堕落の経緯については *こちら* に挙げています。
先生の講話より・・・・(「堕落とは」にも載せた文です。)
「堕落とは血統が変わったことです。家庭がなくなってしまい、国がなくなってしまいました。
・・・・(中略)・・・・
サタンの血統が入ってきて、心臓から動脈、静脈がサタンの血によって動き、すべての細胞が使えなくなったのです。血統がめちゃくちゃになったので、実体世界の歴史を知らない無知に陥り、悲惨になったのです。」
(天聖経420ページ)
とんでもなくひどい表現がなされています。
堕落人間側から見ると、「この世界には家庭もあるし、国もあるではないか」というでしょうが、これを個人のスケールでイエス様が言われた言葉・・・「死人を葬ることは、死人に任せておけ」(ルカ9/60)・・・・堕落した人間は死人と同じということ・・・・を家庭と国に拡大し、あるいは逆に細胞に縮小して言ったものでしょう。
個人が死んでいるので、その集合体の家庭や国が生きているはずはありません。
これが現状なら「この世は地獄」と言えるでしょう・・・・・・・・が、堕落した本人達は深刻に感じることができないでいます!
感じているのは、当初の構想理想を持っている神様だけ?
中にはこんな質問をしてくる人たちもいるかも・・・・
「血統がめちゃくちゃになったという証拠はありますか?」・・・・これでは天国に行き着くのはまず無理。
今の世界は、井の中の蛙が80億匹いる状態でしょうか・・・・誰も井戸の外を見ることができません。
それで、キリスト教ではメシアが必要だと言います。
井戸の中の80億匹よりも、井戸の外を見ることができる1匹!
うちの教えでは、堕落することによって、人間は万物以下になったと言われます。
日本などでは、神棚にお供えをしますが、人間より上になった万物を通して神様から恵みを頂くのだと言われます。
今、ウクライナとロシアが戦争していますが、神様の子女として造られ、堕落前には神様と一問一答できたと聖書に書かれている人間が、地球のあちこちで虫けらのように簡単に殺されています。
なぜエデンの園を追い出されたのか?
この世界でも「勘当だ!」と親に言われて家を追い出される方もいますが、そうなると自分の面倒は全て自分で見なければなりません。
アダムとエバの代では堕落せず、その子孫の段階で起きたならば、もとに戻すのは容易だっただろうとも言われます。
キリスト教にもいろいろな分派があり、いろいろな解釈がありますが、すなおに見れば、そのまま住まわせるわけには行かない状況だったので、追い出されたのでしょう。
以下は先生の講話ですが、このブログの「堕落しなかったら」にも載せています。
「アダムとエバが善悪の実をとって食べずに堕落しなければ、どのようになっていたでしょうか。神様の圏内で結婚して神様の愛を受け継ぎ、神様の生命と血統を受け継いで直系の子女になっていたのです。
このような人々には救世主が必要ありません。修養が必要ありません。
直系の子女は心が一つになっているので、神様のように全て通じるようになっています。一体になってすべて通じます。」(天聖経115ページ)
「堕落していない本然の人間は、神様の聖殿になります。アダムとエバが堕落していない先祖になったとすれば、その心の中には神様が共にいらっしゃるのです。
・・・・(中略)・・・・
イエス様も、「私は父の中におり、父は私の中にいる」と言いました。」(天聖経374ページ)
人間始祖で起こった血統変化は、神様の目から見るととてつもない激震だったのでしょう。
善・悪という概念がこの出来事によって生まれたのかも知れません。
我々人間が、自分以外の人間を見ると、あれはいい人、これは悪い人などと人の善悪を判断したりしますし、自分の心の中にも良い心、悪い心を発見したりします。
しかし、動物などを見ると、(たまには人食い熊とかもいて、「恐ろしさ」というのはありますが)善悪観を意識したりはしません。
人間と動物の行動をみれば、似た点は沢山見つかりますが、やはり人間社会は他の自然界とは一緒に扱えない別次元の世界です。
*余談ですが・・・・やはり人間世界と自然界は別物で、進化論は間違いだろうと思います。
血統が変わったのですから、根本的な発想が変わったでしょう。
先生の講話からそのように感じる部分を探してみると、
「ヘレニズムに基づいた弱肉強食による適者生存の理論は、根本的に間違っています。
ために存在し、真の愛で投入して忘れる絶対服従の対象として、主体的愛の主人として完成させようという絶対価値観を、彼らは見落としているのです。
真の愛を排除すれば、闘争概念だけが残るのです。
しかし、神様の「創造原理」は、闘争を通した生存と発展ではありません。主体と対象の関係の中で相互に授受作用をしながら、絶対価値観に基づいて調和統一を追求するのです。」(平和経1114ページ)
(iyo )(注.上記で「絶対服従」という言葉が出て来ますが、日本語での通常の意味とはちがっていて、「自らが我を忘れて、相手を大切に思って尽くす(仕える)」というような意味と理解するのがいいかと思います)
「今まで、人間世界では個人の相対観が異なり、家庭の相対観が異なっていました。
この異なる相対観を総括的に収拾できる主流的な能力を持っているのは、神様の愛だけです。
「統一思想」は、神様の愛と心情を中心として個人統一、家庭統一、民族統一、国家統一、世界統一を成し遂げ、最後には神様統一を経て、相対観を超越する世界を成し遂げようというのです。
その時には主権もありません。主権者が高いのでもなく、相対者が低いのでもありません。
主権者は相対者のための存在であり、主体は相対のための存在です。
そのような世界が来てこそ、今日、世の中で言う支配者や被支配者というようなすべての対立概念が解決するのです。
それは、ほかのいかなる論考を通してもあり得ません。ただ神様の愛の他にはないという結論が出てきます。
今は、人間の愛にも相対観があります。「わたしはお金のゆえに愛する。何々のゆえに愛する」という人がいるのですが、それは純粋ではありません。
ですから、相対観を超越できる神様の愛を訪ね求めていこうというのが、「統一思想」です。
これから民主主義世界も、共産主義世界も、この愛の基準に吸収させて一つにしなければなりません。
そのようにしなければ、理想世界が訪れないのです。」(真の父母経995ページ)
(iyo )善しか知らないとすれば、殆どの法律は不要になるでしょう。
トインビーさんの言われる神の国と、先生の講話に出てくる天国の間には大きな開きがあるように思われますが、それでも「歴史の研究」にもこんな記述が・・・・
「意志の調和があり得る唯一つの社会は、二人もしくは三人---もしくは二十億人、三十億人---が神の名に於いて神を中心に集まっている社会である。
神が造った人間ならびに唯一の真の神を包含する社会に於いて、神は無類の役割を演じる。
神は各人間構成員と神自身との関係の一方の当事者である。
しかし、このために神はまた各人間構成員と他のすべての人間構成員との関係の当事者でもある。
そして人間の魂に神自身の聖なる愛を吹き込むこの神の参加を通して、人間の意志は和解することができるのである」/15-p226
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