(iyo )「ために生きる」・・・・この小さいブログの中にも何度も出てくる言葉で、今さら、タイトルとして掲げなくてもいいのでは?・・・・とも思えるほど!
(iyo )以下に掲げた先生の講話は神様の被造世界創造についてですが、その動機等については寧ろこちらの方が詳しいでしょう。
以下、先生の講話より。
神様はなぜ「ために生きよ」という原則を立てざるを得なかったのでしょうか。その内容と要因を、私がいくつかお話ししようと思います。
真心から命を懸けて世話してくれた人がいたとしましょう。そこで皆様自身は、100パーセント世話になったとすれば、その世話に報いるために、50パーセントだけお返ししたいと思うでしょうか。それとも100パーセント以上お返ししたいと思うでしょうか。
皆様の本心はいかがでしょうか。それは言うまでもなく100パーセント以上お返ししたいと思う本心があるので、今日皆様は、その本心に従って救いを受ける可能性があるのです。
ですから、知恵の王であられる神様は、ために生きる原則を立てざるを得なかったという事実を知らなければなりません。
ために生きるときは、永生するだけではなく、繁栄するのです。そこから発展します。
世話になると、その世話に報いるために適当にお返しするはずはありません。真心から命を懸けてそれ以上お返ししたいと思う本心をもっています。そのような心があるので、天国に行くことができるのです。
また、ために存在する原則を立てざるを得ない二番目の要因は何でしょうか。
例えば、皆様の家庭に八人の家族がいたとしましょう。その八人の家族のうち、最も幼い弟が、家庭のために生きることにおいて、父や母、あるいは兄や姉よりも、その家庭のために生きるときには、どのような立場になるでしょうか。だんだんと高められ、中心的な存在として登場するようになるのです。
今日、宗教において教えてくれるすべての論理は逆説的なようですが、ために存在するこの原則に従って見ると、よりために存在すればするほど、より次元の高い中心存在になるのです。なぜ中心存在になるのでしょうか。
ために生きる人は、万宇宙のために存在する神様に似ているからです。
ですから、神様が自分に似た存在を、神様に代わる中心存在として立てるというのは妥当な結論です。
心からために生きる主体の前に、心からために生きる対象となるとき、自然に中心存在にならざるを得ません。
(平和経80ページ)
神様が天地万物を創造し始めたのは、対象の世界を展開するためでした。
結局は、別の自分の相対的存在をつくろうということです。それで、神様御自身を投入されたのです。
見えない神様から見える神様へと展開させようということです。
創造の業を行うということは、力の投入を意味します。創造とは、力を消耗することです。
投入したのですが、どのくらい投入したのでしょうか。
人々は聖書を読んで、神様がみ言で「このようになれ!」と言って創造されたと思っています。
しかし、そうではありません。そこには、真の生命を投入し、真の愛を投入し、真の理想を完全に投入したのです。
創造前と創造後が違い、想像する前は自分のことを考えましたが、創造を始めたときからは対象のために生きる時代へと転換されたのです。
「私がいるのは、私のためにいるのではなく、相対のためにいるのであり、息子、娘のためにいる」と考えるようになったのです。
ですから、皆様はそれを知らなければなりません。愛や理想という言葉は、主体と対象との関係において使う言葉なので、理想的な存在の起源は、自分のために生きるところにあるのではなく、相対のために生きるところにあります。
神様は100パーセントを投入しても損をするのであれば、投入されないのです。
返ってくるときに90パーセントになり、10パーセントが損害となれば、投入されません。それ以上に返ってくるものがなければならないのです。
それで、100パーセント投入することによって、なかったものが生まれました。対象が生まれました。
それだけではなく、その対象が、自分の望んでいた愛を持ってきて、生命を刺激する理想的対象として現れるのです。
神様も愛には引っ張られます。その対象が引っ張れば、ひっぱられるのです。
対象が好む所に神様も行くようになります。自分自身を見て喜ぶのではなく、相手を見れば見るほど喜ぶのです。
人間の創造は、自己の完全投入です。人間は、それによる最高の傑作です。
有名な画家がいれば、その画家は、遊び半分で描いた絵を重要視するでしょうか。食事もせずに精神を集中させ、すべて投入して、一つ一つ慎重に自分自身の構想どおりにできた作品に対して「傑作である」と言うでしょう。
「その原画は自分が持ち歩き、保管し、愛したい」と思うのです。
ですから、真の神様は、相対をつくることに完全投入されることによって、より価値のある理想的な完全形を展開したのです。
神様も、アダムとエバをお造りになってからは、アダムとエバのために存在しようとするのです。神様のためではありません。(平和経42ページ)
結局は、別の自分の相対的存在をつくろうということです。それで、神様御自身を投入されたのです。
見えない神様から見える神様へと展開させようということです。
創造の業を行うということは、力の投入を意味します。創造とは、力を消耗することです。
投入したのですが、どのくらい投入したのでしょうか。
人々は聖書を読んで、神様がみ言で「このようになれ!」と言って創造されたと思っています。
しかし、そうではありません。そこには、真の生命を投入し、真の愛を投入し、真の理想を完全に投入したのです。
創造前と創造後が違い、想像する前は自分のことを考えましたが、創造を始めたときからは対象のために生きる時代へと転換されたのです。
「私がいるのは、私のためにいるのではなく、相対のためにいるのであり、息子、娘のためにいる」と考えるようになったのです。
ですから、皆様はそれを知らなければなりません。愛や理想という言葉は、主体と対象との関係において使う言葉なので、理想的な存在の起源は、自分のために生きるところにあるのではなく、相対のために生きるところにあります。
神様は100パーセントを投入しても損をするのであれば、投入されないのです。
返ってくるときに90パーセントになり、10パーセントが損害となれば、投入されません。それ以上に返ってくるものがなければならないのです。
それで、100パーセント投入することによって、なかったものが生まれました。対象が生まれました。
それだけではなく、その対象が、自分の望んでいた愛を持ってきて、生命を刺激する理想的対象として現れるのです。
神様も愛には引っ張られます。その対象が引っ張れば、ひっぱられるのです。
対象が好む所に神様も行くようになります。自分自身を見て喜ぶのではなく、相手を見れば見るほど喜ぶのです。
人間の創造は、自己の完全投入です。人間は、それによる最高の傑作です。
有名な画家がいれば、その画家は、遊び半分で描いた絵を重要視するでしょうか。食事もせずに精神を集中させ、すべて投入して、一つ一つ慎重に自分自身の構想どおりにできた作品に対して「傑作である」と言うでしょう。
「その原画は自分が持ち歩き、保管し、愛したい」と思うのです。
ですから、真の神様は、相対をつくることに完全投入されることによって、より価値のある理想的な完全形を展開したのです。
神様も、アダムとエバをお造りになってからは、アダムとエバのために存在しようとするのです。神様のためではありません。(平和経42ページ)
宇宙の存在秩序は「ために生きる人生」を根本にしています。
神様は知恵の王なので、宇宙万象が、相対のために存在するという原則をもって生きるように創造されました。
これを天理の原則であり創造の秘訣として立てたというのです。
真の理想、真の愛、真の幸福、真の平和の世界は、神様の創造理想であると同時に人間の願いでもあります。
このような理想を成し遂げる道は別のところにあるのではありません。
ために生きるところだけに、真の愛が起こるのであり、真の幸福、真の理想、真の平和が実現するのです。
したがって、理想の期限、平和の期限、幸福と愛の期限は、相対のために生きるところにあるのです。
「私」は私のために存在するという立場では、互いに一つになれないのです。
互いに一つにならなければ、平和も、幸福も、理想も、愛も成就することができません。
家庭でも、家族全員が互いにために生きる姿勢で生きるとき、その家庭には平和と幸福が訪れるのです。(平和経245ページ)
歴史始まって以来、神様のみ旨に従った数多くの宗教は、自分自らを否定する修行をしました。
なぜ「犠牲になり、奉仕しなさい!」といったのか、今まで知らなかったのです。
なぜ犠牲になり、奉仕をしなければならないのかといえば、本然の世界がために生きる本郷だからです。ですから、その世界に行くためには、そこに行ける訓練と準備をしなければなりません。したがって、高等宗教であるほど犠牲と奉仕を強く求めたのは、歴史時代に神様が歴史過程を通じて摂理してきたものであることを、ここで知ることができます。(平和経79ページ)
私たちがイエス様のみ言葉を分析すれば、それは簡単です。
「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためである」(マタイ20/28)と語られたのは、天倫の大道を明らかにするためだったことを知らなければなりません。
ために生きてもらうためではなく、ために生きるために来たということです。
それが本来、神様が創造された存在物の理想的起源なので、この起源を解き明かし、この起源に一致する生涯を歩んで行かれた方が、正にイエス様であることを、私たちは知らなければなりません。
新旧約の聖書六十六巻が、いくら内容が膨大だとしても、この一言に帰結するのです。
「ために存在せよ」という言葉に尽きるというのです。
「だれでも自分を高くするものは低くされ、自分を低くするものは高くされるであろう」(マタイ23/12)という逆説的な論法が、天地創造の原則的起源を通して見るとき、真理に間違いないという事実を、私たちはこれまで知らなかったのです。(平和経78ページ)
真の愛の生活とはどのようなものでしょうか。
それを一言で言うならば、「ために生きる人生」です。
人が自分のために生きてくれることを願う前に、先に人のために生きる人生です。
ために生きてあげたことを忘れてしまう人生です。
ために生きてあげたからといって、何かを期待する人生ではありません。
そして、ために生きてあげても、もっとために生きてあげることができずにもどかしく思う人生です。
ために生きるにおいても、謙遜に頭を下げてために生きる人生です。
(真の父母経268ページ)
人は、自分よりも低く、劣悪な立場にいる人を考えながら生きることができなければなりません。それだけでなく、自分よりも大変な境遇に置かれた人がいれば、その人を哀れに思い、自分の境遇に対して感謝しなければなりません。
感謝するだけでなく、その人々を助けてあげなければなりません。
今日、忠臣や聖人と呼ばれる人々を見れば、裕福な家の息子として、よく食べ、よく暮らしながら聖人や中心になった人は多くありません。彼らは、国や社会、家庭が混乱の渦中に追い立てられ、あすを見つめることができない暗澹たる混沌時代に置かれていても、その国に生まれたことを誇りとし、そのような父母を持ったことを誇りとしました。
そうして、誰よりも国と父母を愛しながら、自分よりもさらにかわいそうな人を救ってあげようとしたのです。(真の父母経1110ページ)
神様御自身の体と心が一つになっているのは、互いにために生きる愛を持っているからです。
体は心のために生き、心は体のために自分以上のものを投入しようとするので、永存できるのです。
投入し、さらに投入できるので、理論的な永生の論理が出てくるのです。
(真の父母経1246ページ) ・・・・(iyo )これはおもしろい話ですね!
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