2022年1月20日木曜日

家庭は幸福の基地

過去、現在、未来が連結される最小限の基準が家庭です。
家庭は世界の縮小体と同じです。そこでは、過去と現在と未来が連結されます。家庭には、祖父と父と息子が共存します。父が祖父の立場に上がるようになれば、自分が父の立場に上がって息子、娘をもつようになります。祖父から父、自分の三代が一つにならなければなりません。すなわち過去、現在、未来の三つの関係が一つにならなければならないのです。そのような家庭は、世の中がいくら揺らぐとしても、揺らぐ社会の侵犯を受けず、幸福の土台を保つことができるのです。(天聖経484ページ)

家庭には、祖父母、父母、自分たち夫婦、息子、娘の四段階が存在します。これを拡張したものが世界です。世界にいる自分の父母のような年代の人々、自分の夫と妻のような同年配、自分の息子、娘のような人々を愛さなければなりません。家庭において父母の愛を中心として一つになったのと同じように、世界の全人類をそのような基準で、自分の祖父母、自分の父母、自分たち夫婦、自分の息子、娘のように愛さなければなりません。神様が愛の相対を造るためにより投入したのと同じように、自分の家庭よりも愛さなければならないのです。(天聖経484ページ)

家庭を見るとき、家屋が良く、その周囲の環境が良いといって、良いわけではありません。反対に、いくら環境が悪くて家がみすぼらしくても、それを安息所として、そこに自分の事情と生涯と生活のあらゆる基準を結びつけようとする家庭が、良い家庭なのです。そこには、父母と子女の間に、互いのために思いやる心情があります。これが追憶の本郷であり、あらゆる生活の動機になるので、私たちの生活で幸福を左右する基礎になります。それはなぜでしょうか。父母と子女の間には、誰も侵すことのできないたった一つの愛の関係と、たった一度しかない血統的な愛の関係があるからです。そこでは、父母と兄弟の愛が動機となっているので、私たちの生活に慕わしい対象として連結されるのです。(天聖経485ページ)

 人にとって幸せな環境とは、どのようなものでしょうか。
幸せな環境にある人とは、父母の愛を受けられる立場に立った人です。
その次には、夫婦の愛を互いに授け受けできる立場に立った人です。
その次には、子女を愛せる立場に立った人です。
その次には、兄弟の愛が分かる立場に立った人です。

そのような内容が分かってこそ、国家と世界を発展させることができます。
したがって、幸福の母体になることができるのは、完全な家庭の円満な父母と夫婦、そして子女を中心とした愛の基盤なのです。

私たちは、家が絶対的に必要です。
完全な幸福の根拠地である家を離れては、国も、世界も、いかなる目的も成立しません。
私たちは、神様が望む家を中心とした父母、夫婦、兄弟にならなければなりません。
幸福の要因や願望の要因も、家を中心として国家と世界に広がっていきます。
神様が望む出発点と決着点は家庭です。

しかし、私たちは神様が理想とする家を築くことができませんでした。
むしろ破滅と不幸に近づいているのが、私たちが暮らしている家だというのです。
最高の幸福の根拠地である家が絶望の根拠地になり、不信の根拠地になるとは誰も知りませんでした。
神様は、これを蕩減復帰するために、今まで役事(働き)してきました。
そのような家庭的な不幸は、アダムとカインの時から始まったのです。
(天聖経499ページ)

ある人は、「会社に行っても愛を探すことができる」と言うかもしれませんが、違います。会社は物質を通して利益を得ようと連結されたところです。

また、政治の分野は、人同士が自分の権益を得るところです。
そして、宗教も、神様を見出すありとあらゆる方法があり、それぞれの宗教で異なる方法があります。
それで神様を見出すことは出来ますが、愛は見いだせません。
真の愛は家庭で探さなければならないのです。

いくら会社に出て行ってお金をたくさん稼いでうまくいったとしても、愛する家庭のない人は不幸な人です。
また、いくら政治の分野に進出して大統領になったり、国会議員になったりしたとしても、帰ってきて愛することのできる愛の家庭がなくなるときには、不幸な人です。
(天聖経500ページ)

人間の生活において、ある人を幸せな人だというとき、何を基準として幸せだと言うのですか。
外的な能力、権勢、権威をもっているからといって、幸せな人だと言うことはできません。何不自由ないほどお金があるといって幸せな人ですか。
違います。
世界的な知識を有していて、世界を意のままにできる位置にあるからといって、彼が幸せな人になることができますか。
決してそれだけで人が幸せなのではありません。
この地のすべての人間が、幸福の根拠地は家庭だと一般的に感じ、体験し、認めながらも、いまだに幸せな家庭の基準をもつことができずにいます。
ですから問題は家庭です。
(天聖経501ページ)

アダムが完成することによってエバも完成し、そのアダムとエバが完成することによって愛を中心とした家庭が出発するのです。そのようになったなら、完成した家庭から氏族、民族、国家、世界は、神様に侍る一つの国になり、民族になったに違いありません。そして、その中心は神様とアダムとエバになったでしょう。
そのように、神様がその中心となることによって、生活やアダムとエバの一生の路程は、神さまと共に生活する歴史的伝統として残ったのです。そのようになれば、生活様式や習慣、風習、歴史的伝統は、神様と共に生きる生活、神様の愛で結びつけられた伝統となったに違いありません。(天聖経490ページ)

天国は「私」が父母を愛するように、年を取った人々を愛することができる世界、兄弟を愛するように世界の人類を愛する世界、そして、夫婦同士で愛し合うように自分と同年配の人々を愛する世界です。
家庭的な心情を中心とした、大宇宙的な人格観を中心として生きる世界です。
そのような人々の家庭が全体化した社会的形体が、天国社会だというのです。
天国は、私の家庭を拡大した世界、私の兄弟を拡大した世界なのです。
(天聖経502ページ)

家庭は、天国に行くことのできる訓練所です。
修練所だというのです。
世界には、祖父や祖母のような人々も暮らしています。
家庭を拡大すれば、世界と全く同じなのです。
父母の年代、夫や妻の年代、息子、娘の年代を拡大したのが世界の人類です。
ですから、家庭で訓練されたことを四方に拡大させて、ために生きる愛をもって生きる人は、天国に行くことができます。
家庭は、天国に直行できるようにする修練所なのです。
(天聖経504ページ)

人間は成長期間を通して、神様の愛を段階的に体得します。
生活の中の経験を通して、父母の愛、夫婦の愛、兄弟の愛、子女の愛を順次的に体得するようになっているのです。
この四種類の愛と心情がとどまる基台が家庭なので、家庭は人間の愛と幸福、そして生命と血統の基地になるのです。
このように、真の愛の家庭は、人間の願いであると同時に、神様の創造目的の根本でもあります。
人間の個体や家庭、そして社会や環境の真の完成は、家庭の中で真の愛の具現にその根を置いています。
(平和経477ページ)

皆様。家庭はなぜ良いのでしょうか。それは父母の愛を中心として、本然の自由活動の基地になっているからです。見た目はいくらみすぼらしくとも、輝く真の愛の核をもつ心情で結ばれた人間で構成される本然の家庭となるとき、そこにおいて人間はもちろん、神様までもが真の自由を感じられるのです。愛が欠如した自由は、真の自由ではありません。私たちがある家に客として行ったときに不自由さを感じるのは、まだその家と深い愛の関係を結ぶことができていないからです。すなわち、愛の関係が四方性を備えることができずにいるので、ぎこちなく不自由なのです。
それでは、本然の家庭で最高、最上の価値は何でしょうか。それは本然の父母です。本然の父母は、なぜ素晴らしいのでしょうか。永遠の愛の主体だからです。愛を中心として一生の関係を結ぶことができる最も近い場所にいらっしゃる方が、正に本然の父母なのです。私たちが生まれて最初に、喜びを交わし合う相手が本然の父母です。したがって、本然の父母は、私たちの喜びの主体であり、また対象でもあるのです。
私たちが喜ぶとき、最初に喜んで下さり、私たちが悲しいときも、誰よりもさきに悲しみの涙を流す方が本然の父母です。ですから、ふぼのない子女を孤児と呼び、孤児はかわいそうな人として扱われるのです。次に、愛する夫と妻が本然の家庭で最も善い価値的存在となるのです。
夫と妻は条件的な愛ではなく、無条件的な本然の愛を交わす夫婦でなければなりません。たとえ初めから、天が与えた絶対的で永遠な次元の愛の関係で始まった愛ではなかったとしても、夫婦という絶対的次元の関係を土台とした相対関係で結ばれた本然の愛になれば、その愛こそが家庭に幸福と喜びを抱かせてくれる根幹となるのです。しかし、このような理想的な本然の夫婦関係が、夫婦関係それ自体だけで終わってしまったら、絶対的価値を内包した永遠な幸福と喜びにはなり得ません。夫婦の前には、必ず本然の子女がいなければならないということです。夫婦二人だけで子女を生まず、幸福に暮らそうとしてみてください。そうすれば人類は二代を越える前に滅亡してしまうでしょう。本然の子女から返ってくる愛を受けて暮らすことができてこそ、真の夫婦が本然の父母の位置まで上がるようになるのです。
その次に貴く重要なものが、本然の父母のための子女の愛です。絶望ではなく、あすの希望として芽生える理想的な環境を慕いながら、明るく肯定的な姿勢で、子女が本然の父母のために犠牲となり、愛することができたとすれば、その愛は、家庭の幸福のための、純粋で真実な価値としての本然の愛となるのです。
このように本然の家庭で三代圏を形成し、本然の父母の、子女のための犠牲的な本然の愛と本然の夫婦間の真の愛、そして本然の子女による、本然の父母のための真の愛が完璧に備わった本然の家庭があるとするならば、その本然の家庭は、人間世界で最も理想的な真の家庭となるのです。(平和経1117ページ)

家庭というものは、人類愛を学び教える学校です。
父母の温かい愛を受けて育った子供は、外に出て行けば、家で学んだとおりに、困っている人を愛の心で助けるでしょう。
また、兄弟姉妹の間で情け深い愛を分かち合って育った子供は、社会に出て隣人と厚い情を分かち合って生きて行くでしょう。
愛で養育された人は、世の中のどんな人でも家族のように思うものです。
(真の父母経233ページ)

皆様。共に生きる生活の典型は家庭です。
父母と子女は愛と尊敬で、夫婦は相互信頼と愛を土台として、兄弟姉妹はお互いに信じて助け合いながら、一つになって暮らす家庭の姿が、正にモデル的理想家庭なのです。
真の愛の根に、真の愛の幹が生じて、真の愛の実を結ばせる、真の家庭を取り戻さなければならないと言うことです。
そのような家庭には、歴史の根が生きており、天国の根が張っているのです。
地上天国の根が張っている所が、そのような家庭です。
永遠に継続する王権の根も、ここに定着するのです。
・・・・(中略)・・・・
神様も、どこかへ外出しても懐かしく思って、再び訪ねて来られる家庭を築きなさいというのです。
父母が子女の家を訪ねるように、喜びの心で気楽に訪ねられる過程を準備しなさいということです。
それが、正に神様に侍って暮らす生活です。
(平和経1579ページ)

いかなる人も家庭の基盤を通して人生の道を整え、そこで生み、それを中心として東西南北を往来し、上下を往来しながら生き、そして逝くのです。このように見るとき、家庭の幸福を得ることができなかった人は、国の幸福を求めることができません。いくら国を求めたとしても、国のどこに住みますか。自分が行くべき所がなければ不幸なのです。家庭に行ってこそ、父母がいて、家庭に行ってこそ夫や妻がいて、そして家庭に行ってこそ子女がいるのです。(天聖経500ページ)

以下は、平和という観点から、第九回「科学の統一に関する国際会議」での学者たちを相手にしての講話です。(1980/11/27 マイアミのヒルトンホテルにて)

平和は、世界的段階に限って求められるものではなく、国家や社会、または家庭の段階においても願われています。
さらには、個人においても心と体の平和を渇望しています。このような平和に対する様々な段階のうちで、最初に成し遂げられなければならないものはどれでしょうか。
先に世界平和が成し遂げられるならば、その基盤の上に国家、社会、家庭、そして最終的には個人の平和も成し遂げられるだろうと考えがちです。しかし、これは誤った見解です。
それは、実際に平和を成し遂げるために必要な順序とは反対です。ですから、先に個人的な平和が実現されなければなりません。その次に、家庭の平和が成し遂げられ、そのような基盤の上に、社会と国家、そして世界といった、それぞれの平和を期待することができるのです。これは個人が家庭の基本単位であり、家庭は社会と国家の基本単位だからです。
多くの指導者たちは、優れた組織と立派な思想を通して、社会秩序と世界平和を回復することができると信じています。しかし、現実において、ただ単にこのような二つの手段だけでは、人類平和は絶対に実現されません。
国連のような国際機構と共産主義や民主主義などのような思想体系は、それぞれ独自の方法で世界平和を実現するために努力して来ました。しかし、平和はまだはるかに遠く、世界は時間が経つにつれ、ますます混乱状態に陥っていくのです。(平和経738ページ)




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