真の平和は、知識や富、そして社会的地位や政治的権力のような外的な条件にかかっているのではありません。世の中では、世界的関心事を公平に判断する絶対的基準がないので、変化する世界の中で衝突する利害関係に縛られ、真の平和の維持が不可能なのです。真の平和は、真の愛の基盤の上にのみ立てられるのであり、愛の関係は、人類を一つに結ぶ神様を中心とした絶対価値を理解するときにこそ、体験することができるのです。(天聖経1055ページ)
歴史始まって以来、人類は、平和を念願してきましたが、この地には、依然として戦争が存続しています。不幸にも、強大国や権力者たちは、時として「平和」という言葉を誤用してきました。彼らは、平和を語りながらも、実際には、人々を平和でないものによって苦しめてきました。特に共産主義者たちは、挑発しながらも「平和」という言葉を口癖のように使ってきました。
このように「平和」という言葉は、不義を実現する手段として何度も利用されてきたのです。(天聖経1055ページ)
喜びと幸福というものは、一人を対象として語る言葉ではありません。幸福も、相対的関係を対象として語る言葉です。母と子の間において、二人が一つになるところに幸福があるのです。「平和」という文字自体が、平らに和合するということであり、既に相対性を含んでいるのです。
「平和」や「幸福」という言葉は、独自的な立場を対象として語る言葉ではなく、相対圏との関係を対象として語る言葉なのです。
「平和」とは相対的な言葉です。二つは和合することによって平らになるのであって、「独平」ではありません。相手と同等の立場において、お互いに好意をもってこそ幸福だというのです。「自由だ」と言っても、愛を除いて自由がありますか。(天聖経1056ページ)
平和は、水平になって和合することをいいます。平和は、独りで成し遂げることができません。これは、上下関係、左右関係など、すべてが和合して喜ぶことができ、すべてのものが片寄らないで円満でなければなりません。そうしてこそ平和だというのです。(天聖経1056ページ)
こんにちまで人間は、輝かしい科学の発展を遂げることによって、創造的な生活面においては神様に似るようになったということができますが、愛の生活においては、全く神様に似ることができていません。ですから、悲しみと苦痛と不幸が継続しているのです。愛は調和なので、愛がないところに調和はあり得ず、調和がないところに平和や幸福もまたあり得ません。(天聖経1057ページ)
(iyo )こうして書き出した文章を見ると、殆どが同じ場所からの引用になっていました。・・・・もう少し別の方へ舵を切ってみましょう。
これまで人間は、平和を叫んでいただけであって、その真の平和の意味を知ることができませんでした。平和の真の哲学をもてなかったのです。ですから、真の平和を成し遂げる方法が現れなかったのです。貴賓の皆様、その理由は、分かってみると簡単なことです。人間は神様を見失うことによって、平和をも失ってしまいました。また人間は、神様を差し置いて、人間同士で平和を見い出そうとしたのです。それは根本的な誤りであり、それが真の平和を得られない根本的理由なのです。
全知全能であられる神様は、愛の神様であられ、平和の神様であられます。その神様が、互いに争い、命を奪い合う世界をつくられたはずは絶対にありません。神様は、人間を神様の形状どおりに造られ、人間は正しく神様の聖なる霊が住まわれる家のような聖殿として造られたのです。
人間一人一人が神様の聖殿として、神様をお連れして暮らす家として完成したならば、どうして人間同士の闘争と殺戮がありうるでしょうか。・・・・(中略)・・・・
そこには葛藤があり得ず、誤解もあり得ず、美しい協調と相互協助でただただ和睦団結して、美、真、善を追求する平和の世界のみが永続するのです。その世界は神様に似た世界であり、神様の理想と本質のために生きる世界なのです。 (平和経1357ページ)
人間の良心は、神様を代表する心です。良心は自分のために存在しません。天の義のために存在します。良心は常に善に向かって走ろうとします。それに対して体は反抗します。体は自分だけが安らかであろうとし、利己的であり、本能的欲求に従って肉欲のままに行おうとします。良心はこの体を叱責し、心に従わせようとします。ここに常に血の出るような葛藤と闘争が、一つの体の中で起こるようになるのです。
ですから、昔から歴史を通じて、すべての宗教は自分の体を打つ道を教えてきました。宗教とは、肉欲を制御し、体を心に屈服させる道場なのです。人間を創造本然の人間へと引っ張ってゆく道場です。
しかし、神様を自分の内に迎えることができなければ、誰一人として自分の体を征服できる人はいません。ひたすら神様の真の愛と真理の力を中心としてこそ、主体である心は対象である体を従わせ、神様と一体理想を完成するようになっているのです。これが、宗教が語る完成した人間なのです。(平和経1360ページ)
神様を中心として体を屈服させ、完成した男性と女性、すなわち、善男善女が神様の祝福を受け、夫と妻として結ばれるとき、地上に天が計画された理想的な一つの家庭が出発するのです。そしてその理想家庭は、理想的社会、国家、世界の基礎になるのです。
「家和万事成(いえわしてばんじなる)」という言葉があります。一つの家庭が平和であるならば、万事がうまくいくという言葉です。完成した家庭は平和の家庭であり、それは天国の基礎となります。家庭の原動力は真の愛です。自分よりも神様、あるいは対象を命のように愛する、純粋で美しい犠牲的な愛、それが真の愛なのです。神様はこの宇宙に、真の愛の力よりも大きい力を創造されませんでした。真の愛は神様の愛なのです。
神様は万物と人間の創造のために、すべての力を投入されました。すべてを投入し、また投入されました。他のものは投入すれば、すべて消耗しますが、真の愛だけは投入すれば投入するほど、もっと盛んになり生み出されます。真の愛は百を投入すると百二十が返ってきます。ですから、真の愛を実践する人は、滅びるように見えても、滅びることなく永遠に栄えながら永生するのです。
このように、真の愛で築かれた家庭が基礎となって社会が形成され、国家が形成され、世界が形成されます。そのような社会、国家、世界は、真の愛が原動力となる相互奉仕の社会であり、国家であり、世界です。そこには葛藤の代わりに和睦が、誤解の代わりに理解が、分裂の代わりに団結が、自分の利益の追求の代わりに全体の利益の追求がある、犠牲と奉仕が美徳になる社会、国家、世界なのです。そのような神様の理想実現が、すなわち真の世界平和の理想なのです。(平和経1360ページ)
自分自身というものは卑しいものだと思っていましたが、私たち個々人によらなければ神様の愛を完成させることができないという事実、「私」自体でなければ、神様の理想を成就させることはできないという事実、神様の幸福と神様の平和を完成させるには、人間でなければならないという明確な事実を、今まで知りませんでした。不足な私ですが、神様の愛を完結させ、理想を完結させ、神様の幸福と平和を完結させることができる高次元的な価値の存在なのです。(天聖経1060ページ)
神様を愛するときには、民族的な隔たりも、いかなる伝統的な隔たりもありません。民族を超越し、伝統を超越し、環境を超越した立場で、万民が共通に愛し得る主体が神様です。
人間が神様と自分との関係を知って、縁を結ぶ立場に進むようになれば、神様を愛さざるを得ないようになっているのです。ですから、神様は一体の場をつくるために、この世界を収拾してきています。それで、まず希望の一点を探し出すために、今まで思想と理念を中心として闘ってきたのです。これが今日、民主と共産の対決にまで至りました。(真の父母経840ページ)
自分が最も愛するものは、自分だけでなく、家族全員が愛し、民族も愛し、さらには、全世界の人類が愛し、天と地、すべての存在が愛するものでなければなりません。それは、自分が愛する息子でもなく、夫婦でもなく、父母でもありません。それは正に神様です。心情の流れる道筋の根として連ねることができ、誰も動かすことができず、変更することができず、引き離すことができない、そのような中心的心情の主体である神様だというのです。(真の父母経840ページ)
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