2025年3月28日金曜日

心と体と平和

 皆さんが暮らしている所は、すべて争いの群れです。心と体が争っているので、夫婦を合わせれば、四人の争いの群れになります。十人の家族が暮らせば、二十人の争いの群れになり、三十六億の人類が暮らせば、七十二億の争いの群れです。この中では、平和を夢見ることはできません。神様は、知恵があり、このような道理と事情を御存じなので、平和の基点をどこにおいたのでしょうか。宗教を通して、個人を中心としてこのような運動をするのです。それを見れば、神様は偉大な方だというのです。平和の基点を世界においたのではなく、国においたのではなく、氏族においたのではなく、個人においたというのです。
 個人の心と体の平和を永遠の基点にして、そのようにできる男性と、そのようにできる女性を誕生させ、この地上に一組の男性と女性が完全に統一され、完全なプラスの男性と完全なマイナスの女性が神様の愛の力を中心として完全に一つになった家庭が現れたならば、誰がそれを引き離すでしょうか。そのようにできる力の母体であり、神様の愛を中心として連結された家庭の基盤が、まだこの地球星には顕現していないのです。(天聖経1073ページ)

人類は、平和の世界を願っていますが、数千万年たっても平和になっていません。堕落人間ではできないのです。
平和の主人とは誰でしょうか。家庭が平和になるには、平和の主人である父と母が平和の原因と平和の内容、生活方法を教えなければなりません。その前には、永遠の平和を見いだすことはできません。
 人類の先祖は平和を実現しましたか。アダムとエバは恩讐になりました。その恩讐の血統を受けた皆さんは、心と体の間に闘いが起こっています。心と体がなぜ闘うようになったのでしょうか。心と体が闘うようになったのは、平和の本源地を失ったか、破壊されたためです。心と体の平和の基準を見出せない人々が、平和をどうして探し出すことができますか。闘う人は、家庭から追い出され、国家と世界から追い出されるようになります。今日、人類全体が、心と体が闘っているのに、天国に行くことができますか。いくら修養しても行けません。ですから、宗教の目的は、心と体を統一するところにあるのです。(天聖経1073ページ)

皆様。今日の人間世界での愛は、自己を中心とした愛ですが、それがどこと関係があるかといえば、心ではなく体です。この体が悪魔の錨綱を掛ける杭となっているのです。心が天に代わるプラスの位置にいるのですが、体がもう一つのプラスとなって、こころを弄んでいるのです。これを改めなければならない道が、私たち人間の生涯の義務なのです。これを御存じであられる神様が修理工場としてつくったのが宗教です。したがって、天は「心を中心として、より悪の体があるので、その体を強制的に屈服させなさい」と通告するのです。それで、「断食せよ、犠牲になって奉仕せよ」と言うのです。
体の欲望を弱め、心の言うとおりに従う習慣性を、三年から五年かけて伝授してもらうのです。それが宗教生活です。その次には「絶えず祈りなさい」と言いました。それで、心は環境に引っ張られていきやすいので、中道の位置で精誠を尽くして、三倍、四倍の強い力を受けて体を引っ張っていきながら、習慣化されなければなりません。その二つの方法しか修理する道は絶対にありません。そのような修養の宗教の門を通過しなければ、本然の人間の道を求めていくことができないのです。哲学の道、知識の道、習慣的な良心の道だけではできません。
心と体が一つにならなければなりません。心は縦的であり、体は横的です。しかし、人間が堕落していなければ、最初から心と体は一つになっていたはずですが、神様の本然の理想と一つになることができなくなった事実をつくったのが怨讐です。それが正に堕落した天使長なのです。・・・・
(平和経1229ページ)

 今まで数多くの聖人が生まれては逝きましたが、恩讐がどこにいて、世界平和の基準がどこにあるのか分かりませんでした。悪魔とサタンの戦場が「私」の中にあります。それで、先生は心と体の統一を主張するのです。歴史始まって以来、どの聖人も説明できない理論的な基準において、絶対に心と体が一つにならなければならない、という論理をもって教育しています。
 皆さんの心の中に、皆さん自身が定着しましたか。自分が自分自身を信じることができますか。深刻な問題です。自分自身が自分を信じることができないのに、どうして神様に「分かってください」と言うことができますか。先生に「分かってください」と言えるのかというのです。私の心が私の体を認め、私の体が私の心を認める絶対的な立場に立たなければなりません。神様が私を認めざるを得ない立場に立たなければならないのです。(天聖経1077ページ)
*「悪魔とサタンの戦場が」・・・・ここはどう解釈するのでしょうか?、ミスプリか何か?

 世界平和の基準は、歴史時代の終末点にあるのではなく、「私」の心と体が闘うのを統一させるところにあります。私たちがその位置を所有できないとすれば、理想世界が来ることはありません。
 その世界は、不変の世界なのに、皆さん自身のその変わる姿をもって、不変の自分を所有できますか。それは論理的な矛盾です。絶対不可能なのです。ですから、理想世界を追求するのに先立ち、「私」自身の統一圏、幸福な自我を発見しなければならないのです。(天聖経1077ページ)

 今日、天下を統一したとしても、その統一された世界は、その内部に闘いを内包している統一圏の世界であって、その内部が統一されて外的な統一圏を形成した世界ではありません。ですから、たとえ外的な統一を成し遂げたとしても、その世界はいずれ分かれる結果をもたらします。自由を望み、平和を望んで天国生活を享受しようと思っても、現在の何らかの方法で収拾することでは、それを成し遂げることはできません。根本的な問題は、私たちの個体の統一です。心と体が統一を成し遂げ、その根本となる心が、「この世の中の何ものとも替えることができない幸福の条件をもった」と主張することができ、今、この世界に存在するいかなるものにぶつかっても譲歩せず、壊れることがない中心を備えた人間として出発しなければ、世界平和の起源をもたらすことはできません。(天聖経1078ページ)

 宗教は何をする所かと言えば、人をつくり変える所です。どのようにつくり変えるのでしょうか。体と心が永遠に争わない平和の場で、天宙の大主宰を代表する一つの相対的資格と、実体的神様のような人格的資格をもって、永遠無窮に変わらない人間としての価値を持つ生涯を享受できる人間をつくろうというのです。これを、人間だけがするのではなく、神様と合同作戦を行って完遂しようというのが宗教です。
 人間の本来の主人は、絶対的で統一的な神様です。そして、人間の心は神様に属しているので、磁石のように自然に主体の前に引っ張られていくのです。そのため、人間は高いところをあがめ、絶対的なものを欽慕できる心を啓発してきました。この分野の使命をもって担ってきたのが宗教です。体よりも強い心の主体性を備えて、この体を完全に主導するようにさせることが宗教の使命です。(真の父母経1244ページ)

宗教がすることは二つです。第一は、心に強い力で刺激を与えることです。宗教を信じれば、精神が引き込まれるほどの刺激を受けます。体のあらゆることを忘れてしまえるように、心に強い衝撃を与えることによって、神様がいることを初めて知って、「ああ、主人は神様なのだなあ」ということがわかるように、心に強い力を補給しなければなりません。皆さんは今、心と体の力が同等なので争うのです。心に三倍から五倍くらいの力さえ吹き込めば、心が体に勝つことができます。
第二は、体を打つ力を強化することです。これと、心に強い力を補給することが、宗教の二大役事(働き)です。心を強くしようとすれば、三年間だけ、体を引っ張っていき、心の思うとおりにすればよいのです。(真の父母経1247ページ)

 主体と対象である心と体が1つにならなければなりません。私が修養しながらもっとも苦労したことがそれです。体と心は、簡単には一つにはなりません。一番の問題は、眠ることと食べることです。おなかがすけば、精神が乱れます。眠気に襲われれば、目が言うことを聞きません。その次には、男性として女性に対する問題です。これが三大恩讐です。
 この問題をすべて清算し、きれいにしなければ、天の国に行けません。そのような問題にぶつかるので、標語が「宇宙主管を願う前に、自己主管を完成せよ」だというのです。私がいくら天下を牛耳り、天下を統一すると言っても、私自体の統一を果たせなければ、すべてが一時に崩れるのです。(真の父母経1248ページ)

世の中には、科学で証明できない問題も沢山ありますが、この「心と体」と「平和」の関連性も、今のところはその一つでしょう。よくテレビのニュースなどで見るように、「『〇〇と××』の間には特に関連性は認められない。」というのと似たようなものでしょう。
まともに断定すらできない課題に命がけで取り組むのは、この世的にみれば、よほどのお人好し・・・・?
・・・・でも、漠然と少しはみんなやってることかも。
(平和については、このブログの中で、別に「平和の世界をつくる」という見出しの掲載もあります)

心と体と平和

 皆さんが暮らしている所は、すべて争いの群れです。心と体が争っているので、夫婦を合わせれば、四人の争いの群れになります。十人の家族が暮らせば、二十人の争いの群れになり、三十六億の人類が暮らせば、七十二億の争いの群れです。この中では、平和を夢見ることはできません。神様は、知恵があり...