(以下、先生の講話より)
宗教の貴重な教えは、人類歴史を明らかにしてきた知恵の根本です。
ところが、宗教人たちは三つの弱点をもっています。
第一に、彼らはとても来世的であり非現実的です。
第二に、彼らは偏狭的であり党派的です。
第三に、彼らは狂信的になりやすいのです。
宗教指導者たちは、開かれた心で万人を包容しなければなりません。
すべての宗教人の真の責務は、人間の多くの境界線、さらには宗教自体の障壁までも乗り越えることです。
(平和経259ページ)
私が知っている神様は、宗派主義者ではありません。
枝葉的な教理理論に縛られたお方ではありません。
私たちは、教義の文字や儀式の条件に融通性なく縛られる、神学的葛藤から早く抜け出し、神様と生きた交流を持たなければなりません。
信徒たちの信仰が蘇生し、各自の神霊が神様と交信する、純粋な宗教風土の造成が急がれていると思います。
私たちは、教義の文字や儀式の条件に融通性なく縛られる、神学的葛藤から早く抜け出し、神様と生きた交流を持たなければなりません。
信徒たちの信仰が蘇生し、各自の神霊が神様と交信する、純粋な宗教風土の造成が急がれていると思います。
(同424ページ)
私たちは、キリスト教徒たちに、「私たちは等しく、神様を父と信じているのは間違いないのではなではないか。
ぶどうの木ややまぶどうの木のように、枝が少し違うだけで、形は一緒ではないか」と言って、説得しなければなりません。
そのようになれば、私たちの教会は超教派運動もすることができ、宗教協議会の運動もすることができます。
このように、キリスト教と一つになって、宗教を信じない人々が神様を信じるように導かなければなりません。
そのようになれば、私たちの教会は超教派運動もすることができ、宗教協議会の運動もすることができます。
このように、キリスト教と一つになって、宗教を信じない人々が神様を信じるように導かなければなりません。
(真の父母経1263ページ)
この地上には数多くの宗教があります。
人類が分散されているので、人類を収拾しようとすれば、自然と各民族に合った宗教が必要になります。
それぞれの歴史と環境、文化の背景と風習、習慣が異なるので、このような様々な形態を一つの目的に収拾するためには、数多くの宗派が無ければなりません。
それぞれの歴史と環境、文化の背景と風習、習慣が異なるので、このような様々な形態を一つの目的に収拾するためには、数多くの宗派が無ければなりません。
例えば、川を見ると、上流には数多くの支流があります。
この数多くの支流が降りてくれば降りてくるほど、互いに合流しながらその数が次第に減ってきて、結局は一つの川になって大海に入って行くのです。
同じように、数多くの宗教も一つの流れに合わさり、最後には神様を心の中に迎え、神様の愛を占領する所にとどまるようになるのです。
同じように、数多くの宗教も一つの流れに合わさり、最後には神様を心の中に迎え、神様の愛を占領する所にとどまるようになるのです。
宗教の目的は、ただ神様のみ旨の完成にあります。
宗教はそのために貢献しなければなりません。
数多くの宗教が善を語り、愛を語りますが、その善と愛は、国家や民族、宗教圏内にとどまるものではなく、これを超越して世界的基盤を越え、人類に向かう善と愛を論じるところまで連結されなければなりません。
数多くの宗教が善を語り、愛を語りますが、その善と愛は、国家や民族、宗教圏内にとどまるものではなく、これを超越して世界的基盤を越え、人類に向かう善と愛を論じるところまで連結されなければなりません。
(同1268ページ)
世界には、神様を唱える教派が多くあります。
しかし、教派圏内で唱える神様は、もはや必要ありません。
教派を超越して、全天地の中心として信じ、唱えることができ、全体に代わって神様を「私の父」と呼べる資格がある存在が集まってこそ、この地上に神様を迎えることができるのです。
教派を超越して、全天地の中心として信じ、唱えることができ、全体に代わって神様を「私の父」と呼べる資格がある存在が集まってこそ、この地上に神様を迎えることができるのです。
神様は、必ず地上に宗教を立てて世界の救援摂理をされるのですが、その宗教は世界性を帯びるようになります。
ですから一つの宗教を模索しなければなりません。
その宗教の教理には、一つの世界をつくるという内容がなければならないのです。・・・・(中略)・・・・
そこでは、自分に味方する人や自分の民族、自分の文化背景と一つになるだけでなく、自分と反対の内容をすべて吸収し、消化できる能力がなければなりません。
自分が好きな人とだけ一つになるのではないのです。
そこでは、自分に味方する人や自分の民族、自分の文化背景と一つになるだけでなく、自分と反対の内容をすべて吸収し、消化できる能力がなければなりません。
自分が好きな人とだけ一つになるのではないのです。
自分の恩讐は取り除いてしまい、自分の味方とだけ一つになるためのの主張ではなく、恩讐までも漏らさず、一つになろうという宗教の内容がなければなりません。
このような宗教を神様は願い、イエス・キリストもそのような宗教を目標にしてきたのです。
このような宗教を神様は願い、イエス・キリストもそのような宗教を目標にしてきたのです。
(同1259ページ)
昔は、自分の国を中心として生きればよかったのですが、今は国を越え、世界とともに生きなければならない時代です。
このことは、国を治める政治家だけでなく、宗教界でも問題になります。
四大聖人によって世界的な版図を備えた宗教圏でも、問題になっているのです。
四大聖人によって世界的な版図を備えた宗教圏でも、問題になっているのです。
宗教も、自分の宗派的、あるいは地域的な文化背景を中心として進んではいけない時代になったので、宗教間において和解をしなければならないと考え、私は今まで数十年間、超教派運動と韓国宗教協議会の活動をしてきました。
今や、世界的に宗教連合体制を構成することができなければなりません。
(同1273ページ)
ユダヤ教とキリスト教とイスラームが一つになるのは、簡単なことではありません。
一つになろうとすれば、どのようにしなければならないのでしょうか。
イエス様、ムハンマド、ユダヤ教のモーセとアブラハムよりも、さらに大きな愛の心、父母の心情をもって耐えることができなければなりません。
そのように耐えられるか、という問題が重要です。
あとから、「ムハンマドも愛し、イスラームも愛した。イエス様も愛し、キリスト教も愛した。モーセも愛し、イスラエルも愛した」と言うことのできる結果的存在が出てこなければなりません。
1990年8月16日、第二回「世界宗教議会」を開催しましたが、私はいったい何ゆえに宗教議会をつくり、宗教界に問題を起こすのでしょうか。
一つの教派でも一つになれないのに、超教派的な面で一つにしようとするのは正気を失った話です。
いくら統一教会の責任者としてそのように歩んでいるといっても、世界に散らばっている統一教会の人々が、そのようにできるのかというのです。
ですから、それを教えてあげなければなりません。
(同1278ページ)
私は、1981年に「神様会議」を始めました。
「神様会議」というタイトルを中心として、神様について自身のある人はみな来て、話をしなさいというのです。
仏教、儒教、イスラーム、ヒンドゥー教、ユダヤ教など、全体が集まって、神様についてすべて話してみなさいというのです。
神様の摂理完成の道は、宗教を超越してこそ行くことができると分かったので、「神様会議」をするのです。
宗教界が通じ合うことのできる穴を開けようというのです。
超宗教的な立場で壁を取り壊さなければなりません。
超宗教、超教団的な基準を連結させ、世の中を救うための神様の摂理完成を期することができる終着点に向かって、一つの道に前進するためには、これが必ず経なければならない過程であることが分かりました。
また、私がいくら愚かだと批判されても、神様のみ旨の中で誰かがこの道を開拓しなければならないということが分かったので、莫大な犠牲を覚悟して開拓して来ました。
そのようにしたところ、今や宗教界でも私が有名になったのです。
(同1279ページ)
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