2022年6月2日木曜日

一つになれば感じない(堕落した状態とは)

 以下、先生の講話より。

何が重要なのでしょうか。
見えるものが重要ですか、見えないものが重要ですか。
見えないものがもっと貴いことを知らなければなりません。
お金、地位、名誉は見ること、または触ることができますが、愛、生命、血統、良心は見ることも触ることもできないのです。
みな持っているのに、なぜ見ることができないのでしょうか。

一つになっているからです。
心と体が絶対的にバランスを維持していれば感じないのです。

皆様。目がまばたきするのを感じながら暮らしていますか。三時間だけ数え続けてみて下さい。
また、呼吸を数えながら暮らしていますか。数えてみれば、途中で忘れてしまいます。
右手を挙げて、左の胸の上に当てて見てください。どういう音がしますか。
鼓動の音、心臓の鼓動の音を感じます。その鼓動の音を一日に何度くらい聞いていますか。

聴診器で聞いてみれば、爆弾が爆発するような音が聞こえるのに、私たちは一週間、一か月ではなく、忙しい時は何か月間もそれを感じないで暮らしています。

小さいハエが一匹だけ頭の上にとまっても、すぐに感じる私たちが、何百倍も大きな鼓動の音がしても、なぜ感じられないのかというのです。

一つになっているからです。

壇上からこのような話をすれば、失礼だと思われるかもしれませんが、実感の出る話なので、幾つか例を挙げてみましょう。
皆様。毎日、朝起きてトイレに行くでしょう。
大便をするとき、マスクを使って大便をしますか。
もし、ほかの人がそばで大便をして、そのような臭いを漂わせれば、すぐに鼻をふさいで何万里でも逃げ出すはずなのに、なぜ自分の大便の臭いはそのまま嗅いで座っていて平気なのでしょうか。
自分の体と一つになっているので、自分の大便を汚く感じないのです。
・・・・(中略)・・・・

愛、生命、血統、良心があっても一つになっていて、完全にバランスを取れば、感じられないのです。
私たち人間がそうであるように、神様も愛、生命、血統、良心、みな持っていますが、独りではそれを感じられません。
完全にバランスを取っているので、感じることができないのです。

ですから、神様も相対が必要なのです。
相対の必要性をここから見つけることができるのです。
(平和経223ページ)

(iyo)ここでは相対の必要性ということでの講話ですが、逆に一つになれない例の代表が堕落ということでしょう。

以下、原理講論の最初の部分・・・・心と体の矛盾について

「幸福はいかにしたら得られるのであろうか。
人間はだれでも、自己の欲望が満たされるとき、幸福を感ずるのである。
しかし欲望などといえば、ややもすると我々はその本意を取り違えがちである。
というのは、その欲望が概して善よりは悪の方に傾きやすい生活環境の中に、我々は生きているからである。

しかしながら、我々をして不義を実らせるような欲望は、決して人間の本心からわき出づるものではない。
人間の本心は、このような欲望が自分自身を不幸に陥れるものであるということをよく知っているので、悪に向かおうとする欲望を退け、善を指向する欲望に従って、本心の喜ぶ幸福を得ようと必死の努力を傾けているのである。
・・・・(中略)・・・・
とりわけ、このような本心の指向する欲望に従って、善を行おうと身もだえする努力の生活こそ、ほかならぬ修道者たちの生活である。

しかしながら、有史以来、ひたすらにその本心のみに従って生きることのできた人間は一人もいなかった。
それゆえ、聖書には「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない」(ロマ三・10、11)と記されているのである。
また人間のこのような悲惨な姿に直面したパウロは
「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」(ロマ七・22~24)と慨嘆したのであった。

ここにおいて、我々は、善の欲望を成就しようとする本心の指向性と、これに反する悪の欲望を達成させようとする邪心の指向性とが、同一の個体の中でそれぞれ相反する目的を指向して、互いに熾烈な闘争を展開するという、人間の矛盾性を発見するのである。
存在するものが、いかなるものであっても、それ自体の内部に矛盾性をもつようになれば、破壊されざるを得ない。
したがって、このような矛盾性をもつようになった人間は、正に破滅状態に陥っているということができる。
・・・・(中略)・・・・
人間のこのような破滅状態のことを、キリスト教では、堕落と呼ぶのである。」

(iyo)「心と体が絶対的にバランスを維持していれば感じない」はずのものを感じている・・・・良心の呵責とか。
それが堕落人間ということになるでしょうか。
逆に、天国というものがあるとしたら、どんなものなのか、かすかに分かるような気もしてきますね。

以下、先生の講話より

絶対的な神様が造られた存在物は、一つの目的をもたなければならないことは間違いありません。それでは、神様の愛を中心として、絶対的な相対の立場に立った人間がこの地にいると思いますか。いません。
絶対的な神様が造ったので、一つの目的を指向する人間になるべきですが、人間を見れば二律背反的な、反対の目的となるもう一つの道に立っているのが分かります。
ある人はこれを、人における主体と対象の関係と見ますが、そうではありません。良心が内的なプラスだとするならば、邪心はまたほかの一つのプラスなのです。ですから反発が起こるのです。
そのような立場に立っているのが、この地上に生きている私たち人間です。
神様が私たちに高貴な偉業としてくださった愛の理念、絶対価値の理念を喪失してしまい、反対の二つの現象世界で呻吟して生きる悲惨な人間だということを知らなければなりません。言い換えれば、故障した人々になっているというのです。
ところが、絶対的な神様は人間に相対するしかないので、このような人間をそのまま放置することができず、歴史過程を通して再生させる運動をしてきたというのです。すなわち、修理工場を造ったのですが、それが宗教なのです。
(平和経362ページ)

私たちの心と体を見たとき、体は悪神サタンの基地になっており、良心は神様の基地になっています。
一般的に、体が心を引っ張りまわすのです。
宗教は、心を引っ張りまわす体を打って、弱めさせようとするものです。
宗教の教えは、体が最も嫌うものを提示します。
「断食しなさい。奉仕しなさい。犠牲になりなさい。祭物になりなさい」と言って、義のために苦行の道を歩み、生命を捧げることまで要求します。
(平和経255ページ)

宗教においては、休まずに祈祷し精誠を捧げることを教えています。
悪魔は、体を横的な舞台として、二十四時間休まずに活動しています。
神様は、縦的な基準に立っていらっしゃるので、縦的な心を通してのみ役事(働き)されます。
心が、横的な体の強い作用に引っ張られていかないようにするためには、心自体が垂直の位置で精誠を捧げることによって、神様から三倍も四倍も力を受ける必要があります。
このような精誠の生活を三年から五年行えば、心が体の環境的、習慣的影響力から自由になることができるのです。
(平和経255ページ)

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