2023年9月30日土曜日

人間は万物の霊長

 神様は、アダムとエバの外的で生物的な成長のための足場として、美しく繊細に準備した環境である万物世界を創造されました。このような環境の中で人間は成長し、発展します。
神様のより深い関心は、人間の内的性稟と愛の人格にありました。彼らは、真の愛の経験を通し、神様の真の愛に似て完成するのです。神様は、愛の力を内的で非物質的な力の中で最も強力なものとして創造されました。(天聖経643ページ)

「万物之衆惟人最貴(マンムルチチェンユインチェキ:あらゆるものの中で人間が最も貴い)」という言葉はもっともな話です。神様も愛の相対が必要で、人間を造ったのです。中心である人間を手本として、和合し、吸収されるようにすべての万物を造ったのも、愛の理想のためです。(天聖経643ページ)

神様の創造過程を探ってみれば、神様は万物を先に創造された土台の上に、最終的に人間を造られました。人間は、最後に造られた傑作です。神様を中心としてすべてのものが始まったのです。人間の創造を終えることによって、神様と人間、そして万物が平衡を保った立場で統一されることを願われたのです。人間は、神様を中心とする霊界と肉界を接触させる媒介体の使命を持っているのです。(天聖経644ページ)

神様が人間を万物の霊長として立てるとき、天地の全ての環境を代表したその中心として立てました。そのため、全ての人間は、宇宙の中心になろうと主張できる自主権を持っているのです。それは、猿の世界やライオンの世界、虎の世界にはありません。人間世界にだけあるのです。 
人間は万物の霊長だと言いますが、万物の根本となる霊長は神様です。人間には霊があります。人間はその霊の中の長
であるため、結局、神様と直結させて霊長と言うのです。万物の霊長は、人間それ自体だけではなることができません。人も被造物なのに、どのように万物の霊長になるのかというのです。
被造物とは相対的結果体です。被造物としてだけでは原因に通じることができず、原因を占領することができません。(天聖経395ページ)

人間が万物の霊長という特別な価値をもって生きる条件とは何でしょうか。万物よりも先にあり、それ以後にも永遠に存在する神様の心情をもつことです。神様の心情をもてば、何よりも先立つことができます。中心、すなわち根と関係を結んでこそ、人間の価値が決定されるのです。それがすなわち心情です。
この心情は、太初から神様と共にあるものです。この心情をもって号令をかけるとき、万物は、「はい、おっしゃるとおりです。ありがとうございます」と言うでしょう。そのようになっています。しかし、神様も万物もなぜ悲しむのでしょうか。それは、この心情関係が断ち切れたからです。この断ち切れた心情関係をつなぐためのものが復帰歴史であり、復活の歴史です。心情関係がつながれば、神様に対して「あなたは私の父であり、私はあなたの息子、娘です」と言うことを否定する論理はありません。いかなる人も否定できません。父子の間の心情関係は、いかなるものによっても否定できないのです。(天聖経649ページ)

大洋を行き来する大きな船が破損する危険が生じるときは、その船の中で暮らしていたねずみが錨綱をつたって陸地に逃げるという話を聞いたことがありますか。
微々たるものにすぎない動物も、未来の自分の生死の境を見極められるのに、万物の霊長である人間は、それができないのです。これは堕落したためです。(平和経581ページ)

愛の理想を中心としてみるとき、動植物の世界の愛の関係は、すべて繁殖を前提としてのみ行われます。しかし、人間だけはその例外です。人間は、夫婦の愛の関係において自由を享受します。それが万物の霊長たる特権です。神様は、息子、娘である人間が無限の喜びを持つように祝福したのです。

神様が許してくださった真の自由は、責任性を前提とします。もし責任性なしに個々人が愛の自由だけを主張して実践すれば、どれほど大きな混乱と破局がもたらされるでしょうか。
至高な愛の理想を達成する人間の完成は、愛に対する責任性をもつときに可能なのです。
その責任性とは、次の三つを考えることができます。

第一に、人間は愛の自由を下さった神様に感謝しながら、自己修養、自己管理によって自由な真の愛の主体となる責任です。人における愛の責任性は、法や世間体のために守られるものではなく、神様との生きた縦的な関係の中で、自己主管、自己決断によって守られるものです。
第二に、相対に対する責任性です。人間は本性的に、自分に対する相対からの愛が分けられることを願いません。夫婦間の横的な愛の関係は、父母と子女の縦的な愛の関係とは異なり、分けられれば、もはやその完全性が破壊されます。これは夫婦間では絶対的な愛の一体を形成するようになっている創造原理のためです。人には、絶対に自分の相対のために生きる愛の責任性があるのです。
第三に、子女に対する愛の責任性です。子女たちの誇りと幸福の基地は父母の愛です。子女たちは、真の愛で和合一体化した父母を通して生命が生まれ、そのような愛の中で養育されることを願います。父母の子女に対する最も貴い責任は、外的な養育だけでなく、彼らの霊性を完全にしてあげる真の愛の生きた要素を提供することです。家庭が貴い理由はそのためです。生活的な経験を通して体得する真の子女の心情、兄弟の心情、夫婦の心情、父母の心情は、真の家庭以外にいかなるところでも得ることはできません。(平和経116ページ)

2023年9月6日水曜日

世界言論人会議

 世界言論人会議の第1回は  1978/10/19  ニューヨーク ウォルドルフ・アストリア・ホテルで開催されました。
2001/01/15に東京で第18回が行われています。手元の資料(平和経)ではこれが最後で、科学の統一に関する国際会議に比べると、掲載ページ数もこちらの方が少な目ですが、過去に経験したことを交えながら、やや大らかな口調のように感じられます。
ここでも、「科学の統一に関する国際会議」と同じく、私の独断でほんの一部を掲載します。

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1982/10/04 第五回 ソウル ロッテ・ホテル
テーマ:「社会の諸問題と言論の責任」
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朝鮮戦争が起きたとき、私は北朝鮮の共産刑務所に収監されていました。その刑務所の悲惨な状況は、とても言葉では表現することができません。そこに収監された政治思想犯たちのある者は、六か月足らずで死んでいきました。
私は神様の特別な御加護のもと、三年近い長い歳月をその刑務所で耐え抜きました。仁川上陸作戦に続いて国連軍が北へ北へと攻め上がっていく中で、焦った共産主義者たちは、収監されていた政治思想犯を処刑し始めました。私に最後の瞬間が迫ってきていました。ところが、私は連れていかれて処刑される前の日に、劇的に国連軍の助けによって解放されるようになりました。・・・・(中略)・・・・
私は、マッカーサー元帥に生前に会うことができませんでした。しかし、この朝、幸運なことに、私たちはマッカーサー元帥の甥である、ダグラス・マッカーサー二世大使を基調演説者迎えることになりました。(平和経817ページ)
(iyo )ここで言う「北朝鮮の共産刑務所」とは興南にある肥料工場で、2年8ケ月間強制労働に服しました。
仁川上陸作戦により、先生はマッカーサー元帥に救われたということができます。甥のダグラス・マッカーサー二世は駐日大使をしていました。

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1984/11/20  第七回 東京 ホテル・ニューオータニ
テーマ:「言論の信頼性と社会的責任」
(iyo )この時、先生は収監中で、アメリカのコネティカット州・ダンベリー刑務所からメッセージを送っています。
ダグラス・マッカーサー2世はこの時も参加しています。総理大臣経験者も複数参加。

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1990/04/09 第十一回 モスクワ ソビン・センター
テーマ:「真の統一と一つの世界」
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アダムとエバは、まず自分たち同士が愛の中で一つになってこそ、神様の愛の完全な対象となることができたのです。したがって、アダムとエバが一組の成熟した人間となって神様に似るようになり、神様の愛を受け、また愛を神様にお返しするためには、成長と成熟の期間を必要としたのです。真の愛の模範は、仕えられることではなく他に仕えることです。神様は、最初に御自身の愛の対象を創造されるとき、御自身のすべてのエネルギー、すなわち御自身のすべてを100パーセント投入されました。このようにして神様は、真の愛の模範をつくられたのです。言い換えれば、神様は、御自身を完全に消耗し尽くす真の愛の伝統を立てられたというのです。そして真の愛は宇宙の中心になったのです。人間を創造されるとき、神様は御自身を完全に投入し尽くしました。神様は御自身を全く空にされたのです。
大気中に低気圧の部分が生じると高気圧の部分は自動的に低気圧の方に引っ張られていくようになります。同様に誰かが他に絶対的に侍るようになるときには、常にその人を満たしてあげるためにエネルギーが結集するようになります。したがって、御自身の完全な愛の対象を創造するために神様がくださったすべての愛を、男性と女性は究極的に神様にお返ししてさしあげなければなりません。
ただ愛のみがすべての障壁を超越します。私たちが真の愛の中で神様と一つになるとき、肉的、霊的被造物に対する私たちの主管が可能になります。徹底して他のために生きるとき、私たちは初めて神様の本質に到達することができます。そうすれば、神様の思いが人間の思いとなり、神様が感じられることが自然に人間に伝達されるのです。このように生きていくとき、人間は神様の心情と愛に共鳴する器となり、二つの音叉が共鳴するように人間と神様も常に共鳴するようになるのです。(平和経837ページ)
(iyo )反共主義者の先生がモスクワで神様を語るというのは、たいへんな冒険というか暴挙というか!・・・・実際には国賓としての待遇を受けたようです。この時はNHKの人気記者も参加していました。

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1992/08/22 第十二回 ソウル ヒルトン・ホテル
テーマ:「二十一世紀における言論人の使命」
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今日、自由世界の中には、共産主義に劣らぬ社会悪が台頭しています。それは、物質中心の人本主義思想であり、そこから派生する極度の個人主義と利己主義の膨張です。いつの間にか私たちの社会に、黄金と財物が神として君臨するようになりました。
私は、人本主義を頭から排撃するわけではありません。問題は、社会における人本主義が、徹底した無神論に立脚していることにあります。もし人本主義によって神様の実在と創造主の創造の意義が否定されるならば、人間は一握りの土に転落してしまうか、せいぜい一つの機械とみなされるでしょう。
これが、マルクス・レーニン主義が犯した過ちではないですか。神はいないと考えるのですから、人間は動物と大した違いがありません。そして、そこには宗教に基づく道徳があり得ず、霊魂や永生を認めないので、人間は人間に対して無慈悲になり、人間が人間に対して行うあらゆる暴悪を正当化することが可能になるのです。
このような風潮の中にあって、共産主義の解放に勝利感をもつべき自由世界の先進諸国の様相はどうでしょうか。極端な利己主義と個人主義は享楽主義を生み、すべての社会生活に腐敗が氾濫するようになりました。家庭は破綻し、政治的な腐敗は深まり、経済は衰退し、未来の主人である若者たちは、非道徳と麻薬と犯罪によって、その良心が姿をくらましつつあります。そのような彼らにどうして二十一世紀の主役を期待することができるでしょうか。(平和経858ページ)
私は昨年の11月30日、不倶戴天の怨讐である共産主義国、北朝鮮を訪問しました。・・・・(中略)・・・・
彼(金日成)は私のことを怨讐視し、生命を奪おうとしていた人であり、三年もの間、監獄に閉じ込めた人でした。私はその怨讐を抱擁したのです。私の胸中に彼が怨讐であるという思いがあったとしたら、どうしてこのようなことが可能だったでしょうか。
私は、父母の心情で北朝鮮の地を訪ねていきました。そして、父母の心情で金日成主席を抱擁しました。私は真の愛を実践するために行ったのです。そこには闘争の概念は無く、憐憫の情があるだけでした。(平和経860ページ)
(iyo )「三年もの間、監獄に閉じ込めた」とは、前述の興南収容所でのこと。

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1997/11/26 第十四回 ワシントンDC JW・マリオット・ホテル
テーマ:「世界化と世論、二十一世紀を展望しながら」
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私は既に「ソ連共産帝国は間もなく終焉を告げるであろう」と警告したことがあります。1985年、ジュネーブで開かれた第二回「世界平和教授アカデミー」世界大会のテーマを「ソ連共産帝国の滅亡」とするように世界の碩学たちに通達しました。
学者たちは、初めはもちろん当時の米ソ関係を見て、私のこのような主張にとまどいながら、非常に困り果てた様子でした。しかし、私の説得力ある主張を受け入れて、その大会のテーマが私の提案通り採択されました。
第十一回「世界言論人会議」が1990年4月、モスクワで開催されたとき、私は「ワシントン・タイムズ」を中心につながっている自由世界の言論人たちを多数伴い、ゴルバチョフソ連大統領(当時)に会ったのです。
私は、ゴルバチョフ大統領に会ったとき、無神論的唯物論の未来は自己破滅しかなく、唯物論を放棄して、宗教を中心とした霊的価値観の復活を試みるように忠告しました。(平和経873ページ)
(iyo )モスクワ訪問や北朝鮮訪問の内容は先生の自叙伝により詳しく載っています。
韓国版は金寧社から出版されていますが、日本語版は、
「平和を愛する世界人として」 文鮮明自叙伝 文鮮明著
翻訳・編集協力:株式会社 光言社   発行所:株式会社 創芸社 
金寧社は韓国では大手出版社のようで、編集にあたっては宗教用語の使用は控えめにされているとか。

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2001/01/15 2001世界言論人会議 東京 京王プラザ・インターコンチネンタル・ホテル
テーマ:「新千年における言論の統一された方向」
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人間の尊厳性の根拠は、どこにあるのでしょうか。人類は本来、神様によって、神様の子女として創造されました。私たちが神様のことをしばしば「父」と呼ぶのはこのためです。そして、私たちの目標は、神様に似た子女として成長し、神様の神性を相続することです。さらに神様を中心とした個人は、同様に神様を中心として生活する家庭を形成するようになります。結局、全人類は、この真の家庭で、真の父母であられる神様の愛と生命と血統を受継ぐようになるのです。
人間社会における宗教の役割は、人間と神様の関係を向上させる上で重要なものです。そのような意味で、信仰は必須的なものです。皆様がいかなる宗教を信じたとしても、その宗教が提示する皆様と神様との関係が核心となります。特に人間が信仰を通して、絶対、唯一、永遠、不変であられる神様と一つになるときに、人間の内的価値も、絶対、唯一、永遠、不変になります。ですから、信仰は、人間の尊厳性に必須不可欠な価値をもっているのです。
そのような意味で、信仰の自由、信仰生活、信仰に基づいた活動などは、理想社会を建設するための柱になるのです。このような信仰的価値観を土台とした人間の生活は、ために生きる神様の真の愛の世界へと人類を導いていくでしょう。すべての宗教が、信仰を土台として真の愛を実践するとき、世界は神様のもとの一つの兄弟姉妹として結ばれるようになるのです。(平和経879ページ)


2023年9月4日月曜日

科学の統一に関する国際会議

 科学の統一に関する国際会議は1972年に始まり、ほぼ年に1回開催され、2000年に第二十二回まで続きました。
その間、世界中の科学者が集まるようになり、ノーベル賞受賞者も30人ほど含まれていたとか。
講演された先生の文章の多くは私の手元にある平和経にも掲載されています。
先生がアメリカのダンベリー刑務所に収監されていた時にも、会議は開催されています(1984年)。

なぜ、宗教家の立場で、こういうものを主催したのか?・・・・先生の講話から探してみると・・・・
「世界で我こそはというノーベル賞受賞者などの碩学たちを、文総裁が押したり引いたりしながら「ああしなさい、こうしなさい」と言えるでしょうか。大会を一度開くたびに途方もない予算がかかる国際大会を、なぜ毎年行ったのでしょうか。
二十世紀に入り、驚くべき速度で発展した科学文明は、人類に豊かな生活を享受できるようにしてくれましたが、一方では自然と環境の破壊、大量殺傷武器の開発、大気オゾンの破壊など、暗い影を落としたのも事実です。科学技術を利己的な動機で使用するとき、科学技術は人類を破滅させるかもしれない凶器に急変するのです。
科学的理性を固く信じた人類は、二度にわたる世界大戦を経ながら、人間の野蛮性に対して驚愕するようになり、科学的理性に対する信頼が落ちるようになりました。また現代産業社会において、人間は物質文明の奴隷となってしまいました。これらすべての現象は、科学の誤用から来る結果なのです。
科学は、科学者たちが好んで使う言葉のような「価値中立的な学問」なのではありません。科学こそは、人類のために正しく使われなければならない「価値指向的な学問」なのです。
私は、毎回開催される「科学の統一に関する国際会議」の主題を「絶対価値の探求」と関連させて設定しました。」(平和経1096ページ)

以下は、公演文の中から、ほんの一部を私が独断で拾ったもの。

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1972/11/26 第一回 ニューヨーク ウォルドルフ・アストリア・ホテル
テーマ:「世界の道徳啓蒙に対する統一科学の任務」
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人間をはじめとした万物は、すべて質料的な側面と形相的な側面とを兼ね備えた統一的存在であることは、誰も否定できないでしょう。人間は心と体の統一体であり、動物は本能と体、植物は生命と物質、そして無機物は作用と物質の統一体です。
ところが存在論的に見るならば、宇宙は結果の世界であって、そこには必ずその究極の原因がなければならないとしたときに、唯物論はそれを物質であると主張し、唯心論、すなわち観念論はそれを精神であると主張しています。
しかし、結果の世界がそのような統一体であることから推論すると、その原因も、質料と形相の二つの要素を統一的に持ち合わせている一元的存在でなければならないのです。
一元的で統一的な原因であってこそ、そこから統一的な結果の世界が生じるのであり、また統一的結果には、必ず統一的で一元的な存在がその原因にならなければならないのです。
・・・・(中略)・・・・
したがって人間生活を向上させるにしても、肉身の物質的生活だけを改善しては完全な幸福は実現されないのであり、物質と精神の両面の生活を統一的に同時に改善していくときに、初めて真の幸福が到来するようになるのです。
(平和経712ページ)

今日まで人間は、輝かしい科学的発展を成し遂げることによって、創造的生活面においては神様に似たと言うことができますが、愛の生活においては、全く神様に似ることができずにおり、そのために悲しみと苦痛と不幸が継続しています。愛は調和なので、愛のないところに調和はあり得ず、調和のないところに平和や幸福はあり得ないので、ここから様々な悲惨な様相が起るようになるのです。(平和経714ページ)

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1973/11/21  第二回 東京、帝国ホテル
テーマ:「現代科学と人間の道徳的価値観」
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人間が科学を発達させた動機には、様々なものがあると思いますが、究極的にはあくまでも、人間共同の福利、すなわち人類共同の平和と繁栄を実現することにあると見て間違いないでしょう。
しかし、科学の領域が細分化され、その方法がより一層分析主義へと流れたために、人類共同の福利という価値の方向とは少し異なる方向に発展してきたのです。
人間が科学に期待したことは「人類共同の福利」だったのであり、主体である人間の幸福でした。これに対して、科学が成し遂げた成果というのは、対象としての物質的環境の改善、また生活手段の開発だったのではないでしょうか。
人間が望んだのは、主体の福祉でしたが、科学が成し遂げたのは、対象の改善だったのです。
したがって、私は、人間の要望と科学の成果との不一致から、人間の主体性の喪失がもたらされたのではないかと思います。科学では、生活環境と手段の改善、開発のような対象の問題解決に力を注ぎながらも、それと同時に、主体性の問題も共に扱うことが望ましいことであると言うことができます。(平和経719ページ)

私は人間の姿を、心身の調和が取れた統一体と見ています。価値または善の目的を中心として、精神と肉身が調和の取れた統一を成し遂げている統一的存在が本然の人間なのです。
ですから、科学の本来の姿というのは、このような人間の二重性に似て、精神的側面と物質的側面の両面を統一的にもち合わせたものではないでしょうか。ここで精神的側面とは、道徳的価値の領域のことであり、物質的側面とは、物質の現実を扱う従来の科学の領域を意味します。(平和経720ページ)

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1976/11/27  第五回 ワシントンDC ヒルトン・ホテル
テーマ:「科学の調和と絶対価値の探求」
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いかなる存在も、何らかの力なしでは、生存し、作用することができません。各存在の固体内で作用する力と、存在と存在の間の作用を可能にする力があります。
それでは、このような力はいかにして生じるかということが問題です。力が生じるためには、それに先立って、何らかの主体と対象がなければ絶対に生じることができません。
すなわち、主体と対象の関係が先有条件となって、力が生じるのです。
例えば原子にも、主体である陽子と対象である電子があって、初めて作用するのです。
力の作用は、主体と対象が一つになるための目的から始まるものなので、力が先か、主体と対象が先かと問う場合は、間違いなく主体と対象が先であって、力の作用は、主体と対象が一つになるための過程的現象なのです。
そして、この主体と対象との関係の差の軽重によって、力の作用がそれぞれ異なるので、様々な力が作用するたびに、その方向性と目的性が変わるようになっており、それによって多種多様な存在世界が形成されるのです。
このように、いかなる主体と対象の間の力の作用にも、方向性と目的性を帯びて作用するようになっているのは、第一原因的存在の中で基本的な主体と対象が先に存在し、方向性と目的性を帯びて作用しているからなのです。
固体内で主体と対象が完全に一つとなった存在は、他の存在と関係を結ぶために、主体的立場、あるいは対照的立場を取り、それと一つになることによって、より大きな方向性と目的性を帯びた存在へと発展するのです。
主体的存在と対象的存在が作用するところでは、常にある共同利益のためにやりとりしながらより大きな存在に発展するのです。(平和経729ページ)

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1982/11/25  第十一回 フィラデルフィア フランクリン・プラザ・ホテル
テーマ:「絶対価値観」
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宗教ごとに、その教理が成立する根拠としての絶対者がいます。ユダヤ教の絶対者はヤハウェであり、キリスト教の絶対者は神様であり、イスラームの絶対者はアッラーです。儒教や仏教は絶対者を明示していませんが、儒教の徳目の根本である「仁」は天命と連結するので、「天」が儒教の絶対者と見ることができ、仏教では、諸法は常に変化しており、真理は諸法の背後にある「真如」から見出すことができるとしているので、「真如」が仏教の絶対者と見ることができるのです。
ところが、そのような絶対者に関する説明が、非常に曖昧です。絶対者の属性はどのようなものであり、なぜ創造し、創造の動機は何であり、どのような方法によって創造し、いったい神様(絶対者)は実際に存在するのか、などに関する解明が、宗教ごとに明確になっていません。したがって、各宗教の徳目が成立する根拠が明確でないので、今日の宗教の説得力が弱まっているのです。
全ての宗教の教えである徳目、すなわち実践要目がきちんと守られるためには、その宗教の本体である絶対者の属性と創造の目的、その絶対者の実在性などが十分に明らかにされなければなりません。中世時代、または近世以前までは、人間の頭がそれほど分析的、論理的でなかったので、「あなたの隣人をあなたの体のように愛しなさい」、「王に忠誠を尽くし、親に孝行しなさい」と言えば、無条件にその教えが正しいと思って従順に従いましたが、科学が発達した今日においては、人間の精神がとても分析的になり、論理的になっているので、いくら宗教指導者が「このようにしなさい」と教えても、「なぜそうしなければならないのか」とその理由をしつこく尋ねてきます。したがって、その疑問に答えてあげなければ、その教えは説得力を失ってしまうのです。
宗教の教えに対する疑問には、様々なものがあります。
・・・・(中略)・・・・
「じっとしていてもよい神様が、なぜ宇宙を創造したのか」、「神様の創造の目的は何か」、「創造には方法があるはずだが、その方法とは何か」・・・・(中略)・・・・などの疑問です。
このような疑問に対して合理的な答えが与えられない限り、今日の有識者たちは、宗教を受け入れようとしないのです。・・・・(中略)・・・・
歴史的にキリスト教の世界であるヨーロッパの土壌に、近世以後、唯物論と無神論が発生し、今日、全世界を席巻しているのは、その根本原因が実にこの本体論の曖昧性にあるのです。(平和経753ページ)

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1984/09/03  第十三回 ワシントンDC マリオット・ホテル
テーマ:「絶対価値と新しい文化革命」
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私たちがどう考えようと世界は一つです。ある分野が他の分野よりも、ある事実に関して完全な見解をもっているといった考えや、異なった分野における発見や発展は互いに関連性がないという考えは誤ったものです。
科学や学問のあらゆる分野は、互いに絡み合っています。すなわち、各分野はそれぞれ特異性をもってはいますが、実際は、全体における部分的な見解にすぎないのです。すべての研究分野が、事実に関する統合された見解を形成するために、共に研究するこということは、人類の全体的な進歩や幸福にとって有益なことです。
・・・・(中略)・・・・
ほとんどの科学者と学者たちが、平和と繁栄を実現しようという切実な熱望をもってたゆまぬ努力を続けてきたにもかかわらず、貧困と文盲、疾病と分裂と戦争は、先進諸国でもいまだになくなっていません。科学と技術は非常に発展しましたが、人類は、悲しみと苦痛と貧困によって苦しみ続けているのです。
多くの指導者たちは、このような不幸を取り除き、真の平和と安定を実現しようと努力していますが、世界では平和に対する形ばかりの約束が繰り返されているだけです。民主的資本主義や共産主義的社会主義のいずれも、世界の問題を解決することができずにいます。どちらも、世俗的人本主義をして人間存在を唯物論に陥らせ、生命の価値を落として
しまいました。いわゆる自由世界といわれる体制は、その無気力と方向性の喪失によって、このような状況をもたらし、共産世界は唯物論という理念体系によってこのような事態を引き起こしました。
目的喪失の状態が全世界に広がり、混乱をより一層加重させています。なぜこのような状況が起きるようになったのでしょうか。その主要な原因は、人間の行為を規制する価値基準が徐々に弱まったからです。倫理と道徳がその力を失ったために、善の基準というものが、ほとんどなくなってしまったのです。このような力の喪失の原因は、部分的には科学の基盤が誤った方向へと引っ張られたことにあります。
価値中立的であろうとするあまり、科学はその発展過程において、人間性と道徳的価値に関する問題を除外してきました。科学は次第に分化し、各分野はより一層専門化され、分析的、物質的になり、道徳と価値に関する問題については顧みなくなりました。その結果、人間の科学に対する支配が、この地球星において誰も人間の運命を確信することのできない状況にまで弱まってしまったのです。
価値と道徳を喪失するようになった、もう一つの理由は、過去の価値と道徳の基準では、現代の有識者たちをこれ以上
満足させることができないということです。新しく妥当な道徳と倫理は、現代人にとって明確で適応し得る新しい価値基準に由来すべきです。・・・・(平和経775ページ)

(iyo )この会議では、先生はダンベリーに収監されていたはずなので、代読により発表されたと思います。

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1995/08/22  第二十回 ソウル シェラトン・ウォーカーヒル・ホテル
テーマ:「真の知識、真の家庭、そして世界平和」
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私は、共生、共栄、共義の社会建設を教えてきました。理想世界は、経済的には共生主義であり、政治的には共栄主義であり、そして倫理的には共義主義の社会です。
共生主義とは、神様の真の愛を基盤とした共同所有をその中心内容とします。共生主義社会の基本となる典型は家庭です。単純な物質的所有だけではなく、神様の愛を基盤とした共同所有です。家庭におけるすべての財産は、たとえ法的には父母の名義になっていたとしても、実質的には父母と子女、すなわち全家族の共同所有となっています。それと同時に、家族の個々人は、各々部屋と衣類、そしてお小遣いを持つようになります。
このように、家庭においては、家族が共有を基盤として個人的な所有も認められ、全体目的と個体目的が調和するようになっています。このような愛が基盤となった家庭の理想的な所有形態が社会、国家、世界へと拡大されたものが、理想社会の所有形態です。
・・・・(中略)・・・・
共栄主義とは、神様の真の愛を基盤として共同参加し、自由、平等、幸福の理想が実現される政治を追求する主義です。共同政治参加の形式は、代議員を選出することになります。しかし、政治の単位が愛中心の家族関係の拡大であることを理解するとき、代議員の候補者は互いに敵対関係にはなり得ません。一人の神様を父母として侍る兄弟関係によって周辺から推薦され、奉仕する使命感をもって候補になるのです。
・・・・(中略)・・・・
共義主義とは、真の愛を中心とした普遍的な倫理、道徳を守り、構成員すべてが善と義の生活を追求する主義のことをいいます。これは、神様の真の愛による絶対価値のもとで、万民が倫理と道徳を普遍的に実践する道義社会を目指す思想となるのです。
理想世界は、理想家庭と完成した人間を前提としています。真の愛による理想的な父母、理想的な夫婦、理想的な子女の統一的な調和が理想家庭の要件になります。また、完成した人間は、真の愛によって心身が調和統一を成し遂げた人間です。このように完成した人々が、真の愛の基地である家庭生活、またその拡大である社会生活において、主体的に善と義を行う最高の世界、道義世界が正に理想世界なのです。(平和経807ページ)

人間は万物の霊長

 神様は、アダムとエバの外的で生物的な成長のための足場として、美しく繊細に準備した環境である万物世界を創造されました。このような環境の中で人間は成長し、発展します。 神様のより深い関心は、人間の内的性稟と愛の人格にありました。彼らは、真の愛の経験を通し、神様の真の愛に似て完成する...