2022年2月2日水曜日

堕落しなかったら

堕落していない本然の人間は、神様の聖殿になります。
アダムとエバが堕落していない先祖になったとすれば、その心の中には神様が共にいらっしゃるのです。
・・・・(中略)・・・・
イエス様も、「私は父の中におり、父は私の中にいる」と言いました。
(天聖経374ページ)

アダムとエバが善悪の実をとって食べずに堕落しなければ、どのようになっていたでしょうか。
神様の圏内で結婚して神様の愛を受け継ぎ、神様の生命と血統を受け継いで直系の子女になっていたのです。
このような人々には救世主が必要ありません。修養が必要ありません。
直系の子女は心が一つになっているので、神様のように全て通じるようになっています。
一体になってすべて通じます。
(同115ページ)

人間は、堕落していなければ、神様が分かるようになっています。心で分かるのです。世の中が何と言おうと、自分がどこに行くべきかが、自然に分かるというのです。体は自然に心と一つになるようになっているのであって、心と体が闘うようにはなっていません。堕落したので、角度が合わないのです。
この角度を合わせようとするので、宗教世界では必ず体を打ちなさいというのです。
(真の父母経49ページ)

堕落していないアダムとエバは、人類の真の先祖です。
真の父と真の母です。
体をまとった人類の真の父母です。
そのアダムとエバが堕落したため、人類がサタンの子孫になったのです。
アダムとエバが堕落せずに、本然の神様の心情に通じて、神様が喜ばれる中で、善男善女として聖婚式を執り行い、人類の真の父母になったとすれば、万物はアダム、エバと和動しながら、喜んでその家庭に必要とされるものになったでしょう。
(真の父母経25ページ)

アダムとエバが人類の真の先祖になっていれば、救い主も必要無く、宗教も必要ありません。
宗教が必要ない善なる世界は、神様が喜ばれる世界です。
神様は、地上にそのような世界がつくられることを願われるのですが、地上にそのような世界はつくられませんでした。
(同29ページ)

人間は、神様の真の愛の対象となるように創造されたのです。
神様は人間を御自身の息子として創造したというのです。
ですから、神様は私たち人間の真の父母です。
神様が最初の男性であるアダムと最初の女性であるエバが、真の愛を中心として純潔なままで成長することを願われました。
神様は、アダムとエバが真の人となることを望まれました。
神様はこのように美しく奥妙な自然世界を、すべての生命が成長できる環境として創造されました。
そして人間は、このような環境の中で成長したのです。
しかし、神様の主な関心は、人間の内的な人格の成長にありました。
真の愛を経験することにおいて、神様は私たち人間が、神様の真の愛を体恤し、完全な存在に成長するよう計画されたのです。
そして、神様は愛の力をいかなる力よりも強く創造されました。
天の愛と法度の領域の中で、人間をして真の愛の力を経験させることによって、私たち人間が父母であられる神様にだんだんと似ていくのです。
無限な真の愛を所有するために、私たちはまず責任意識を学ばなければなりません。
人間が真の愛を通して神様と一つとなったとき、人間は、神様に似た完全な人格体として、真の愛の完全な実体となることができるのです。
そのような意味から、神様は人間の幸福の本質と生命であり、理想であるということができます。
アダムとエバは、神様の愛の中で成長し、真の個人となり、真の夫と真の妻となって子女を養育することで真の父母になるようになっていました。
人生の成長段階を通し、人間は徐々に神様の愛を経験します。
個人は、父母の愛を通して子女の心情を知り、兄弟姉妹の愛を通して兄弟姉妹の心情を、配偶者を通して夫と妻の心情を、そして子女に対する愛を通して父母の心情を知るようになります。
家庭は、このような四大愛と心情圏を確立する基盤になるのです。
家庭は、愛と幸福、生命、そして血統の基盤です。
私たちは家庭以外の如何なるところにおいても、このような四大愛と心情圏を経験することはできません。
私たち人間は、実際的な経験を通してのみ愛を知るようになります。
個人、家庭、社会、そして環境の真の完成は、家庭の中における真の愛の実現に基づいています。
(平和経1380ページ)

人類が堕落せずに本性の善の父母を通して生まれていれば、「神様がいるかいないか」という論争は必要なかったはずです。赤ん坊がおなかの中でお乳を飲む方法を学んで出てくるのではないのと同じように、人間の先祖の堕落がなかったならば、人間は誰でも自動的に神様を父として侍って暮らすようになっていたのです。
人間の先祖としてつくられたアダムとエバを、神様御自身の実体として立てるために、神様の男性性稟はアダムの心のなかに、そして女性性稟はエバの心のなかに定着して永生するようになっていたのです。
・・・・(中略)・・・・
しかし、堕落によって人類は、すべてのものを失ってしまいました。
忘却の世界へ落ちて、神様がいるかいないかさえも分からない青盲の人になったのです。人類史上、これより悲惨な事件がどこにあるでしょうか。
もし神様に似た人間の先祖アダムとエバが堕落せずに成長し、完成して人類の父母の位置を確保していたならば、人類は、彼らの姿を通して生きていらっしゃる神様の実在をいつでも認知できたはずです。
そして、「神様はいる」、「神様はいない」という論争は考えることもできなかったはずです。神様は、人類の真の父母として、永遠に私たちと苦楽をともにされたことでしょう。神様は、私たちの生の中心であり、根になっていたはずです。
私たちが生活の中で、五官を通して直接神様を感じ、神様の実在を知るようになって、初めて本当に神様を知っているということになるのです。言い換えれば、神様の実在を体恤しなければならないということです。
このように、神様の実在を私たちの生活の中で直接体恤して生きるようになれば、私たちは、自動的に神様のみ旨とは何かをその一瞬一瞬で感じ、自ら進んですべてのことに臨むようになり、罪を犯そうとしても犯せない完成した人間の姿になるはずです。
そのようになっていれば、無形でいらっしゃる神様は、人間の実体をもって主人的人格と形体を備え、有形世界である地上界の万物万象はもちろん、霊界までも主管されるようになっているのです。
このように、神様をはっきりと知ることは、人間の生涯において最も優先的で重要なことなのです。
(平和経283ページ)

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