2022年1月3日月曜日

天地創造(被造世界の創造)

 旧約聖書を見ると神は6日で世界を創り、7日目には休まれたとあります。

4日目までは、光、やみ、天体、水など、多くは生き物以外(例外もあり)

5日目に人間以外の多くの生き物

6日目に人間

7日目に休憩(作業を終えて休まれた)

7日で創ったとは、さすが神様!・・・・と言いたいところですが、この7日は人間がカウントする日数とは違うようです。

非常に長い時間がかかったとも考えられます。


先生の講話より

聖書では、神様は全知全能なので、言葉一つで「このような天地になれ」と言ってそうなったとあります。
しかし、そのようにはなっていないのです。
神様は、あらゆるものを投入したというのです。もっている力をすべて投入しました。
もっている愛の力をすべて投入して、未来に、御自身の愛する息子、娘、御自身の愛する家庭のための贈り物として万物を造ったというのです。創造とは力の投入を意味します。この世の中に芸術家がいるなら、その芸術家は傑作を作ることを願います。芸術家は傑作を造るために、ありとあらゆる思いと精誠を投入します。
・・・・(中略)・・・・
投入するのは、それが自分に結実するようにするためではなく、相対に結実させるためです。
ですから、愛で造りました。(天聖経83ページ)


自分を投入して自己意識を感じるのではなく、自己意識を忘れて、より相対的な目的が成し遂げられる価値を追求することに、自分のすべてが吸収されていくのです。

結局は、神様も創造した人のために生きる立場に立つということです。それが創造の原則です。(同84ページ)


神様はお金を願うのでもなく、知識を願うのでもなく、権力を願うのでもありません。
そのお方は、全知全能のお方であり、創造の能力を持っていらっしゃるので、そのお方には欠如したものがありません。
しかし神様にも、たった一つ必要なものがあります。神様にも愛が必要です。
愛が必要なのですが、一人では愛することができません。相対が必要です。
このような観点から見てみるとき、愛のために宇宙を創造したと結論づけることができます。(同94ページ)


なぜ神様は、天地を創造されたのでしょうか。神様は絶対的な主体ですが、主体だけでは喜びが無いからです。喜びというものは、一人でいるときに生じるのでは無く、相対的関係において生じるのです。平和も幸福も、相対的関係においてのみ成し遂げられます。ですから、神様も、独自的な立場では神様の本分を果たせないというのです。(同902ページ)


神様は、相対を造るときに、完全投入することによって、より価値のある理想的な完全形を展開したのです。
神様は、アダムとエバを造れば、アダムとエバのために生きようとするのです。
神様のためではありません。
自分のためにいた時から、相対のために生きる時へと展開して行くのです。
理想的存在というものは、自分を中心とはしません。
理想的存在は、他のために生きるところに、対象のために生きるところに存在します。
この原則が宇宙の根本です。(同82ページ)


神様は、情、知、意を合わせた内容を備えた人格的な神様です。
そのような人格的な神様が最高に願うものが愛なので、その愛の対象のために人間始祖を造りました。
キリスト教の神学は、創造主と被造物について、創造主は神聖な方であり、被造物は卑しいものだとしています。
神様が理想的な愛の相対者を求めようとする相対理想が絶対に必要だと考えるとき、それはあり得ないというのです。
神様が神聖であられるからには、その神聖な方が相対理想を通して求めようとする愛の対象者も神聖だというのです。(同52ページ)


父母は愛する子女に対して、全体を投入しようとします。
神様と同じです。神様は、神様のために投入したのではありません。
神様のために存在するのではなく、相対のために存在しようという、相対のための神様の位置に立とうというのです。神様が神様のために存在しようといえば、それは真の愛ではありません。
自分をすべて子女に投入して、その子女と共にいようとするところにおいて、愛と生命と希望が成り立ちます。
結局、真の愛と真の生命と真の希望を持ったそのお方が最初に人間に与えたいと思うのは、真の愛と真の生命と真の希望です。
それを与えるときに、自分の立場で与えたのではなく、相手の立場に立って与えたというのです。(同82ページ)


神様の創造過程を見ると、最初に極めて小さいものを造るその動機から相対的観念を持ち、目的を具現したその目的体に新しい動機を加え、より大きなものに発展させてきました。
そうして、その段階を高めて目的に動機を加え、相対的観念を加えて具現し、またその目的が動機となり、だんだんと次元を高めて人間まで創造してきたのです。(同85ページ)


神様が創造をなさるとき、最初に人から造ることはしませんでした。
先に環境を造っておき、その環境の中に入れたのが主体と対象の概念です。
ですから、この創造の環境の中にある鉱物世界、植物世界、動物世界のすべての物は、どんなものであっても、レベルの高低を問わず、主体と対象の関係、すなわちプラスとマイナス、雄と雌、男性と女性のように相対的関係の存在として配置されているのです。
ですから、鉱物世界もプラスとマイナスが一つになるのです。
植物世界、動物世界、このすべての世界が同じようになっています。
天地創造の道理を見れば、核心を先に造ってから相対をつくったのではありません。
核心をつくる前に、相対的な条件を造っておいたのです。
人を造るために土を先に造っておきました。
外的なものを基盤として内的なものを立ててきたのです。それが天地創造の道理です。
現在の物よりもさらに大きなもの、価値の小さなところからより価値のあるものを求めていくのです。
天地創造の道理がそのようになっているのです。
人間の創造を見ても、体を先に造っておいてから霊を吹きいれたのです(同609ページ)


創造主が天地を創造するとき、まず考える期間があったはずであり、準備する期間もあったでしょう。
神様が「このように天地万物を創造しよう」という決定的な計画を立てる前には、まず考える期間があったというのです。
その後、立てられたその計画を中心として準備する過程を経て、実践段階に超えて行きました。
このように天地を創造したというのです。
天地創造がそうだったということは、神様がそのような方だと言うことを意味します。
神様も、考える期間から準備する期間、実践する期間がありました。
そのような過程を経て天地万物を造られたのです。(同607ページ)

神様が宇宙を創造された目的は人間だけのためであるとか、神様御自身だけのためであるという論理は成立しがたいのです。
人間が造られる過程に連結された様々な目的、すなわち神様が人間を創造された目的や天使が人間の創造に協助した目的、あるいは万物が人間に投入された目的と人間が生まれたこと自体の目的などが、互いに違ってはならないのです。
全体が喜ばなければなりません。人間の創造に関連した神様も喜び、天使も喜び、万物も喜び、そして人間自体も喜べる、そのような共通の内容でなければなりません。(平和経501ページ)

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