創世記1章26~27節を見ると、
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
とあります。
帰納的に見ると、神様の中には一人の男性と一人の女性がいるということです。
それが一つになって、一つの主体として現れたお方が神様です。
そして、このような性稟に似て現れたのがアダムとエバです。(天聖経87ページ)
聖書で見るように、神様が人間を造る時、「おい! 人よ、現れよ」と言って簡単に造ったのではありません。
神様は、あらゆる生命と愛と希望を懸けて人間を造りました。
・・・・(一部略)・・・・
相対に100パーセント投入したのです。(同82ページ)
神様は、なぜ人間を創造されたのでしょうか。
第一に、無形でいらっしゃる神様は、実体を持った人間の父母になられるために実体の人間を創造されたのです。
実体がなければ、実体世界の中心の位置に立つことはできないからです。言い換えれば、神様は形態が必要だったのです。父母としての姿が必要だったということです。アダムとエバを通して、人類の実態の父母の役割をしなければならなかったのです。
第二に、無形に存在する神様御自身は、完成した子女を生産できません。縦的垂直線は一点に留まります。霊的な無形の世界では繁殖が無いのです。垂直次元からそれを横的に展開して360度を形成し、球形を形成してはじめて空間ができ、繁殖が可能になるのです。
従って神様は、天国市民を生産する生産工場が必要だったのであり、その結果、横的なこの地上界を創造されるにいたったのです。
第三に、愛の相対圏の永遠性を維持するためでした。このように神様は、御自身の愛の相対圏を永続的に保全しようと考えて人間を創造されたのです。(平和経1302ページ)
神様のみ旨は、誰において実をむすばなければならないのでしょうか。これはどこまでも相対的関係です。相対的関係においてみ旨が成就されるのです。創造目的の完成が、結局のところ誰において結果を結ぶのかというのです。アダムとエバにおいて実を結びます。人間において実を結ぶのです。結局は、アダムとエバにおいて創造目的が完成されるということです。(天聖経387ページ)
子女として造られた人間が成長して完成し、神様から祝福結婚を受け、真の子女を繁殖し、真の永遠の理想天国を成し遂げて生きる姿を見て、喜びを感じようとしたのが神様の創造目的でした。愛の主人となる道は、まず相対のために自分を徹底的に犠牲にして投入する、そのような真の愛の実践を通して開かれるようになります。
神様は人間を創造されるときも、まず御自身が絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を立てて、100パーセント投入されたのです。相対圏を絶対価値圏として立てるのです。
愛の主人は、独りでなるものではありません。必ず対象を通して成立するものなのです。この絶対的価値圏の愛の原理の前では、神様も同じなのです。子女がいなければ、父母は永遠に愛の主人になれないように、神様御自身が絶対愛の主人の位置に立つためには、その相対圏である人間を、絶対愛の価値圏に立てなければならなかったのです。絶対主体と絶対対象の価値観が生まれて、初めて完成するのです。(平和経1114ページ)
コリント人への第一の手紙第三章16節に、「あなた方は神の宮であって、かみの御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」という内容があります。人間は神様の聖殿であり、人間の心の中に神様のみ霊が臨在していらっしゃるということです。人間がそのような立場にあるので、神様は人間にとってはまさに父になります。それが出来なくなってしまったのが人間の堕落です。
私たちの体は聖殿です。神様が臨むことのできる家です。(天聖経91ページ)
創造理念は、(プラスとマイナスの)両性の中和体としていらっしゃる神様の性相を二性に分立したのちに、再び神様の本性相に似た姿に合性一体化します。
一人の男性と一人の女性は、各々神様の一性に似て現れました。従って、これらの一男一女の結合は、神様のプラスの性稟とマイナスの性稟が一つとなることです。すなわち、神様に似た中和体となるのです。
ですから、二人、すなわち夫婦は、神様の全体を表象する結合体です。
男性は神様のプラスの性稟を身代わりすることによって真の父の分身となり、女性は神様のマイナスの性稟を身代わりすることによって真の母の分身になります。
私たち人類の父が神様です。私たちは神様の息子、娘です。
・・・・(中略)・・・・
宇宙の中心について一言で結論を下せば、父子の関係だというのです。(同72ページ)
その父子関係とは、天地を創造した絶対的な神様と、堕落していない本然の人間との関係です。
人類が到達すべき本然の価値の位置は、神様が父であり、人間は子女だという位置です。
宇宙の根本はなんでしょうか。始まりは愛であり、結果は父と息子です。
神様は、愛を中心として父子関係を結ぶために宇宙を造りました。
ですから、宇宙の根本も父子関係です。(同74ページ)
創造する前と創造したあとでは違います。創造する前は自分のことを考えましたが、創造を始めてからは、対象のために生きる時代に転換されるのです。
・・・・(中略)・・・・
神様は、どうして人間を創造したのでしょうか。息子、娘の生命を見るために創造したのではありません。その息子、娘と共に愛するために創造したのです。いくら考えてみても、そのように言わざるを得ません。人間を創造した目的は愛のためです。神様の愛を中心として、その基盤から生命が創造されたのであって、生命を造って愛を誘発させたのではありません。
・・・・(中略)・・・・
始まりが愛だったので終わりも愛でなければなりません。そのため、愛を抜いてしまえば人間は不幸なのです。(同372ページ)
神様の創造過程を見ると、最初に極めて小さいものを造るその動機から相対的観念を持ち、目的を具現したその目的体に新しい動機を加え、より大きなものに発展させてきました。
そうして、その段階を高めて目的に動機を加え、相対的観念を加えて具現し、またその目的が動機となり、だんだんと次元を高めて人間まで創造してきたのです。(同85ページ)
神様が被造世界を造られた目的は共に生きることですが、今日、人間と万物、あらゆる存在物が神様と共に生きることができる圏内にいません。堕落によってそのようになったのです。堕落したために、神様が臨在できる根拠地が消えるようになったというのです。
そうだとすれば、神様がアダムとエバを失ったその日から今日まで、人間を探し求めるのはなんのためでしょうか。
それは、人間が神様の宮になり、神様の体になり、神様と一体となって、天と地を身代わりした一つの実体存在になれば、人間の喜びが神様の喜びになり、神様の喜びが人間を通して万物に連結されるからです。
すなわち、人間が神様と万物を結びつける中間媒介体だからです。(同86ページ)
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