2026年4月9日木曜日

モスクワ大会、先生とゴルバチョフ大統領との出会い

 1990年4月9日から13日まで、ワシントン大会の直後に宣言されたモスクワ大会を開催された。モスクワ国際貿易センター で開催されたこの大会では、元職・現職国家首班四十数人をはじめ、六十カ国から来た言論人、政治家、学者など、六百人以上が参加する中、第十一回「世界言論人会議」と第三回「世界平和サミット」、第九回「中南米統合機構」会議などが行われた。(真の父母経903ページ)

1990年4月、私は世界言論人会議の主催者としてモスクワに乗り込みました(同時に行われた世界平和頂上会議、ラテンアメリカ統一連合国際会議を合わせて「モスクワ大会」と呼ぶ)。意外にもソ連政府は、空港から国家元首級の待遇をしてくれました。警察のエスコートを受けてモスクワ市内に入っていきました。私の乗った自動車が、普段は誰も使うことができず、大統領と国賓だけが通ることのできる中央の黄色い「黄金路」を走りました。その時はまだソ連は崩壊しておらず、冷戦が継続している時代だったのに、反共主義者の私を非常に手厚く迎えてくれたのです。(自叙伝p254)

モスクワ大会について、ノーボスチ通信社が「予想よりも十倍以上、成功した」と言っています。想像を覆したというのです。ソ連の歴史上にない、記録破りの大会でした。また、今回のことで、ソ連のKGBや政治局、ノーボスチ通信をはじめとする言論界などの各界の機関長たちが驚いたというのです。どのようにして、あのようなことをやってのけるのかというのです。共産党が一番だと思っていたのですが、覚醒したのです。
そのような意味で、お父様を本当に尊敬していたというのです。ノーボスチ通信社の貴賓として正式に招請され、プレゼントを贈呈されました。非常に感謝していたというのです。(真の父母経904ページ)

三大不可思議とは何かといえば、
第一はお父様が、オクチャプリスカヤというホテルに滞在したということです。そのホテルはキューバのカストロや北朝鮮の金日成主席のような人々が行って滞在する所です。そこにお父様が泊まっていたという事実が不可思議なことです。
第二は、お父様がゴルバチョフに会ったということが不可思議です。お父様を捕まえて命を奪おうとひそひそ話し合っていた人たちが、なぜそのようにできるのかというのです。言い換えれば、ゴルバチョフがどうしてお父様に会うことになったのかということです。
第三は、ノーボスチ通信社と私たちが共同で言論人大会を主催したという事実です。これは、ソ連共産党の73年の歴史であり得ない事実なのです。(真の父母経906ページ)

なぜゴルバチョフがお父様に会えば喜び、幹部たちもお父様を好むのでしょうか。ソ連を生かしてあげるためにきた人だからです。そのために借金を背負っている人がお父様です。借金をしても、その国を生かしてあげようとする人、借金をしてでも、ゴルバチョフを生かしてあげようとする人は、歴史時代にクレムリン宮殿を訪問した政治家や外交官の中にもいないでしょう。(真の父母経906ページ)

ソ連訪問の一週間の期間に、ソ連の内部が完全にお父様と連結されました。ゴルバチョフを中心として、核心要員、重要なメンバーたちが連結されたのです。(真の父母経906ページ)

(iyo )これは私が聞いた話なので、「どこに記述があります」と言えるわけではありませんが、こんな逸話が・・・・
上記の記述から判断すると、接待のために用意された部屋はとても立派なものだったようですが、それでもソ連らしく、盗聴器は仕掛けられていたようです。側近の一人が先生にその旨伝え、注意を促したところ、先生は「それはいいね!」と言われて、盗聴器に向けて原理講義のような、いつも教会員に話すことを話し始められたとか!
当然、その部屋でも早朝や就寝前には大声を出してお祈りをする時間を持ったり、翌日の行動予定など打合せしたことでしょうから、全てが筒抜けだったと思います。そういうあけっぴろげな行動が、相手に大きなインパクトを与えたのだとか。

当時、ペレストロイカ政策が成功し、ソ連国内でのゴルバチョフの人気はとても高いものでした。
・・・・(中略)・・・・
私には彼に会って話すことがあったので、必ず会いたいと思っていました。ゴルバチョフがソ連を改革して共産世界に自由の風が吹きましたが、時が経つにつれて、改革の刃は彼の背中を狙うようになっていました。このまま行けば、すぐに大きな危険に遭遇してしまうところだったのです。
「彼が私に会わなければ天運に乗る道がなく、天運に乗らなければ彼は生き延びることができない」
私が心配しているという話がゴルバチョフ大統領の耳に入ったのか、彼はその翌日(4月11日)、モスクワのクレムリン宮殿に私を招待しました。ソ連政府が送ってくれたリムジンに乗ってクレムリン宮殿の奥に入っていきました。まず大応接室に入って、私たち夫婦が座り、その横に前・元職の各国大統領・首相らがテーブルを囲んで座りました。ゴルバチョフ大統領は、ペレストロイカの成功を満面の笑みで熱心に説明しました。それが終わると、いよいよ単独会談です。大統領執務室に場所を移すと、私は時を逃さずにゴルバチョフ大統領に言いました。「大統領はペレストロイカですでに素晴らしい成功を収めていらっしゃいますが、それだけでは十分な改革はできません。今すぐこの地に『宗教の自由』を呼び起こしてください。それこそが国を救う道です。・・・・(中略)・・・・
ゴルバチョフ大統領は少なからず当惑し、顔がこわばりました。しかし、「ベルリンの壁」崩壊を容認した人らしく、すぐにこわばった顔をゆるめ、私の言葉を真摯に受け入れました。・・・・(自叙伝256ページ)

それから4年後、ゴルバチョフ前大統領はソウルを訪問し、漢南洞の私の家を訪ねてきました。その時はすでに権力の座を去って、在野の人になっていました。1991年8月、ペレストロイカに反対する反改革派のクーデターが起きた後、彼は兼任していた共産党書記長を辞任し、ソ連の共産党を解体しました。共産主義者の彼が自分の手で共産党をなくしてしまったのです。・・・・(中略)・・・・権力の座から退いたゴルバチョフ氏とライサ夫人は、その間に随分と変わっていました。かつてモスクワ大学でマルクス・レーニン主義を講義していたほどの徹底した共産主義者だったライサ女史の首には、十字架のネックレスが光っていました。・・・・(中略)・・・・
私は戦争なしに、血を流すことなしに、共産主義の宗主国たるソ連の解体をやり遂げたゴルバチョフ前大統領の決断を高く褒めたたえました。・・・・(自叙伝258ページ)



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