2026年3月24日火曜日

先生の受難路程(ダンベリー刑務所)

 1982/05/18 脱税容疑で、ニューヨーク地方裁判所から有罪判決。1973年から75年までの三年間で、7300ドルの納付義務があるにもかかわらず、脱税したとして、懲役18か月と罰金2万5千ドルを宣告された。
弁護団は、11/3、連邦高等裁判所に控訴し、アメリカの宗教界と民間団体は無罪請願書を相次いで提出した。
1983/09/13、連邦高等裁判所で原審が確定し、1984/05/12、最高裁判所において上告が棄却され、刑がそのまま確定。(真の父母経787ページより抜粋・要約)

1984/07/20 コネティカット州ダンベリーの連邦刑務所に収監

(iyo )アメリカでの監獄は、さすがに日帝時代や第二次大戦直後の監獄とは違って、拷問や過酷な労働のようなものはなかったようです。

私はアメリカに定着した最初の年に、世界各国から送られた宣教献金をニューヨークの銀行に預金しました。アメリカでは宗教活動に使う基金は宗教指導者の名義で銀行口座に入れておくのが伝統的な慣習です。ところが、この銀行口座の預金から発生した三年間の利子所得を、私が所得として申告せず、脱税したと嫌疑をかけて、ニューヨーク連邦検事局は私を起訴しました。(自叙伝p194)

今、アメリカで、お父様が脱税したと言って大騒ぎしています。私がこの国のためにどれほど多くのお金を使ったか分かりません。それは、アメリカが自由世界の中心国家だからです。衛星国家を犠牲にしても、アメリカを保護することによって、世界に公的な基盤を築くためです。アメリカが自由世界の中心なので、自由世界の一部を犠牲にしても、中心国家を生かすことにより、全世界が助かるというのです。(真の父母経787ページ)

今、法廷闘争をしながら「ワシントン・タイムズ」 をつくっています。数千万ドルかかるのですが、そのお金を、世界とアメリカのために投資するのです。共産党を防ぎ、アメリカを救うために投資するのです。
・・・・(中略)・・・・
自由世界とアメリカのためにしたのです。それなのに、一万ドルにもならない所得税を出さないために、陰謀を企てて脱税をしますか。話にもならないというのです。 (真の父母経789ページ)
(iyo )「ワシントン・タイムズ」は、先生がつくった新聞社で、ワシントンでは、「ワシントン・スター」が廃刊になり、リベラルな「ワシントン・ポスト」だけになってしまうのを心配して創刊したとか。

アメリカは私に反対しましたが、私はアメリカを愛しました。アメリカ人以上に国のために生き、国を愛する位置に上がっていかなければなりません。そのようにしなければ、復帰歴史が成就されません。アメリカの国民の中で、自分の国を愛し、そのために尽くす愛国者たちよりも、私がその人々以上にアメリカを愛したという条件を立てられなければ、帰る道がありません。
 ですから、「ワシントン・タイムズ」 を造るとき、最初に支払うお金を法廷のテーブルで決裁したのです。私をたたき潰そうと、すべてが追い立てるその中で、アメリカを生かしてあげるために「ワシントン・タイムズ」 を作りました。(真の父母経811ページ)

・・・・皆さんが私の活動を理解するならば、本当に私が税金を詐取するためにアメリカに来たと信じられるでしょうか。
 事件の発端は、税金問題ではなかったのです。これは、政府による教会内の問題に対する侵害でした。私が有罪判決を受けたのは、私の宗教的な信念と活動以外に、いかなる理由もありません。これから私は、教会の世界本部を、この国のために祈り続けるダンベリー刑務所に移すでしょう。私が神様に感謝することは、人類の歴史上、最も困難な時期に、私を宗教の自由守護のための指導者として、アメリカの霊的な覚醒運動に火をつける道具として用いていらっしゃることです。神様の祝福がアメリカに臨むことをお祈りします。(真の父母経803ページ)

ダンベリー刑務所でのようすは、こちらに書かれています。

(iyo )中南米の赤化防止のため、「ワシントンタイムズ」を通してニカラグアの支援活動もされました。

アメリカのレーガン大統領が、ニカラグアに対する千四百万ドルの支援案を国会に提出しましたが、拒否されました。だからといって、アメリカに住む二億四千万の民がいくらでもいるのに、神様は何がもどかしくて、ダンベリーにいるお父様を夜中に起こし、呼び出して命令を下されるのでしょうか。「あなたがすぐにしなければならない」と言われるのです。・・・・(中略)・・・・責任者たちを呼び寄せ、「ワシントンタイムズが中心となってアメリカ国民を通じて千四百万ドルの募金を集めよう」と言ったのです。「私たちが責任をもとう」と言って立ち上がりました。それをしなければ、一か月以内に、私が即刻、現金で支払うつもりでした。・・・・(中略)・・・・「編集局長に直接電話をかけて伝えなさい」と言いました。そうして、ワシントンタイムズがこの募金運動を行って、ニカラグアを後援したいと思うすべての国民を動員したのです。
 お父様の立場を神様が助けてくださり、巨大なアメリカの世論が七週で完全にひっくり返りました。このようになって、国会で二千七百万ドルの支援案を再度審議して、通過させたのです。(真の父母経812ページ)

ダンベリー刑務所に収監中の1985年2月28日、三十万人以上のアメリカの聖職者たちに、宗教の自由と和合を促す新書と原理講義のビデオテープ、そして「原理講論」をはじめ、み言集を送られた。また、キリスト教の聖職者七千人に対する教育を指示され、彼らを韓国と日本などに招請して、「統一原理」公聴会を実施された。(真の父母経814ページ)

私がアメリカに来た目的は、キリスト教を救うためです。キリスト教の牧師たちを何としてでも動かして、アメリカを神様が願われる方向に導いていきながら、世界のキリスト教を連合し、世界の国家を神様のみ旨の真ん中に引っ張っていこうというのが、神様のみ旨です。ですから、アメリカの教会の牧師たちに対して、神様のみ旨の方向に向かわせることが、私がアメリカに来た目的です。
・・・・(中略)・・・・
新しいアメリカをつくるためには、共産主義に対して勝利しなければならず、家庭破綻と青少年の淪落を防がなければならず、キリスト教の新しい復興を起こさなければならないというのです。そのようにしなければ、アメリカを生かす道がありません。
アメリカは、キリスト教というものが名前だけ残り、人本主義と拝金主義と共産主義が表面に立って国を動かしている立場にあります。今になってようやくアメリカ政府は、これがキリスト教にとって怨讐となり、キリスト教に反対するものになることが分かりました。国会では、宗教に有利な法の条文を何度もひっくり返し、自分たちの側に立って神様とは遠い立場に引っ張っていくことが分かりました。(真の父母経815ページ)

1985年7月4日、ダンベリー連邦刑務所を出所され、ニューヨークの外れにあるブルックリン、ハーフウェイ・ハウスに移監されたのち、残りの刑期を終えられ、1985年8月20日午前零時、完全に出監された。模範囚に選定され、刑期が五か月短縮されたのである。(真の父母経821ページ)

(iyo )ダンベリー刑務所の記録は、それ以前に経験した刑務所の記録とは違い、ずっと後の出来事でもあり、量的にもとても多く掲載されています。内外さまざまな観点から・・・・宗教的、歴史的、個人的、公的にも・・・・書かれています。「獄中での受難が示す教訓」という題名の文章もあります(真の父母経826ページ)。・・・・刑務所の総まとめです。

ここでは、薄情なくらい(?)あっさりと抜粋させていただきました。



2026年3月18日水曜日

先生の受難路程(梨大・延大事件、西大門刑務所)

 1954年の協会創立とともに、摂理の主流は、キリスト教の一世圏から二世圏に移された。大学において、学生たちを中心に、「統一原理」が伝播し始めた。(真の父母経765ページ)

1954年に、統一教会という看板を掛けて出発するようになりました。その時もやはり、韓国において国家的な反対が起こりました。全体が反対しました。監獄に入る事件が起きたのです。(真の父母経779ページ)
 
一世に対する摂理は、一世である当時のキリスト教指導者たちを一つにすることでしたが、彼らが神様のみ旨に反対する立場に立ったので、再び、二世たちを中心とした糾合運動が起きたのです。梨花女子大と延世大の事件は、それゆえに起きました。(真の父母経766ページ)

キリスト教を基盤として出発しなければならないのが統一教会の運命ですが、キリスト教を失ったので、キリスト教と対等な教団を再びつくらなければなりません。それで、キリスト教の二世たち、キリスト教から追い出された二世たちを集めて基盤を築き、苦労させながら歴史的なすべてのものを蕩減していかなければならないのです。(真の父母経767ページ)

1955年の三月から七月の間に、梨花女子大学と延世大学は、統一教会に通っているという理由で、教授と学生たちに「学校か、教会か」という二者択一を迫った。このとき、梨花女子大学の教授五人と学生十四人が、毅然と退職、退学の道を選んだ。そして、延世大学でも、教授一人が退職処分を受け、学生二人が強制退学になった。(真の父母経768ページ)

梨花女子大の事件当時、あと六か月あれば、三百人以上が暮らしていた寮が完全にひっくり返るようになっていました。燎原の火のごとく広がってゆくのを防ぐすべがなく、学校全体がどれほど切迫していれば、学生たちに「二者択一しなさい」と言うでしょうか。(真の父母経769ページ)

当時、梨花女子大と延世大さえ復帰され、反対していなければ、韓国のキリスト教はすべて復帰されるようになっていました。(真の父母経770ページ)

梨花女子大学と延世大学の教授および学生たちの退職・退学事件は、真のお父様の受難へと続いた。キリスト教団体は、統一教会で起きた神霊の役事を、様々な流言飛語で妨害した。1955年7月4日、真のお父様が兵役法違反と徴発特別措置令違反の容疑で警察に連行、拘束される、いわゆる「七・四事件」が起きた。その後、教会幹部の四人も相次いで拘束された。(真の父母経771ページ)

キリスト教徒たちは統一教会に対して、最初はキリスト教の歴史における邪教集団を悪く言いながら、「彼らと同じだ」と言いました。すべてをなすりつけるのです。(真の父母経771ページ)

梨花女子大と延世大の事件の時にも、政府の五大長官(大臣)が出てきてお父様をたたき、統一教会を全滅させようとしました。罪状がないので、兵役忌避でたたこうとするのです。兵役忌避でたたこうとして、彼らは、「年齢を二歳も上げて兵役を逃れようとした」と言いました。ところが、いくら調査してみても、引っ掛かるものがないので、無罪で釈放されたのです。(真の父母経773ページ)  

私が刑務所に入っていれば、我先にと刑務所に面会に行こうとするのです。また、統一教会員たちは、午前八時以降に面会ができるのに、夜中の一時から列をつくって座りながら待っているのです。それが、西大門刑務所での記録です。ですから、人々が「人々を狂わせるにしても、どうやったらあそこまで狂わせることができるのか」と言ったのです。午前八時が過ぎてから面会ができるのに、夜中の一時から列をつくっているというのです。(真の父母経775ページ)

1955年10月4日、真のお父様は、ソウル地方裁判所で無罪判決を受け、釈放された。(真の父母経778ページ)

大勢の人たちが、「統一教会の文何某は裸になって踊る」と言いますが、私が本当に裸になって踊って批判されたのなら、恨むこともないのです。裸になって踊るのを見物したこともないのに、裸になって踊る魁首にさせられています。そのようにして、大韓民国の国民が福を受けられるなら、それは善いことです。
 ですから、すべてを甘受しようというのです。彼らが民族を愛し、国を愛する愛国心の発露からそのようにしたのであれば、私がそれを神様のみ前に神聖で義なるものとして紹介してあげましょう。(真の父母経780ページ)

平凡なことをも、絶対的な価値の基準に上げるのは、受難の境地でのみ可能です。皆さんが、獄中生活の中や、厳しい飢饉の状況に立たされれば、分かるでしょう。試練や受難は悪いことではありません。試練や受難の中で、生命の価値を立てていく力と希望と欲求をもった人にとっては、その試練と受難の困難が、困難としてだけで終わるのではなく、未来における喜びの刺戟となり得るのです。また、未来の喜びだけでなく、希望の国を訪ねていくことができます。
 困難を克服しようとする希望をもっていれば、その場から喜びの天国を成就することができます。困難を克服しなければ、どんな希望も成就されないので、愛の神様は、この先に迫りくる試練の舞台を克服できるように、人間を鍛錬させるのです。ですから、その鍛錬の過程は、鍛錬自体で終わるのではなく、喜びの刺戟をより価値あるものとして感じられる、一つのプレゼントとして下さった受難の道だというのです。このように考えるとき、その受難は悪いことではなく、困難も悪いことではありません。それが、私たちの幸福の基盤となり、あすの幸福を相続できる要因になるのです。(真の父母経781ページ)

今までの歴史の過程を見る時、歴史の主人公は、その時代で受難の峠を克服しながら、その国の希望を抱いて闘ってきた人たちです。そのような人たちが、歴史の主人公です。聖賢たちは、天意に従い、人間の世の中で肯定するものを否定するのみならず、世の中の方向を変え、希望の世界に向かって自分の一身を捨てて、その理念とともに環境の試練を克服してきた人です。
 その聖賢の人生は悲惨ですが、その心の内で受けたすべての苦しみが、かえって喜びの世界と関係を結ばせる動機になったのです。(真の父母経782ページ)

1957/08/15 韓国語版「原理解説」発行
1958/07/15 崔奉春日本宣教師派遣
1959/01/02 金永雲アメリカ宣教師派遣

2026年3月5日木曜日

先生の受難路程(日本留学~興南監獄)

 統一教会の看板を掲げる前の、先生の個人レベルでの受難についての記述を拾ってみましたが、やはり教会のことをある程度知る人でないと理解に無理があるように思います。先生の自叙伝を読む時にも感じることですが、一般のかたなら、たぶん「なぜ?、どうしてそんなに?」という疑問が湧いてしまうでしょう。
宗教は独特の考え方をすることが多く、ここではほんの一部なので、一般の方からみればなおさら「断片」と言わざるを得ません。

真のお父様は、生涯で六度にわたり、無辜の苦難を味わわれた。日本統治下で一度、北朝鮮の共産治下で三度、大韓民国で一度、そしてアメリカで一度の監獄生活をされ、その期間だけでも五年に及ぶ・・・・(中略)・・・・
特に興南監獄では、寒さと飢えは言うまでもなく、窒素肥料の硫酸アンモニウムをかますに入れて運ぶという、過酷な重労働に苦しまなければならなかった。(真の父母経721ページ)

(iyo )日本では1941年04月から1943年9月まで、早稲田大学(当時は、早稲田大学付属早稲田高等工学校電気工学科)に留学もしていました。

上海臨時政府を中心として地下運動をしました。・・・・韓国を中心として三カ国を往来しながら独立運動をしたというのが、特高警察の記録に残っているので、今では誰もが認めるのです。・・・・いつも刑事たちが付きまといました。(真の父母経722ページ)

(1943年10月中旬 帰国)

(1944年10月、京畿道警察部に拘束され、翌年2月まで苦難に遭われた)

京畿道地域とソウルの四つの警察部を管轄する日本の京畿道警察部は、悪名高いことで有名だった。真のお父様は、収監されていた期間、ありとあらゆる激しい拷問を受け、血を吐くほどむち打たれた。(真の父母経725ページ)

日本人から何度も拷問を受けました。彼らの拷問はとてもひどいものでした。今の若い人たちを捕まえて、あの時のように焼きごてを当てながら拷問すれば、していないことも「した」と言ってしまうでしょう。(真の父母経725ページ)

私は、日本統治下で学校に通いながら闘った人です。私が監獄に入れられ、口を割ってしまえば、70人の同志たちの首が飛ぶようになっていました。・・・・すべてが私の一言にかかっているので、死んだとしても絶対に口を開くことはできませんでした。角材で身の毛がよだつ拷問を受けても、話さなかったのです。(真の父母経726ページ)

日本統治下で、私は十二時間近く拷問を受けて血を吐いたこともあり、十五分間で人を狂わせる、生涯忘れられない拷問も受けました。それでも、奇跡的に生きて出てきたのです。
しかし、私は、彼らに対して怨讐のように接することはしませんでした。彼らに福を祈ってあげてから行く責任が私に残っているので、彼らの何を見て福を祈ってあげるかを、その監房で悩み、研究したのです。
それでも、人には良心があるので、私を拷問した人が、朝、人々がすべて出ていったあとで、誰にもわからないように謝罪するのです。それを見ると、人間は誰もが同じです。彼らも、良心はだますことができないというのです。(真の父母経729ページ)

(1945年02月 京畿道警察部から釈放)

1946年06月06日 北朝鮮平壌到着、08月11日大同保安署収監
(iyo )20世紀に入り、平壌は「東洋のエルサレム」と言われるほどに、キリスト教が発展しました。内村鑑三もその劇的に広がる様をみて、「神は朝鮮を愛し、軍隊と軍艦よりも力のある聖霊を送られた・・・・」と書いています。
しかし、その後共産化されます。

真のお父様の伝道集会は神霊的な恩賜に満ち、多くの信者が押し寄せた。すると、キリスト教の指導者たちによる密告と共産政権の宗教弾圧がかみ合い、平壌到着から二か月後の八月十一日、真のお父様は、韓国政府のスパイであるなどの容疑で、大同保安署に収監された。(真の父母経729ページ)

(27歳の頃)私は平壌の景昌里(キョンチャンニ)という所にいたのですが、それぞれの教会では「景昌里に行くとハンサムな異端の男がいるが、彼の話を聞いただけでだまされてしまう」といううわさが立ちました。特に「女性たちは行ってはならない」と、大々的に宣伝されたのです。

(iyo )先生の路程をみる時、キリスト教牧師たちの妬みというものがいつも大きな影響を与えています。日本留学から韓国へ戻って、まもなく北朝鮮に渡ったのも、南のキリスト教会が先生を受け入れなかったのが原因になっていますし、平壌でも多くの信徒が集まってきたため、妬まれてあらぬ罪を着せられました。既成キリスト教会から見れば「ひつじ(信徒のこと)どろぼう」です。
統一教会の看板を掲げて以後も、日本での布教に於ても、いつもこの「妬み」が付きまといます。
2000年前、イエス様が十字架につけられるときも・・・・「彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである。」マタイ27/18

共産党の統治下にある北朝鮮に入っていったのですが、すぐに捕まりました。私が南から来たので、李承晩(イスンマン)の手先だというのです。しかし、いくら調査をしてみても、根拠をつかむことができませんでした。それで「男のムーダン(霊媒)である」とか、「社会を乱す」などと言って捕まえ、閉じ込めたのです。
その時、本当に何度もむちで打たれました。拷問もたくさん受け、ひどい扱いをたくさん受けました。(真の父母経730ページ)

1946年11月21日 大同保安署釈放 半死半生の状態
「瀕死の状態に陥っていたため、亡くなられたあとの問題まで議論していたが、奇跡的に回復された。」(真の父母経732ページ)

1948年02月22日 平壌内務所に拘束 キリスト教団の妬みと誣告のため。
 *誣告:故意に事実と異なる内容で人を訴えること。
私が平壌の内務所で公判廷に立つことになった時、北朝鮮にいるキリスト教の牧師たちが来て、ありとあらゆる罵声を浴びせました。(真の父母経734ページ)

1948年04月07日の公判では社会秩序紊乱などの罪で、五年の刑を言い渡された。(真の父母経733ページ)

平壌刑務所にいる時、裁判を受ける日が、本来は1948年04月03日でしたが、共産党が教会を弾圧する口実をつくろうとして期日が遅れ、4月7日になって受けました。その日は、食口たちが一緒に集まりました。しかし、彼らはその時から分裂し始めました。(真の父母経735ページ)

1948年05月20日 平壌刑務所から獄の中の獄と呼ばれる「興南特別労務者収容所」(通称:興南監獄)に移監された(真の父母経736ページ)

(興南監獄は)硫酸アンモニウム肥料工場で、肥料がベルトコンベアに載せられて、広場の真ん中に落ちるようになっています。その肥料をかますに入れて秤に掛け、貨車に積み込む仕事をするのです。熱処理して作るものなので、生産されて出てくる硫酸アンモニウムは熱いのです。それが冷めると塊になります。(真の父母経739ページ)

硫酸アンモニアガスが充満しています。ですから、硫酸アンモニウムが皮膚に溶け込み、絞ると水が出るほどです。どこを絞っても水が出てきます。細胞が、半分は死んでいるというのです。(真の父母経740ページ)

興南は、潮風が吹くと砂利が飛ぶようなところです。ですから、肌が出ているところは、何でもいいので覆いたくなります。突き刺すように入ってくる風が、どれほど怨讐か分かりません。朝早く九百人以上の囚人たちが労働に動員されて出ていくとき、出かける前に検査をします。単衣の服を着た人たちを、明け方五時から七時頃まで二時間以上、その寒いところに座らせておくのですから、どうなるでしょうか。「ウォウォウォウォー」と声を出して震えます。それは本当に痛ましいです。我知らず「ウォウォウォー」と震えるのです。いくら声を出すなと言っても、そうなります。(真の父母経737ページ)

最も困難な仕事はどこにあるのかと考えて、その場所を訪ねていこうとしました。ほかの人たちは最も易しい仕事を求めるのですが、最も困難な仕事を探し回ったのです。これを越えられなければ死ぬと考えました。そうでなければ、共産党やこの世界を制覇するという考えをもつことはできないのです。(真の父母経738ページ)

皆さんは、共産党の監獄での生活がどのようなものか、よく知らないでしょう。ソビエト革命後、多くのソ連人が強制労働に苦しみました。共産主義理論では、彼らの前に、何らかの有産階級や反共産主義分子たちがいてはいけません。共産党は反対者たちをすべて粛清したいのですが、世界の世論のゆえにそうすることができないのです。そこで共産党は、彼らを強制労働に動員して、厳しい労働によって彼らが死ぬ時を待つのです。(真の父母経738ページ)

重労働をさせて死なせるのが共産主義の作戦です。興南の監獄に入ってから三年過ぎると、ほとんどがみな死んで出ていきます。間違いなく三年以内にそうなります。食べ物をろくに与えずに重労働させるので、ここに入ってきた人は、まず死んだも同然です。(真の父母経739ページ)

そこでは、いくらしっかり食べている人たちでも、三年も仕事をすると肺病になります。ならなければうそです。そのようなアンモニアガスが工場の中に満ちているのです。ですから、大体六か月過ぎて咳をすれば、血の混じった痰がでます。必然的に、そうなるようになっています。そこできつい仕事に疲れ果てず、自分の精誠の基盤を築き、蘇生した体をもってこそ持ちこたえられるのですが、普通の若者たちはそれを知りません。(真の父母経740ページ)

そのような中で、仕事ができなければ二級に落ちるのです。かますを縫う仕事をする二級に落ちると、ご飯は半分しかくれません。その次に、それもできなくなれば、縄をなう所に行くことになります。縄をなう所に行くと、ご飯は三分の一にしかなりません。それは死ぬということです。
結局、一握りのご飯をもらうために、必死になって働きに出るのです。夕方、帰ってきて、ほかの人と同じように一握りのご飯をもらうことが一番の希望なのに、その半分や三分の一をもらうことになれば、茫然とするのです。
ですから、死に物狂いで、ご飯のために死ぬまで働かざるを得ないというのです。(真の父母経740ページ)

私はたくさんの人を生かしました。「この工場で働けば、何か月間はこのような症状が起き、また、このような症状も起きる。何か月間はこれこれこのようになるが、この峠を越えられなければ必ず死ぬことになる。だから私の言うことを聞きなさい」と話し、大勢の人がお父様の言葉どおりに生活したおかげで、死にゆく環境の中で生き残りました。その人たちが弟子になったのです。ですから、監獄に行っても、教えてあげなければなりません。(真の父母経745ページ)

・・・・そのような環境の中で、どのように生き残ることができたのでしょうか。人間は肉身だけではありません。もしも囚人たちが、食べ物だけを食べて生きるようになっていたならば、彼らは死んでいたはずです。精神力が重要です。(真の父母経747ページ)

また、働きに行くたびに、常に最も困難な仕事を探して、それをしました。数か月後、最高の労働者とよばれるようになりました。脱出の陰謀を企てることができないように毎日組み替えをしたのですが、組を新しく編成するたびに、囚人たちはみな、この最高の労働者と同じ組になることを願ったのです。(真の父母経748ページ)

興南の監獄にいる時も、体を拭き、毎日のように冷水浴をしました。一日中肥料の山で仕事をしたので、硫酸アンモニウムが体に付いていて、皮膚がただれる可能性があります。そのような体を、夕方に飲むように与えられる水を飲まずに、明け方に起きてその水で手拭いをぬらし、冷水浴をしたのです。「出役(働きに出掛けること)!」という声がして準備するその時間に、サッサッサッサと拭きました。(真の父母経749ページ)

他の人たちは、重労働をして帰ってくると、ご飯を食べるやいなや寝てしまいますが、私はそのまま寝たことがありません。監獄で一緒に生活する人たちは、重労働で疲れて先に寝るので、お父様の寝る姿を見たことがないという話が出たのです。そして、明け方には誰よりも早く起きます。また、夜は必ず一人で運動をします。(真の父母経750ページ)

(1950/06/25 6.25動乱)
(1950/10/14 興南監獄解放)

興南の監獄から出てくる時に付いてきた人は四人です。イエス様は一人で逝きました。しかし、お父様が監獄から出てくる時は、四人が一緒に出てきたのです。(真の父母経762ページ)

(平壌で40日間、弟子を収拾の後、金元弼と朴正華を連れて南下)

以南に下る前に、昔、関係を結んでいたすべての食口たちに会ったのです。監獄に入るとき、彼らが涙を流して悲しんだことが鮮明に思い出されます。私が手錠をかけられ、五年の刑を宣告されて、「五年の間、元気に暮らしてまた会おう」と言った時、涙を流したそのことを思うと、今でも(その場面が)鮮明に浮かびます。監獄から出てきて、み旨の中で結ばれた食口たちを再び糾合するために、年老いた人から若い人に至るまで、思いつくすべての人たちを探しました。(真の父母経763ページ)
そこで私が果たすべき責任は、すべて果たしました。天下のどこに行っても恥ずかしくないというのです。心情の理念をもって歩み始め、心情に受けた傷、私の胸中に植えつけられたすべての傷を抜き取り、新たな心情を神様のみ前に連結させ得るという自身を得てから、初めてそこを離れました。ですから、夜、平壌を出発したのです。
指導者はこのように、慎重に責任を負わなければなりません。死ぬような立場においても、神様が任せてくれた責任分野を終結させていかなければ、その人の行く道が塞がってしまいます。(真の父母経764ページ)

私は、八人の兄弟をすべて捨てた人です。北朝鮮で監獄生活をする時、これからの情勢がどうなるかを予想していた人です。平壌に行って、40日間滞在していましたが、そこから28里(約11キロm)だけ行けば私の故郷です。二日あれば故郷に行ってくることもできましたが、故郷にいる親兄弟たちには会いに行かず、み旨と向き合っていた人たちを一人残らず訪ねていきました。天のみ前に誓った人たちに会うために歩き回ったのです。(真の父母経764ページ)



モスクワ大会、先生とゴルバチョフ大統領との出会い

 1990年4月9日から13日まで、ワシントン大会の直後に宣言されたモスクワ大会を開催された。モスクワ国際貿易センター で開催されたこの大会では、元職・現職国家首班四十数人をはじめ、六十カ国から来た言論人、政治家、学者など、六百人以上が参加する中、第十一回「世界言論人会議」と第三...