような世界はつくられませんでした。
(同29ページ)

人間は、神様の真の愛の対象となるように創造されたのです。
神様は人間を御自身の息子として創造したというのです。
ですから、神様は私たち人間の真の父母です。
神様が最初の男性であるアダムと最初の女性であるエバが、真の愛を中心として純潔なままで成長することを願われました。
神様は、アダムとエバが真の人となることを望まれました。
神様はこのように美しく奥妙な自然世界を、すべての生命が成長できる環境として創造されました。
そして人間は、このような環境の中で成長したのです。
しかし、神様の主な関心は、人間の内的な人格の成長にありました。
真の愛を経験することにおいて、神様は私たち人間が、神様の真の愛を体恤し、完全な存在に成長するよう計画されたのです。
そして、神様は愛の力をいかなる力よりも強く創造されました。
天の愛と法度の領域の中で、人間をして真の愛の力を経験させることによって、私たち人間が父母であられる神様にだんだんと似ていくのです。
無限な真の愛を所有するために、私たちはまず責任意識を学ばなければなりません。
人間が真の愛を通して神様と一つとなったとき、人間は、神様に似た完全な人格体として、真の愛の完全な実体となることができるのです。
そのような意味から、神様は人間の幸福の本質と生命であり、理想であるということができます。
アダムとエバは、神様の愛の中で成長し、真の個人となり、真の夫と真の妻となって子女を養育することで真の父母になるようになっていました。
人生の成長段階を通し、人間は徐々に神様の愛を経験します。
個人は、父母の愛を通して子女の心情を知り、兄弟姉妹の愛を通して兄弟姉妹の心情を、配偶者を通して夫と妻の心情を、そして子女に対する愛を通して父母の心情を知るようになります。
家庭は、このような四大愛と心情圏を確立する基盤になるのです。
家庭は、愛と幸福、生命、そして血統の基盤です。
私たちは家庭以外の如何なるところにおいても、このような四大愛と心情圏を経験することはできません。
私たち人間は、実際的な経験を通してのみ愛を知るようになります。
個人、家庭、社会、そして環境の真の完成は、家庭の中における真の愛の実現に基づいています。
(平和経1380ページ)

人類が堕落せずに本性の善の父母を通して生まれていれば、「神様がいるかいないか」という論争は必要なかったはずです。赤ん坊がおなかの中でお乳を飲む方法を学んで出てくるのではないのと同じように、人間の先祖の堕落がなかったならば、人間は誰でも自動的に神様を父として侍って暮らすようになっていたのです。
人間の先祖としてつくられたアダムとエバを、神様御自身の実体として立てるために、神様の男性性稟はアダムの心のなかに、そして女性性稟はエバの心のなかに定着して永生するようになっていたのです。
・・・・(中略)・・・・
しかし、堕落によって人類は、すべてのものを失ってしまいました。
忘却の世界へ落ちて、神様がいるかいないかさえも分からない青盲の人になったのです。人類史上、これより悲惨な事件がどこにあるでしょうか。
もし神様に似た人間の先祖アダムとエバが堕落せずに成長し、完成して人類の父母の位置を確保していたならば、人類は、彼らの姿を通して生きていらっしゃる神様の実在をいつでも認知できたはずです。
そして、「神様はいる」、「神様はいない」という論争は考えることもできなかったはずです。神様は、人類の真の父母として、永遠に私たちと苦楽をともにされたことでしょう。神様は、私たちの生の中心であり、根になっていたはずです。
私たちが生活の中で、五官を通して直接神様を感じ、神様の実在を知るようになって、初めて本当に神様を知っているということになるのです。言い換えれば、神様の実在を体恤しなければならないということです。
このように、神様の実在を私たちの生活の中で直接体恤して生きるようになれば、私たちは、自動的に神様のみ旨とは何かをその一瞬一瞬で感じ、自ら進んですべてのことに臨むようになり、罪を犯そうとしても犯せない完成した人間の姿になるはずです。
そのようになっていれば、無形でいらっしゃる神様は、人間の実体をもって主人的人格と形体を備え、有形世界である地上界の万物万象はもちろん、霊界までも主管されるようになっているのです。
このように、神様をはっきりと知ることは、人間の生涯において最も優先的で重要なことなのです。
(平和経283ページ)

神様と人間

 もし神様がいらっしゃるなら、神様は、私たち人間を必要とせざるを得ません。人は万物の中で最も貴く英明な存在なので、尊重せざるを得ないのです。その神様と人間の関係を、私たちは明確に知らなければならないと思います。 数多くの宗教人たち、数多くの信仰者たちは、神様と人間の関係を様々に表...