存在と生命のうち、どちらが先でしょうか。哲学というものは、存在から始めるようになります。初めから生命を扱えません。それでは、生命はどこからでてくるのでしょうか。
生命は独りで自ら出て来るのではなく、父母の愛から出てきます。生命の世界と愛の世界は、神様が管理する世界です。それ以下のものを扱ってきたのが哲学思想です。ですから、存在よりも生命が先です。
存在を動かすのは生命です。生命を動かすのはなんでしょうか。愛だけが生命を動かすことができます。
愛によって出発したので、愛の関係に従って動き、愛の結果を訪ねていくのが生命の行く道です。
このように、情緒的な問題が宇宙創造の根本です。
いくら偉大な神様だとしても、愛の情緒を感じられない立場なら、孤独な神様です。(天聖経81ページ)
本来、人間はどこから生まれたのかといえば、神様の愛から始まりました。愛ゆえにうまれました。愛が起源です。
人間が受け継いだその生命が貴いのではありません。神様の愛の理念を通して生命が現れたので、生命の前に愛が先です。愛に根ざして私たちの生命が流れてきたというのです。それで愛に生まれ、愛で育ち、愛の相対に出会わなければならないのです。(同96ページ)
世界の学者たちは、「宇宙は力でできている」と言います。漠然と力でできていると言うのです。
それでは、力が一度に出て来るのでしょうか。力が先にあったのでしょうか。卵が先か、鶏が先かという問題と同じです。力は作用を通して現れるのであり、その過程を通して段階的に見えるようになるのです。電気の作用は、電気の力ではありません。電気自体ではありません。プラスとマイナスは、与えたり受けたりする作用をしますが、そこに電気という力の流れはまだ出来ていないのです。作用を通して力が出て来ると言うのです。
宇宙は、必ず力によって形成されるのですが、力が存在する前に作用があります。電気の力が存在するためには、プラスとマイナスの作用がなければなりません。プラスとマイナスの電気作用を集合すれば力になります。ここに電球をぶら下げて置けば、私たちが使用する光に変わるのです。
・・・・(中略)・・・・
環境には必ず主体と対象があります。これは存在の法則です。これが備わらなければ、存在できないのです。中性があると言いますが、中性にも相対があります。正午になれば影が見えなくなります。しかし、影が消えるわけではありません。自分自体の中に入っただけです。すべて相対的関係をもっているというのです。(天聖経622ページ)
植物世界にも、雄しべと雌しべがあります。植物の花が作用するのに、生命力で生きる前に、主体と対象の概念があることを知らなかったのです。(同624ページ)
今まで学者たちにとって、進化論が正しいのか、神様の創造が正しいのかということが問題でした。
愛の概念がある前に、先に進化の概念がありましたか。どちらが先でしょうか。
進化の概念が先ではありません。愛の概念が先にあり、そのあとにそれがあったというのです。
ペア・システムの宇宙が先に生じ、その中で形体的な構造が合うものが進化論形態として合っていただけであって、根本がそうだからそうなったのではありません。(天聖経635ページ)
「命が先か、愛が先か」というとき、果たしてどちらが先でしょうか。愛が先です。宇宙の根本は、存在の起源に先立って愛の流通が無ければ、存在価値は出てくることができません。
命が先ではなく、愛が先です。先になったものの前に、あとになるものは順応しなければならないので、愛のためには命を捧げるのが当然なのです。このように収拾しておかなければなりません。
「それでは、人生を正しく生きる道はどこなのか」という問題が出てきます。人生は愛から生まれたので、愛の道を行かなければならず、愛のために死ななければならないという結論が出てきます。
小宇宙ではなく、大宇宙が歓迎できる愛を探して、神様が公認し、天使世界が公認し、万物が、さらには私たちの父母が公認できる大宇宙の愛の中に生まれ、その中で愛し、死んでいくのが、人生の目的だと見るのです。
人間とは、自分が希望して生まれた存在ではありません。それでは、父と母の希望によって生まれたのでしょうか。そうではありません。神様の希望によって生まれたのです。神様の代身である父母の愛を通して生まれたのです。
神様の代身である父母の愛を通して、新しい生命体として生まれたのが私です。
そして、愛は全体を創造する力をもっています。宇宙の愛を全て受けて、全宇宙の中心的な存在として生まれたのが、正に私です。
愛によって生まれ、愛によって育てられ、愛によって生き、また愛を残すのが人生における最高の目的です。自分の家庭において、宇宙の中心である愛の使命を果たすのが、最も価値あることです。(平和経668ページ)
いかなる存在も、何らかの力なしでは、生存し、作用することができません。各存在の固体内で作用する力と、存在と存在の間の作用を可能にする力があります。
それでは、このような力はいかにして生じるかということが問題です。力が生じるためには、それに先立って、何らかの主体と対象がなければ絶対に生じることができません。
すなわち、主体と対象の関係が先有条件となって、力が生じるのです。
例えば原子にも、主体である陽子と対象である電子があって、初めて作用するのです。
力の作用は、主体と対象が一つになるための目的から始まるものなので、力が先か、主体と対象が先かと問う場合は、間違いなく主体と対象が先であって、力の作用は、主体と対象が一つになるための過程的現象なのです。
そして、この主体と対象との関係の差の軽重によって、力の作用がそれぞれ異なるので、様々な力が作用するたびに、その方向性と目的性が変わるようになっており、それによって多種多様な存在世界が形成されるのです。
このように、いかなる主体と対象の間の力の作用にも、方向性と目的性を帯びて作用するようになっているのは、第一原因的存在の中で基本的な主体と対象が先に存在し、方向性と目的性を帯びて作用しているからなのです。
固体内で主体と対象が完全に一つとなった存在は、他の存在と関係を結ぶために、主体的立場、あるいは対照的立場を取り、それと一つになることによって、より大きな方向性と目的性を帯びた存在へと発展するのです。
主体的存在と対象的存在が作用するところでは、常にある共同利益のためにやりとりしながらより大きな存在に発展するのです。(平和経729ページ)
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