統一教会の看板を掲げる前の、先生の個人レベルでの受難についての記述を拾ってみましたが、やはり教会のことをある程度知る人でないと理解に無理があるように思います。先生の自叙伝を読む時にも感じることですが、一般のかたなら、たぶん「なぜ?、どうしてそんなに?」という疑問が湧いてしまうでしょう。
宗教は独特の考え方をすることが多く、ここではほんの一部なので、一般の方からみればなおさら「断片」と言わざるを得ません。
宗教は独特の考え方をすることが多く、ここではほんの一部なので、一般の方からみればなおさら「断片」と言わざるを得ません。
真のお父様は、生涯で六度にわたり、無辜の苦難を味わわれた。日本統治下で一度、北朝鮮の共産治下で三度、大韓民国で一度、そしてアメリカで一度の監獄生活をされ、その期間だけでも五年に及ぶ・・・・(中略)・・・・
特に興南監獄では、寒さと飢えは言うまでもなく、窒素肥料の硫酸アンモニウムをかますに入れて運ぶという、過酷な重労働に苦しまなければならなかった。(真の父母経721ページ)
(iyo )日本では1941年04月から1943年9月まで、早稲田大学(当時は、早稲田大学付属早稲田高等工学校電気工学科)に留学もしていました。
上海臨時政府を中心として地下運動をしました。・・・・韓国を中心として三カ国を往来しながら独立運動をしたというのが、特高警察の記録に残っているので、今では誰もが認めるのです。・・・・いつも刑事たちが付きまといました。(真の父母経722ページ)
(1943年10月中旬 帰国)
(1944年10月、京畿道警察部に拘束され、翌年2月まで苦難に遭われた)
京畿道地域とソウルの四つの警察部を管轄する日本の京畿道警察部は、悪名高いことで有名だった。真のお父様は、収監されていた期間、ありとあらゆる激しい拷問を受け、血を吐くほどむち打たれた。(真の父母経725ページ)
日本人から何度も拷問を受けました。彼らの拷問はとてもひどいものでした。今の若い人たちを捕まえて、あの時のように焼きごてを当てながら拷問すれば、していないことも「した」と言ってしまうでしょう。(真の父母経725ページ)
私は、日本統治下で学校に通いながら闘った人です。私が監獄に入れられ、口を割ってしまえば、70人の同志たちの首が飛ぶようになっていました。・・・・すべてが私の一言にかかっているので、死んだとしても絶対に口を開くことはできませんでした。角材で身の毛がよだつ拷問を受けても、話さなかったのです。(真の父母経726ページ)
日本統治下で、私は十二時間近く拷問を受けて血を吐いたこともあり、十五分間で人を狂わせる、生涯忘れられない拷問も受けました。それでも、奇跡的に生きて出てきたのです。
しかし、私は、彼らに対して怨讐のように接することはしませんでした。彼らに福を祈ってあげてから行く責任が私に残っているので、彼らの何を見て福を祈ってあげるかを、その監房で悩み、研究したのです。
それでも、人には良心があるので、私を拷問した人が、朝、人々がすべて出ていったあとで、誰にもわからないように謝罪するのです。それを見ると、人間は誰もが同じです。彼らも、良心はだますことができないというのです。(真の父母経729ページ)
(1945年02月 京畿道警察部から釈放)
1946年06月06日 北朝鮮平壌到着、08月11日大同保安署収監
(iyo )20世紀に入り、平壌は「東洋のエルサレム」と言われるほどに、キリスト教が発展しました。内村鑑三もその劇的に広がる様をみて、「神は朝鮮を愛し、軍隊と軍艦よりも力のある聖霊を送られた・・・・」と書いています。
しかし、その後共産化されます。
真のお父様の伝導集会は神霊的な恩賜に満ち、多くの信者が押し寄せた。すると、キリスト教の指導者たちによる密告と共産政権の宗教弾圧がかみ合い、平壌到着から二か月後の八月十一日、真のお父様は、韓国政府のスパイであるなどの容疑で、大同保安署に収監された。(真の父母経729ページ)
(27歳の頃)私は平壌の景昌里(キョンチャンニ)という所にいたのですが、それぞれの教会では「景昌里に行くとハンサムな異端の男がいるが、彼の話を聞いただけでだまされてしまう」といううわさが立ちました。特に「女性たちは行ってはならない」と、大々的に宣伝されたのです。
(iyo )先生の路程をみる時、キリスト教牧師たちの妬みというものがいつも大きな影響を与えています。日本留学から韓国へ戻って、まもなく北朝鮮に渡ったのも、南のキリスト教会が先生を受け入れなかったのが原因になっていますし、平壌でも多くの信徒が集まってきたため、妬まれてあらぬ罪を着せられました。既成キリスト教会から見れば「ひつじ(信徒のこと)どろぼう」です。
統一教会の看板を掲げて以後も、日本での布教に於ても、いつもこの「妬み」が付きまといます。
2000年前、イエス様が十字架につけられるときも・・・・「彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである。」マタイ27/18
共産党の統治下にある北朝鮮に入っていったのですが、すぐに捕まりました。私が南から来たので、李承晩(イスンマン)の手先だというのです。しかし、いくら調査をしてみても、根拠をつかむことができませんでした。それで「男のムーダン(霊媒)である」とか、「社会を乱す」などと言って捕まえ、閉じ込めたのです。
その時、本当に何度もむちで打たれました。拷問もたくさん受け、ひどい扱いをたくさん受けました。(真の父母経730ページ)
1946年11月21日 大同保安署釈放 半死半生の状態
「瀕死の状態に陥っていたため、亡くなられたあとの問題まで議論していたが、奇跡的に回復された。」(真の父母経732ページ)
1948年02月22日 平壌内務所に拘束 キリスト教団の妬みと誣告のため。
*誣告:故意に事実と異なる内容で人を訴えること。
私が平壌の内務所で公判廷に立つことになった時、北朝鮮にいるキリスト教の牧師たちが来て、ありとあらゆる罵声を浴びせました。(真の父母経734ページ)
1948年04月07日の公判では社会秩序紊乱などの罪で、五年の刑を言い渡された。(真の父母経733ページ)
平壌刑務所にいる時、裁判を受ける日が、本来は1948年04月03日でしたが、共産党が教会を弾圧する口実をつくろうとして期日が遅れ、4月7日になって受けました。その日は、食口たちが一緒に集まりました。しかし、彼らはその時から分裂し始めました。(真の父母経735ページ)
1948年05月20日 平壌刑務所から獄の中の獄と呼ばれる「興南特別労務者収容所」(通称:興南監獄)に移監された(真の父母経736ページ)
(興南監獄は)硫酸アンモニウム肥料工場で、肥料がベルトコンベアに載せられて、広場の真ん中に落ちるようになっています。その肥料をかますに入れて秤に掛け、貨車に積み込む仕事をするのです。熱処理して作るものなので、生産されて出てくる硫酸アンモニウムは熱いのです。それが冷めると塊になります。(真の父母経739ページ)
硫酸アンモニアガスが充満しています。ですから、硫酸アンモニウムが皮膚に溶け込み、絞ると水が出るほどです。どこを絞っても水が出てきます。細胞が、半分は死んでいるというのです。(真の父母経740ページ)
興南は、潮風が吹くと砂利が飛ぶようなところです。ですから、肌が出ているところは、何でもいいので覆いたくなります。突き刺すように入ってくる風が、どれほど怨讐か分かりません。朝早く九百人以上の囚人たちが労働に動員されて出ていくとき、出かける前に検査をします。単衣の服を着た人たちを、明け方五時から七時頃まで二時間以上、その寒いところに座らせておくのですから、どうなるでしょうか。「ウォウォウォウォー」と声を出して震えます。それは本当に痛ましいです。我知らず「ウォウォウォー」と震えるのです。いくら声を出すなと言っても、そうなります。(真の父母経737ページ)
最も困難な仕事はどこにあるのかと考えて、その場所を訪ねていこうとしました。ほかの人たちは最も易しい仕事を求めるのですが、最も困難な仕事を探し回ったのです。これを越えられなければ死ぬと考えました。そうでなければ、共産党やこの世界を制覇するという考えをもつことはできないのです。(真の父母経738ページ)
皆さんは、共産党の監獄での生活がどのようなものか、よく知らないでしょう。ソビエト革命後、多くのソ連人が強制労働に苦しみました。共産主義理論では、彼らの前に、何らかの有産階級や反共産主義分子たちがいてはいけません。共産党は反対者たちをすべて粛清したいのですが、世界の世論のゆえにそうすることができないのです。そこで共産党は、彼らを強制労働に動員して、厳しい労働によって彼らが死ぬ時を待つのです。(真の父母経738ページ)
重労働をさせて死なせるのが共産主義の作戦です。興南の監獄に入ってから三年過ぎると、ほとんどがみな死んで出ていきます。間違いなく三年以内にそうなります。食べ物をろくに与えずに重労働させるので、ここに入ってきた人は、まず死んだも同然です。(真の父母経739ページ)
そこでは、いくらしっかり食べている人たちでも、三年も仕事をすると肺病になります。ならなければうそです。そのようなアンモニアガスが工場の中に満ちているのです。ですから、大体六か月過ぎて咳をすれば、血の混じった痰がでます。必然的に、そうなるようになっています。そこできつい仕事に疲れ果てず、自分の精誠の基盤を築き、蘇生した体をもってこそ持ちこたえられるのですが、普通の若者たちはそれを知りません。(真の父母経740ページ)
そのような中で、仕事ができなければ二級に落ちるのです。かますを縫う仕事をする二級に落ちると、ご飯は半分しかくれません。その次に、それもできなくなれば、縄をなう所に行くことになります。縄をなう所に行くと、ご飯は三分の一にしかなりません。それは死ぬということです。
結局、一握りのご飯をもらうために、必死になって働きに出るのです。夕方、帰ってきて、ほかの人と同じように一握りのご飯をもらうことが一番の希望なのに、その半分や三分の一をもらうことになれば、茫然とするのです。
ですから、死に物狂いで、ご飯のために死ぬまで働かざるを得ないというのです。(真の父母経740ページ)
私はたくさんの人を生かしました。「この工場で働けば、何か月間はこのような症状が起き、また、このような症状も起きる。何か月間はこれこれこのようになるが、この峠を越えられなければ必ず死ぬことになる。だから私の言うことを聞きなさい」と話し、大勢の人がお父様の言葉どおりに生活したおかげで、死にゆく環境の中で生き残りました。その人たちが弟子になったのです。ですから、監獄に行っても、教えてあげなければなりません。(真の父母経745ページ)
・・・・そのような環境の中で、どのように生き残ることができたのでしょうか。人間は肉身だけではありません。もしも囚人たちが、食べ物だけを食べて生きるようになっていたならば、彼らは死んでいたはずです。精神力が重要です。(真の父母経747ページ)
また、働きに行くたびに、常に最も困難な仕事を探して、それをしました。数か月後、最高の労働者とよばれるようになりました。脱出の陰謀を企てることができないように毎日組み替えをしたのですが、組を新しく編成するたびに、囚人たちはみな、この最高の労働者と同じ組になることを願ったのです。(真の父母経748ページ)
興南の監獄にいる時も、体を拭き、毎日のように冷水浴をしました。一日中肥料の山で仕事をしたので、硫酸アンモニウムが体に付いていて、皮膚がただれる可能性があります。そのような体を、夕方に飲むように与えられる水を飲まずに、明け方に起きてその水で手拭いをぬらし、冷水浴をしたのです。「出役(働きに出掛けること)!」という声がして準備するその時間に、サッサッサッサと拭きました。(真の父母経749ページ)
他の人たちは、重労働をして帰ってくると、ご飯を食べるやいなや寝てしまいますが、私はそのまま寝たことがありません。監獄で一緒に生活する人たちは、重労働で疲れて先に寝るので、お父様の寝る姿を見たことがないという話が出たのです。そして、明け方には誰よりも早く起きます。また、夜は必ず一人で運動をします。(真の父母経750ページ)
(1950/06/25 6.25動乱)
(1950/10/14 興南監獄解放)
興南の監獄から出てくる時に付いてきた人は四人です。イエス様は一人で逝きました。しかし、お父様が監獄から出てくる時は、四人が一緒に出てきたのです。(真の父母経762ページ)
(平壌で40日間、弟子を収拾の後、金元弼と朴正華を連れて南下)
以南に下る前に、昔、関係を結んでいたすべての食口たちに会ったのです。監獄に入るとき、彼らが涙を流して悲しんだことが鮮明に思い出されます。私が手錠をかけられ、五年の刑を宣告されて、「五年の間、元気に暮らしてまた会おう」と言った時、涙を流したそのことを思うと、今でも(その場面が)鮮明に浮かびます。監獄から出てきて、み旨の中で結ばれた食口たちを再び糾合するために、年老いた人から若い人に至るまで、思いつくすべての人たちを探しました。(真の父母経763ページ)
そこで私が果たすべき責任は、すべて果たしました。天下のどこに行っても恥ずかしくないというのです。心情の理念をもって歩み始め、心情に受けた傷、私の胸中に植えつけられたすべての傷を抜き取り、新たな心情を神様のみ前に連結させ得るという自身を得てから、初めてそこを離れました。ですから、夜、平壌を出発したのです。
指導者はこのように、慎重に責任を負わなければなりません。死ぬような立場においても、神様が任せてくれた責任分野を終結させていかなければ、その人の行く道が塞がってしまいます。(真の父母経764ページ)
私は、八人の兄弟をすべて捨てた人です。北朝鮮で監獄生活をする時、これからの情勢がどうなるかを予想していた人です。平壌に行って、40日間滞在していましたが、そこから28里(約11キロm)だけ行けば私の故郷です。二日あれば故郷に行ってくることもできましたが、故郷にいる親兄弟たちには会いに行かず、み旨と向き合っていた人たちを一人残らず訪ねていきました。天のみ前に誓った人たちに会うために歩き回ったのです。(真の父母経764ページ)
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