2023年1月11日水曜日

宗教と神様と人間

 絶対的な神様がいるかいないかということは、この上なく重大な問題です。
これは今世紀だけでなく、歴史を前にして、いかなる識者層や、いかなる聖人たちを通してでも解決すべき人類の課業です。
時代的な課業であり、歴史的な課業だというのです。
そのため、思想的な面で神様を探し求めていく哲学的な世界の観点がありますが、それとは異なり、神様に出会って、神様から出発する神学的な世界観もあります。
神様に出会って、神様とともに生活をするところから始め、世界の人類がどのようにして幸福に生きるかという問題を探求してきたのが宗教です。(真の父母経1242ページ)

宗教は、真理だけで形成されたものではありません。
宗旨というものは、真理だけではないのです。
主義と思想は、真理を中心として進んでいきますが、宗教は、真理以外に心情が内包されるのです。これが違います。
主義と思想には心情がありません。
しかし、宗教は、子女と父母が言葉なくして愛し合うのと同じように、その何かが絡み合っています。
論理的な条件を越えて動く、ある内容を備えているのです。
しかし、主義はそうではありません。主義は組織的な結合です。
心情的な結合ではなく、組織的な結合なのです。
私たちは、目標に向かって走る競争者として、その歴史的なコースに関する知識を備えなければならず、時代的な実情をよく把握しなければなりません。
その次に、未来的な内容、その計画をある程度までは知っていてこそ、目標に向かって走って行けるのです。
このように、天に向かって自分の生命を懸けて進んでいくことにおいて、天の歴史的な心情、時代的な心情、未来的な心情まで備えた人がいて、神様が今までこのコースを立て、築いてくるためにどれほど苦労されたかを感じる人がいるとすれば、その人はいかなる困難にぶつかっても、難なく突破して進んでいくだろうと見るのです。(真の父母経1243ページ)

私たちがたたえる四大聖人たちは、教祖、または預言者です。
そうだとすれば、聖人たちを誰がそのようにさせたのでしょうか。
もし人間がさせたとすれば、人を中心とするはずですが、天意を中心としているのを見れば、神様が聖人たちを立てたと見なすことができます。
そのようにしてつくられたのが、宗教文化圏世界です。(真の父母経1241ページ)

理念圏内に入ってくる神は必要ない
人間の構想や論理でもって認めることのできる神様ではない。
神様は有限なる人間の論理を超越しておられる無限なる存在である。
(み旨の道 1997年12月10日発行 第32刷 260ページ)

真の宗教は、架空の理想や架空の人類愛を説明するよりも、本然の問題に入っていき、人間が絶対に否定できないよう、神様に対する認識を何よりも強く植えつけられる宗教でなければなりません。
それ以上に真の宗教というものはありません。
その価値は、今日この世界で最も貴いと言われるものを一千個、一万個渡しても、取り替えられないのです。(真の父母経1241ページ)

宗教の教えは、体と心を一つにすることに主眼を置いています。
いくら修道をし、研究をしても、体と心を一つにしなければ、すべて壊れていくのです。
十年どころか、千年努力したとしても、水泡に帰すのです。
このような人間の体と心を、どのように統一するのでしょうか。それを教えてくれた聖人がいませんでした。
「私」の体と心を一つにできるのは、真の愛です。
神様の真の愛と、なぜ接することができなかったのかが深刻な問題です。
人間は、神様の創造理想を実現したのではなく、理想世界を見つめて進む途中で堕落することにより、故障した存在になりました。
そのため、人間は自分がどこに向かい、どのような主人に従って、どのような世界に行くべきかが分からず、右往左往しながら生きています。
これが現世の人類社会です。・・・・(中略)・・・・
皆さんは、正に故障した人たちです。
ラジオが故障すれば、「ピーピー」となるばかりで本来の音は出ません。
そのように故障した人間なので、心が行こうとするにもかかわらず、行くことができないのです。(真の父母経1245ページ)



人間は万物の霊長

 神様は、アダムとエバの外的で生物的な成長のための足場として、美しく繊細に準備した環境である万物世界を創造されました。このような環境の中で人間は成長し、発展します。 神様のより深い関心は、人間の内的性稟と愛の人格にありました。彼らは、真の愛の経験を通し、神様の真の愛に似て完成する...